不知火

前書き
この作品は私が以前書いていたもので投稿するにあたり推敲してまとめたものです。以前は字数制限がある公募に出したのですが、ここに投稿するにあたって自由に書き足しました。読んで頂ければ嬉しく思います。

[美咲‥あなたやっぱり東京へ行くの?東京の私立大学なんて、お母さん達やりきらんよ!]
階下から母千賀子の大きな声が、二階の自室まで響く。美咲はまたかとうんざりし、溜め息をつきながらこの前繰り返した母との口論を再開するのだった。
[奨学金貰えると思うから、それにアルバイトもする。出来るぶんだけ助けてくれたらいい。お父さんだって賛成してくれてるのに、何でお母さんはもう決まったことをいつまでもうじうじ言うと?]
まだ不満そうな表情の母に、美咲は畳み掛けるように言葉を続けた。
[それに、私は一般入試じゃなくて推薦で入れる見込みなのよ。成績優秀なら授業料も全額か半額免除になる可能性は大いにあるって先生にも言われたわ。娘がそれだけいい成績で英検も二級受かってて通訳になる夢があるなら東京の大学に入ってその夢を叶えるべきだって言われて、私もそう思って、東京へ行きたいと思うのは当たり前じゃない!]
[だけど‥]
千賀子はそこで反論すべき言葉がみつからず口を閉ざす。そして決まって淋しげな表情を見せるのだった。

[そんな顔しないで‥]
美咲はいつものことながら母のそんな表情を見るのが堪らなく嫌だったが、母千賀子にとっては無理からぬことだった。実は美咲には美咲以上に優秀で、将来を嘱望されていた二つ年上の兄がいた。二年前の春隣県の国立大学の学生となり、夢も希望もこれから大いに叶えていける筈だった彼は突然の交通事故で無念にも命を奪われたのである。その朝いつものようにバイクで通学していた兄健介は、交差点で起きた多重衝突事故に巻き込まれ、巻き添えを食らう形で一人だけ命を奪われたのだった。高校生になったばかりの美咲は両親、特に母の悲しむ様を具に見ていた。兄の将来に両親がどれだけ期待していたか‥それがわかるだけに自慢の息子を亡くした悲しみが二年経っても癒えていない母を見るのが辛かったが、そんな美咲の背中を押してくれたのが父の悦司だった。東京の大学で英語力をしっかり延ばし通訳として働きたいという娘の夢を、父は最初から応援してくれていた。勿論最愛の息子を不慮の事故で失った悲しみは悦司の心にも深い傷を負わせていたが、それでも子供の人生は子供のもの、親が一方的に縛りつけるものではないという強い信念が、娘の夢を理解し応援するという理想的な父親としての行動を悦司にとらせていた。

父は娘が夢を叶える為に家を出ることを渋る妻を根気強く説得し、やっと承諾させた。そしてそんな父のお陰で美咲は無事に受験の日を迎えることが出来たのだった。年が明けて一月の初旬、推薦入試を受けるため上京した美咲は、満足のいく結果を出して帰郷することが出来た。だがほっとする間もなく、父から母千賀子が祖母の柊子のことをかなり怒っているという思いがけない話を聞かされた。
[えっ‥どういうこと?お母さん何を怒ってるの?実の親子なのに‥いつもあんなに仲良しなのに‥]
試験について上々の出来だったと笑顔で父に報告した美咲だったが、悦司は娘の言葉に喜んだものの、母のことを話すその表情は暗く硬いものだった。
[うん‥お祖母ちゃん変なことを言うんだって。美咲のお祖父ちゃんと健介がね、二人してお祖母ちゃんに会いに来るって‥]
[えっ‥]
内容が内容なだけに、言い淀む父の姿に美咲は驚くしかなかった。美咲の祖父であり千賀子の父である勝彦はもう何年も前に母の故郷で起きた自然災害によってその命を奪われていた。美咲は当時まだ小学生だったが、その時の家族の動揺ぶり母や祖母の慟哭する様をよく覚えていて、その強烈な記憶は決して消えることはなかった。祖父の勝彦は母の故郷である不知火町で漁師として働きずっと家族を支えてきた。やがて成長した夫婦の二人の娘は一人は遠くに嫁ぎ、一人は同じ県内の熊本市内に家庭を持ったのである。

孫も生まれ、夫婦にはこのまま平穏な老後が訪れる筈だった。だがそんな矢先思いも寄らない自然災害が祖父母が暮らすこの地を襲った。台風による荒波が運悪く満潮と重なり高潮が発生してその被害で十数名の命が奪われた。そして勝彦もその一人となったのである。あの日‥波にもまれながら必死に妻柊子を近くの家屋の屋根の上まで押し上げた彼は、夫の元へ懸命に手を伸ばす妻に向かって[俺のことはいいからそこでじっとしてろ!いいか、絶対動くんじゃないぞ!]と叫び続けていたという。そしてそのまま勝彦は渦の中へ消えていった。波が去った後勝彦の遺体は家の近くにあった鳥居の側で見つかったが、その死に顔は思いの外安らかなものだったという。だが柊子の悲しみは容易に癒えるものではなく、安らかな死に顔も祖母の悲しみを却って深める結果にしかならなかった。
[なんでかねえ、こぎゃん酷かこつ‥今まで一度も無かったつに‥私一人生き残ってあの人は逝ってしもうた‥これで本当に良かったっだろうか‥ねえ、会いたか‥幽霊でもよかけん会いに来てくれんね‥]
当時まだ小学生だった美咲だったが、祖母柊子が仏壇の万江に座り勝彦の遺影を前にしてそう呟いていたのをよく覚えている。だがその祖母がこともあろうに亡くなった夫と孫が揃って自分に会いに来るなどと、そんな有り得ないことを娘の千賀子に言うとは‥すると絶句する美咲に悦司は慌てて落ち着かせようと口を開いた。

[言うべきじゃなかったね、ごめんね‥大事な入試を終えて帰ってきたばかり、二次試験もあるのに心配させるようなことを言って済まない。]
[ううん、でもお祖母ちゃんどうしちゃったのかしらね。この先同居する話もあるんでしょう?お祖母ちゃんも年だし、そんな‥喧嘩なんかしたら‥]
娘の不安な思いを察し父は優しく答える。
[同居の話には、父さんは最初から賛成している。父さんは早くに親を亡くしてるからね。私はお祖母ちゃんを実の親のように思ってきた。だがお母さんはそんなお祖母ちゃんの言葉に怒って、一緒に暮らすのを止めるとまで言ってる。]
[そんな‥お祖母ちゃんは何て言ってるの?]
[お祖母ちゃんはお母さんを慰めるつもりであんなことを言ったんだろうね。お母さんに済まないって謝ってた。傷付けるつもりは無かったって‥で自分はまだまだ大丈夫、しっかり暮らしていくから心配しないでってそう言ってた‥]
[うん、そうなんだ‥]
その後何ともいえない複雑な思いを抱いて母に会った美咲だったが、いつもと変わらぬ表情で出迎えてくれた千賀子の様子に一先ずほっとしたものの、不安はなかなか消し去ることが出来なかった。かといって千賀子に祖母柊子のことを尋ねるのは何となく憚られた。今は受験に専念するべき時、そう自分に言い聞かせその後もう一度上京し二次試験を受けた美咲は、思い通り合格通知を一般の学生より早く受け取ることが出来た。
[乾杯!]高校の友達や先生方に思いっきり祝福された後、家族三人だけでグラスを傾け喜びを分かち合ったその後、美咲は母から思いがけない話を聞かされた。

[えっ‥お母さん、今何て言ったの?]
美咲だけでなく、悦司も驚いた表情で妻を見つめている。そんな二人の視線に戸惑いつつも、千賀子は以前から考えていたことだと前置きして口を開いた。
[何も今すぐってことじゃないのよ!でも‥あと二年でお父さんも定年じゃない?そしたらこの家を売って東京の地方にでも小さなマンションを購入して私達も東京で暮らそうと思ってるの。]
[東京に引っ越すってこと?そんな‥いきなり‥]
[いきなりじゃない、ずっと考えていたことよ!美咲は大学を出たら東京で働くことになるでしょうからこっちには帰らないだろうし、お父さんだって再就職の口なら東京の方があるかもしれない。退職金があるんだしそのうち年金も出るし、無理の無い程度で働けばいいんだから。]
[でもそんな簡単にここを離れられるの?ここはお母さんの故郷なのよ。]
[だからよ!]
娘の言葉に堪らなくなったのか、千賀子は感情を露にして怒鳴るように答えた。
[健介の思い出がつまったこの家から私は出たいの!この場所を離れて私はやり直したいのよ!]
[母さん‥[
表面上は立ち直っているように見えた。しっかり自分を取り戻しているように思えて、悦司も美咲もある程度安心していた。だが、実際はそうではなかったのだ。息子健介を不慮の事故で失った母の心の傷は何年経とうと癒えるものではなかった。千賀子は戸惑う夫と娘に対し、どう反対されようと私の決意は変わらないと言い放ち、それからは東京行きについて自分の方からは口を開こうとはしなかった。

美咲と悦司はどう説得すべきか考えあぐねていたが、今はまだそっとしておくべきかもしれないと思い、二人ともその話には敢えて触れないように心掛けた。そんなある日の午後、美咲が一人で留守番をしていると不意に一階の電話が鳴った。階下へ降りて受話器を取ると、そこからは幼い頃から慣れ親しんだ懐かしい声が聞こえてきた。
[はい、もしもし‥里村ですが‥]
[ああ、その声は美咲だね?元気しとるかい?]
[お祖母ちゃん!久し振り‥ずっと電話なかったけん心配しとったつよ!こっちから掛けても留守ばっかだし‥]
家ではあまり話さないのに、不思議と祖母との会話になると地元の方言が出る。
[いや、電話は何回かしたっだけどね。]
柊子は久し振りに孫娘の声が聞けて嬉しそうだったが、同時に美咲が出てくれてほっとした様子だった。
[うちに電話したつ?お母さんは出てくれんの?]
[うん、私だとわかると話すこつはなかちゅうて切られてしまうと。まだ私んこつば怒っとるごた‥]
[この前お祖母ちゃんがお母さんに言うたこつで?そりゃお祖父ちゃんとお兄ちゃんが会いに来るなんて言われたら驚くだろうけど、でもお祖母ちゃんも何でそんな夢みたいなこつば‥]
美咲の問いかけに、柊子はしっかりした声で答える。
[信じてくれんでも本当のこつだけん。怖いこつなんて全然なかつよ。二人ともいずれ生まれ変わって新しか人生を歩んでいくだけのこつ、今は私達んこつば天国で見守ってくれとる。元気にならんと‥却って二人ば心配さすっだけだけん。お祖母ちゃんはそるば千賀子にわかって欲しかったつばってん、まだまだ無理んごたね。]
[お祖母ちゃん‥]

亡き祖父と兄が柊子に会いに来るという突拍子もない話を父から聞かされた時、さすがに美咲は驚いた。だが戸惑いつつも柊子は高齢だし、夢でそんな光景を見てそれが現実だと思い込んでしまったのかもしれないとそう思った。だが千賀子の前では健介の話はタブー、実の母であってもしてはならないのだ。更に祖母の話は続く。
[お母さんにたいぎゃな怒られてね、お祖母ちゃん‥父親と死んだ息子が会いに来るなんて言われて喜ぶ人間がどこにおるとって‥それから私とは口きいてくれん‥]
[お祖母ちゃん‥]
[まああたがお父さんが取りなしてくれらすばってん、まだそっとしといた方がよかて言わすけんね。そういえばお父さんが言いよらしたけど、あたは大学に合格したてね。]
[うん!4月から大学生だよ!3月には東京に行くけど、そん前に色々せんばいかんこつがあっとたい。先ず引っ越しの準備でしょう‥]
さすがに4月から始まる学生生活については、美咲も話が弾む。そんな孫娘を祝福してくれた上で柊子は思いがけないことを口にするのだった。
[あたが東京に行くと、この先いつ会えるかわからんね。]
[お祖母ちゃん‥]
[どう?一足先に受験は終わったんだし、もう勉強はせんでよかっだろう?だったら東京に行く前に一度不知火に来んね。大学合格のお祝いもしてやりたかし、一緒にご飯でも食べようか?あたもこっちは久し振りだろう?]
[そう‥そうね‥]
電話では何度も言葉を交わしてきたが、美咲が柊子と直接会うのは兄健介の通夜告別式の時以来、そして美咲が母の故郷である不知火を訪れたのは健介が事故死する数ヵ月前、彼が大学に合格し、その報告をしに家族で行った時以来だった。

その後思いも寄らない悲劇が家族を襲うことになる。健介の無言の帰宅となった通夜告別式の夜、憔悴し切った娘を懸命に支えてくれた祖母柊子の姿を美咲は今でもはっきり覚えている。だがさすがに、その思い出にはあまり触れたくなかった。そして美咲は、祖母の誘いに静かに頷いて答えた。
[うん、行きたか‥お祖母ちゃんに会いたいし不知火の海も見たい。]
だが海が見たいと言った後で、美咲は思わずはっとした。その海が牙を剥いて祖母から大切な人を奪ったのだ。その事を忘れてはいなかったがつい‥海が見たいなどと言うべきではなかった。だが、後悔する孫娘に柊子は優しく話しかけるのだった。
[いらん心配せんちゃよかよ。お祖父ちゃんはよく私の夢に出てこらすばってん、いつも笑っとらす。私もいつかあん人のとこにいくとだけん、いって直にあん人と話せるごつなっとだけん‥]
[お祖母ちゃん‥]
[健介も夢に出てくるんよ。それがね、この前二人一緒に私の夢に出てこらしたもんだけん、たいぎゃなびっくりしたつ。お祖母ちゃんね、二人が笑顔で会いに来てくれたこつが嬉しくてお母さんにそんこつば言うたったい。そしたらお母さんにたいぎゃな怒られた‥]
[怒られた?二人がお祖母ちゃんに会いに来たのって夢の中の話なのね。そうね、そうよね。でもお母さんもそぎゃん怒らんでもよかつに。]
[お母さんは、まだ健介の死を受け入れられんとだろうね。でもそれは、天国にいる健介を心配させるだけなんだろうね。]
[お祖母ちゃん‥]
柊子の言葉には、娘を思う母としての心情が溢れていた。だが娘は、そんな母との絆を断ち切らんばかりの勢いで、この先東京への移住を真剣に考えているのだ。

(行こう、お母さんは反対するかもしれないけど不知火に行こう!お祖母ちゃんと久し振りに会って色々話してみよう‥)
美咲は堅く決意し、早速その日の夕食時に祖母からの電話で会いに来ないかと誘われた事を話し、東京に行く前に二、三日泊まりに行きたいと切り出したのだった。
[そうだね、東京に行けばお祖母ちゃんともなかなか会えなくなるだろうし、受験が終わった今しかないだろう。わかった、会いに行っておいで。そしてのんびりしてくるといい。]
父の悦司は美咲の願いを快く受け止め、娘が母の故郷で数日間過ごすのを許してくれたのだが、やはり柊子に憤慨している千賀子はあまりいい顔はしなかった。
[お祖母ちゃんに会いに行くのに、態々泊まりがけで行く必要ある?]
[おいおい、母さん‥]
[確かに東京に行ったらこれまで以上に会えなくなるだろうから、お祖母ちゃんに会いに行くことは反対ではないわ。でもせめて一泊でいいでしょう?あんたも東京行きの準備で忙しいんだから。]
母の言葉には棘があり、明らかに柊子への反発が感じられた。だが美咲は怯むことなく話を続ける。
[私は、お祖母ちゃんとお母さんがこのままずっと口もきかないような状態は嫌だもん、安心して東京に行けん。だからお祖母ちゃんとしっかり話して来るつもりよ。その上でお母さんもお祖母ちゃんと話をしてみて‥]
[話をする必要は無いわ。それにお祖母ちゃんのことなら大丈夫よ。]
[えっ‥]
何が大丈夫なのだろう。訝しむ夫と娘に対し、千賀子は表情を変えることなく淡々と続けた。

[神戸にいる知子姉さんに話したら、いざとなったらお祖母ちゃんはこっちで引き取っていいって言われたわ。あちらは義兄さんのご両親はもう他界されてて、子供達も独立して家を離れてるし、義兄さんもいいよって言ってくれたそうだから‥]
[母さん‥]
[そうはいっても、お母さんが地元を離れたがらないだろう?自分の生まれ育った故郷だよ。絶対に嫌がるんじゃないか?]
父の言葉は最もだった。強く頷く娘や夫を見ながら、千賀子は溜め息をついて更に続ける。
[私が説得する。必ずうんと言わせてみせるわ。だって考えてみてよ。私達がここを離れたらどうなるの?母さんが一人でいる時にもし何かあったら、それこそみんなに迷惑をかけることにもなりかねないのよ!]
[だから‥ここを離れると決まったわけではないし‥]
[いいえ!]
千賀子は不意に立ち上がると、一言一句はっきりと夫と娘に宣言するように言い放った。
[お父さんが定年になったら、私は一人でも東京に行きます。お願いわかって‥ここにいる限り私は立ち直れない。どうしても健介のことを思ってしまう‥]
[お母さん‥]
[何度も忘れようとしたわ。気持ちを切り替えて新しく出発しようとした。でも‥でも‥]
あとは涙声になり言葉を詰まらせながら、千賀子は美咲がこれまで幾度となく耳にしてきた言葉を繰り返すのだった。

[出来ないのよ、どうしても‥不慮の事故ですって?確かにそうでしょう。でも悪いのは注意すべき場所で無謀な運転をしたあの人達じゃない。だのに何で、何の関係もない健介が偶々そこを通りかかったってだけで巻き込まれて死ななきゃならないの?]
[お母さん‥]
[千賀子‥]
涙ぐむ千賀子を見つめて、美咲は父と静かに首を振って頷いた。今は何を言っても千賀子には通じない。時間をかけてゆっくり説得するしかないだろう。美咲は今はとにかく祖母柊子に会って亀裂を生じている母と娘の関係を修復することに力を尽くそうと誓った。父の悦司も同じ思いだったらしく、不知火へ旅立つ娘にお祖母ちゃんと心行くまで話してくるようにとそう言って美咲を送り出したのだった。母の故郷である不知火町では神秘の火として知られる不知火が、年に一度八朔の頃海上にその姿を現す。美咲は子供の頃、二度ほどその光を家族で見に行ったことがあった。謎の光が現れるのは真夜中であり、美咲は眠い目をこすりながら暗い海に浮かぶその光を見ようと懸命に目を凝らしたのを覚えている。だが母の故郷である風光明媚なこの町は、同時に祖父勝彦が高潮という自然災害によって命を奪われた悲しい記憶が残る場所でもあった。懐かしい場所だが忙しさもあって、祖父の死以来なかなか足が向かわなかったこの町に真冬の時期美咲は久し振りに訪れたのだった。バスの本数が少ない為にやむ無く最寄の駅からタクシーに乗った美咲は、懐かしい祖母の家に近づくと、やはり胸がわくわくするのを抑えることが出来なかった。家の前でタクシーを降りる。呼び鈴を鳴らす。冬の海から吹き付ける冷たい風も、今の美咲には全く気にならなかった。

[美咲、よう来たね。]
[お祖母ちゃん!]
幼い頃と変わらない優しい笑顔で迎えてくれた祖母柊子は、何故か子供の頃会っていた祖母と殆ど変わっていないように思えた。いや、却って若くなったというべきか‥
[どうかしたつ?]
ぽかんとした表情の孫娘に、柊子は優しく問いかける。
[ううん、何かお祖母ちゃん昔とちっとん変わらんごた気がして。私少しびっくりしたつ。元気だし‥まあそれはよかこつだけどお祖母ちゃん、本当は年取っとらんとじゃなかつ?魔女だったりして‥]
[何を馬鹿なこつ言うとっと?ほら、上がって‥あんたの好きなちらし寿司作って待っとったつよ。一緒に食べよう。]
[うん、食べる食べる!お腹すいた‥]
美咲は子供の頃からよく知っている筈のこの家の居間で、子供の頃から大好きだった柊子手作りのちらし寿司を早速口にした。仏壇には祖父勝彦と兄健介の遺影が並んで置かれている。二人に手を合わせた後美咲は、久し振りに祖母の手料理を満喫しながら何か違和感を感じていた。
(この家ってこんなに広かったかな‥)
美咲が感じたのは違和感というより、言い様の無い不思議な感覚‥子供の頃から慣れ親しんだ場所の筈なのに、何か初めて足を踏み入れたようなそんな感覚にとらわれていた。考えてみれば祖母柊子も、美咲が覚えている子供の頃からあまり年を取ったという感じがしない。
[なんば考えよっと?]
不意に柊子に聞かれ、美咲はすぐに現実に引き戻された。

[いや、この大きな家に一人で住んでてお祖母ちゃん怖いと思ったことないのかなと思って‥]
何故そんなことを尋ねたのか自分でも理解出来ないまま、美咲は祖母柊子を見つめた。柊子は孫娘の視線に戸惑うことなく、家の中を見回しながら静かに答える。
[全然怖くはなかよ。お祖父ちゃんには夢でしょっちゅう会っとるけど、現実の世界じゃ会えんけん。]
[お祖母ちゃん‥]
[お祖母ちゃんね、美咲が驚くかもしれんけど実は子供の頃から霊感があったつよ。だから昔は引っ込み思案で外に出るのを嫌がる暗い子供だった。だってやたらな所に行くと幽霊が見えちゃうんだもん。]
[えっ‥本当なの?それ‥]
驚く美咲をよそに柊子は更に続ける。
[本当よ。でも父‥あたには曾祖父たいね。その父の知り合いに親切なお坊さんがいてね。私に教えてくれたつよ。必要以上に怖がらんでいいから、見えても感じても知らんふりするごつ。そるが一番大切なこつだって。私に一から教えてくれた‥そして幼馴染みだったお祖父ちゃんも、そんな私ば励ましてくれた‥大人になってお祖父ちゃんと結婚したつばってん、子供を生んだら不思議なこつに霊感が無くなったつよ。まあ言われた通り気にしないようにしたから、お化けの方からいなくなったつかもしれんね。]
[うん‥確かに霊感を持ってた人が結婚して子供を生んだら、その霊感がなくなったって話は聞いたこつあるけど、まさかお祖母ちゃんがそうだったとは‥びっくり!]
唯々驚く美咲だったが、柊子は祖父の遺影を目にして今度は少し淋しそうに口を開いた。

[でも‥お祖父ちゃんが亡くなった時は、昔の‥霊感があった頃の自分に戻りたいって心からそぎゃん思った。幽霊でもいいから会いたかったけん‥でも‥やっぱり会えんかった‥出てきてくれたつかもしれんばってん霊感なくした私にはわからんかったつかもしれんけど‥]
[お祖母ちゃん‥]
[千賀子もお祖父ちゃんに死なれた時の私と同じ気持ちなんだろうね。私は何とか立ち直れた。あんた達や周りの人達が本当に助けてくれたからね。健介の為にも千賀子には立ち直ってほしかばってん、まだまだ無理なんだろうね。]
[お祖母ちゃん‥]
祖母は愛する息子を不慮の事故で失い、なかなか立ち直れないでいる娘を心から心配している。だが娘は、そんな母の気持ちを理解しようとせず、生まれ故郷から柊子を引き離そうとしているのだ。美咲はそんな現状が堪らず、千賀子が健介の思い出から逃れる為家を売ってまでこの地から離れようとしていることをつい口にしてしまった。夜少し落ち着いてから話そうと思っていたのだが、柊子の様子を見ていると黙っていることが出来なかったのだ。
[ごめんね、お祖母ちゃん‥こんこつは夜、ゆっくりしとる時に話そうと思ったつにこんなに早く‥久し振りに会えたつにお祖母ちゃんを心配させるようなこつば言うて‥本当にご
めんね‥]
[ううん、そぎゃんこつ全然心配せんちゃよかよ。千賀子が本当にそうしたいと思い、あんたとお父さんが反対せんなら私が口を挟むこっちゃなかもん‥]
[でも‥]

[でも?]
[気持ちの問題だろうけど、千賀子が今立ち直れんならここを離れても同じこつじゃなかろうかて私は思うとたい。ここを離れたからちゅうて健介のこつば忘れらるるもんでもなかろう。お祖母ちゃんなお母さんに健介が天国からいつも家族んこつば見守っとるけん忘るる必要はなかて、そう言うてやりたかったい。]
[お祖母ちゃん‥]
[私は勿論、ここを離るるつもりはなかけどね‥]
柊子の言葉は、娘を思う心情を余すところなく吐露するものだった。そしてやはり、柊子には故郷を離れるつもりは微塵もないようだ美咲は母の気持ちをどうやって翻させるか考えあぐねたが、祖母ののんびりとした口調にこれ以上このことについて話すのは止めようと思い、その夜はそのまま柊子と枕を並べて久し振りに床についた。しかしその夜滅多に夢を見ない美咲だが久し振りに夢を見た。夢に出てきたのは正しく子供の頃亡くなった祖父勝彦とそして事故死した兄健介とおぼしき人物だった。おぼしきというのは、その二人が朧気な輪郭で顔もよくわからなかったから‥顔がはっきりしないものの、何故か二人は勝彦と健介だと美咲にはそうとしか思えなかった。二人が美咲に優しく微笑みかけているように感じられ、そこには懐かしくて切なく言い様のない雰囲気が漂っていた。
[お祖父ちゃん!お兄ちゃん!]
影は次第に薄れていき消えそうになる。
[待って!お兄ちゃん!お祖父ちゃん!]
待って!話したい‥折角会えたのに‥話したいのに‥と、その時だった。

[美咲、どうかしたつ?]
不意に柊子に揺り起こされて、美咲ははっとして飛び起きた。頬が濡れている。夢で二人を見て思わず涙を流しながら、二人の名を叫んでいたらしい。
[お祖父ちゃんとお兄ちゃんに会った‥]
ぽつんと呟くように答える美咲に柊子はやっぱりねと謎の言葉を口にすると、静かに頷いた。
[何がやっぱりなの?]
当然のように気になった美咲が問いかけると、柊子は思いがけない話を口にするのだった。
[何故かね、私と一緒に寝た人は殆どといってよかぐらい死別した懐かしか人の夢ば見るとよ。全部が全部そうというわけじゃなかけど、八割方かな。健介の葬儀の時こっちに帰って来とった知子もやっぱり二人の夢ば見たて言うとったし、老人会で旅行に行った時私の隣で眠った近所の多美子さんもそう‥亡くなった旦那さんの夢ば見たて言うとらした。不思議でしょう?私が昔霊感があったことともしかして関係あるとかもしれんね。]
[私もお兄ちゃんの夢は今まで殆ど見なかったつに今日はいきなり‥お祖父ちゃんらしか人も一緒だった。お祖母ちゃんは?二人の夢を見るんでしょう?]
[うん、よく見るよ。前はお祖父ちゃんだけだったけど、今は健介と二人よう出てこらす。お祖母ちゃんね、魂は永遠だと思っとるけん二人とは天国で必ず会えるて信じとっとたい。二人はいずれ生まれ変わるけど、お祖母ちゃんが天国にいくまで待っとってくるって信じとっとたい。]
[二人の来世ってこと?]
とりとめのない祖母の言葉だが、美咲を包み込む優しい響きがあった。静かに頷いて柊子は答える。

[そう‥勿論二人だけでなく、誰でも生まれ変わるもんたい。よっぽどの悪人でない限りね。誰にでも前世があって今があってそして未来があっとよ。あたにもね。だけん、千賀子にはこれ以上悲しまんで欲しか‥あん子もいつか天国に召さるるだろうけど、それまで健介は生まれ変わらんできっと待っとってくるる。天国で必ず会える。悲しまんちゃよかっだけん‥でも今のままじゃ、健介は天国でずっと母親んこつば心配しとかんばいかんとだけん。]
[お祖母ちゃん‥]
柊子の言葉は、不思議な響きで美咲の心に染み渡ってくる。美咲は自分でも驚くほど祖母の言葉で心が癒されていくのを感じた。
[お兄ちゃん‥]
意識しないまま涙が頬を伝う。幼い頃から子供扱いされて拗ねたこともあった。優秀な兄に嫉妬したのはしょっちゅうだった。それでも大好きな兄だった。健介が亡くなった時、母と同じように現実を受け止められない自分がいた。そして立ち直ったつもりだった。いや、考えないようにしなければ実際に立ち直れなかったのだ。そんな美咲の様子を見て、柊子が優しく声をかける。
[美咲、あたも無理してきたみたいね。お兄ちゃんのこつば考えんごてしてきたんだろう?でもね、悲しか時はおもうさん泣いてよかつよ。我慢せんちゃよかっだけん。]
[お祖母ちゃん‥]
祖母の優しい言葉に張り詰めていた気持ちが一気に弛み、美咲は思わず声を上げて泣き始めた。思えば兄が事故死して以来、自分がしっかりしなければと涙を堪え続けてきた美咲だった。

泣くのは両親の役目、自分は泣いたらいけないのだ。自分がしっかりしなければならないから。自分が両親を支えなければいけないのだからと、懸命に自分に言い聞かせてきた。だが柊子の言葉はそんな張り詰めていた美咲の心を確実に解きほぐし、深い安らぎの中に導いてくれた。柊子は孫娘に優しく続ける。
[よかよか、泣いてよかよ。泣くだけ泣いたら明日はまた笑って過ごせる。ねえ、そぎゃんだろう?]
[うん‥]
そして美咲は涙を流すだけ流した後、再び深い眠りについたのだった。その眠りに二人が再び姿を現すことはなかった。翌朝祖母とおいしく朝食を食べた後、美咲は柊子から海岸を散歩しないかと誘われた。
[私はいいけど、お祖母ちゃん寒くなかつ?海辺は風があって寒いんじゃないかな。]
[大丈夫、そぎゃんこつ心配せんちゃよかよ。ここはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが生まれ育った町だけん、慣れとるもん。冬の寒さもね‥私はあたにお祖父ちゃんとの思い出ば聞かせたかったい。二人で毎年のように家ば抜け出して、不知火ば見ながら夜通し語りあかしたこつなんかね。]
[不知火?毎年不知火ば見に行ってそこでデートしとったつ?でも不知火が見ゆっとは真夜中でしょう?そんな真夜中に二人でデートしとったなんて凄いね。お祖母ちゃんもやるじゃん!]
驚く孫娘に柊子は少し照れながら、遠くを見るような眼差しで静かに話を続けた。

[いつから意識しだしたつかわからんばってん、私は多分こん人の奥さんになるんだろうなって、ずっとそう思っとった。子供の頃から一緒だったからね、お祖父ちゃんとは‥不知火を二人で見るようになったつは、確か十三歳ぐらいの年かな。どっちから言い出したつかははっきりせんけど、八朔の日に不知火の見える場所で会おうていうこつになって、毎年のように待ち合わせて二人でたわいのない話ばしたたい。]
[えー?恋人同士らしい会話は無かったの?]
[まだお互い子供だったもの、なかよ。まあこの後は歩きながら聞かすっね。さあ、出掛けよう!お祖母ちゃん支度すっけん、あんたもコート着ておいで。寒くなかごつ帽子やマフラーもね。]
[うん、わかった?]
祖母の言葉に頷いて身支度を整えた美咲は、厚手の丹前に年代物のショールを羽織った柊子と外へ出た。外はいい天気で風もなく、二月にしてはあまり寒さを感じないことに、美咲は内心ほっとしていた。冬の長閑な日差しを浴びながらやがて二人は勝彦と柊子が毎年のように不知火を見に来ていたという、永尾神社の境内を降りた場所までやって来た。そこまで来ると柊子は、感慨深げに海を見ながらゆっくり口を開いた。
[ここから見る景色は、昔とすっかり変わってしもうた。まあ、当たり前んこつだけどね。昔はこんな立派な堤防なんか無かったし、私にはまだ霊感があったから、そんな私が親の目を盗んで夜中にここまで来るとは本当、大変なこつだったとよ。昔は今んごつ家はたくさん無かったし、夜は真っ暗で街灯なんて無いから目を凝らしてしか歩けんかった。それでも必ず来てた。会いたかったけん、二人だけで不知火ば見ながら話したかったけん‥]
[お祖母ちゃん‥]

[ここ永尾神社の鳥居だけは昔とちっとん変わっとらん。こん鳥居ば見ると、やっと来れたっていつもほっとしたもんだった。そしてこの先の海辺、その海辺でお祖父ちゃんの姿ば見つくっと私ね、ただ嬉しゅうて‥]
[へえ、お祖母ちゃんって結構情熱的な女性だったんだ。驚きだな‥でも家の人には見つからんだったつ?それに不知火が見える夜なら、他にも人がおらしたろうも?]
子供の頃から抱いていた祖母の大人しくて物静かなイメージとはかけ離れた柊子の大胆な行動に、美咲はただ驚かされるばかりだった。すると柊子は今度は茶目っ気たっぷりに微笑みながら、楽しかった昔を振り返り更に美咲に意外なことを語って聞かせた。
[実はね‥お祖父ちゃんとの婚礼の時、みんなに言われたつよ。私とお祖父ちゃんとの仲は村公認で、殆どの人は私達が付き合ってるこつば知ってたんだって!勿論一緒になるもんだって思っとったって。不知火が見える夜に二人でデートしとるこつまで知ってた人がどのくらいいるかは恥ずかしくて聞いとらんけんわからんばってん、案外みんな知っとらしたつかもしれんね。]
[親も‥知ってたの?]
[かもしれん。幼馴染みですんなり夫婦になったからね、私達は‥それでも戦前から戦中、戦後にかけてはやっぱり大変だったわ。]
[終戦時、お祖母ちゃん達は十六?十七?]
[私は十六、お祖父ちゃんは十七だった‥]
[戦争中にお祖母ちゃんもお祖父ちゃんも青春時代を過ごしたのね。大変だったでしょうね。それに引き換え今の私達は本当に恵まれてると思うわ。]

[そうかねえ‥]
[そうよ、今は平和で命の危険もなく暮らしていけるから‥まあお兄ちゃんやお祖父ちゃんみたいに、不慮の事故や自然災害で亡くなる人は勿論いるけどね。]
美咲の言葉に柊子は静かに頷き、昔を振り返りながら懐かしそうに亡き夫勝彦との思い出を孫娘に語り続けた。
[戦争があと一年長引けば、あん人は間違いなく戦争に行ってた。終戦の年昭和二十年の夏ね、町の方が空襲にあい多くの人達が亡くなんなはった翌日、私は初めてお祖父ちゃんに抱き締められたつ。そるも家ん前で‥勿論そん頃はそぎゃんこつすっと、なんば考えとっとかこの非常時にって怒鳴られる時代だった‥それでも思い残すこつんなかごつてあん人は‥そん時は戦争にいく覚悟ばしとったつよ、きっと‥でも、その後すぐに戦争が終わった‥あん人はそるば知った時、一時抜け殻んごつなっとらした‥ぼおっとして‥あたは知っとるど?お祖父ちゃんの兄にあたる昭彦さんて人が戦死しなはったと。]
[うん、確か南方の何とかいう島で‥遺骨も戻ってこなかったんでしょう?]
[そう‥だから出征の時に残してあった髪の毛をお墓に入れたそうだけど、昭彦さんはお祖父ちゃんとは年が八つも離れてたから、兄というより親代わりみたいな人だった。お祖母ちゃんには義理の兄になるけど、結婚する前に亡くなんなはったけん、直接接したこつはあんまなかった。ばってんとにかくしっかりした人だったよ。お祖父ちゃんにも厳しかった‥]
[お祖父ちゃんにも?]

[うん、とにかく男はこうあるべきだという信念を持った人、だからかな‥戦死広報が届いても、お祖父ちゃん全然泣きなはらんだったとよ。それどころか今度は自分が兵隊になって戦争に行く。そして兄ちゃんの仇を討つんだって、悲しいぐらいに思い詰めてた‥]
[そんなことが‥]
[ええ、でも戦争が‥お祖父ちゃんにとってはほんなこついきなりだったんだろうね。終わってお祖父ちゃん、これからなんばすれば良かかもわからんごつならして、毎日ぼおっとしとらした。張り詰めていた糸がぷつんと切れたごつして、なんばすればいいかわからんでおらしたけど、でも終戦の翌年の不知火の夜、あん人と二人でぼんやりその火ば見とった時、不意にお祖父ちゃんが言わしたつ。あの火は亡くなった兄貴の魂だって‥やっとこの村に、自分達の所に帰ってきてくれたんだって‥それから大声で泣いてた‥]
[お祖父ちゃんが?]
[そうよ。まるでそれまで溜まっていた悲しみや悔しさば全て洗い流すごて、あん人はひとしきり泣きよらした。私はそん時初めて見たつよ。お祖父ちゃんが泣かすとば‥そん夜泣くだけ泣いた後、あん人はやっと立ち直ってくれらした。そん後、私達は当然のように夫婦になった。娘二人が生まれて、あん人は無骨ながら漁師としてひたすら真面目に働いて、子供も独立して穏やかに老後が過ごせると思ったのにいきなり別れがきた‥もうこの世にはおらっさんけどね。]
[お祖母ちゃん‥]
自分を見つめる孫娘の眼差しに柊子は優しく頷き、今度はしっかりした口調で答える。

[大丈夫よ、お祖母ちゃんは一人でも十分大丈夫だけん心配せんちゃよか。お祖父ちゃんとはいつも夢の中で話ばしよると。思いが通じとるていうか‥私もいずれお祖父ちゃんのとこにいくんだけん、死ぬのは全然怖くなかよ。魂だけの存在になったらあん人と直に話せるし、生まれ変わるまで天国ば楽しめばいいだけ。ううん、何て言うてよかかわからんばってんお祖母ちゃんな今、人生ば楽しんどっと。だから本当に心配せんで‥]
[お祖母ちゃん‥]
[熊本ば離るるこつで立ち直る切っ掛けを得たかったら、そうすればよかて私は思っとる。千賀子の悲しむ姿ば、悦司さんももう見たくなかろうけんね。あただってそうだろう?でも忘れる必要はなかて、私は千賀子にはそう言いたかったい。今生で会えないのは辛かこつだけど、いずれ又絶対に会えるんだから‥私がお祖父ちゃんに再び会えるように‥]
[うん、そうね‥そうだね、お祖母ちゃん‥]
柊子の言葉は不思議な程美咲の心を癒やしてくれた。ただ、自分一人だけではダメなのだ。本来は母が一緒にこの場所にいるべきで、祖母と母とが直接話すべきなのだ。柊子を見つめながら、美咲はしみじみ思った。
(来て良かった‥お祖母ちゃんと話せて良かった。お祖母ちゃん不思議なくらい変わっていない。まるで本当にお祖父ちゃんと暮らしているように思える。お祖母ちゃんは大丈夫だわ。)
その考えた時不意にあるアイディアが美咲の頭に浮かんだ。

(決めた‥私が東京に旅立つ
前にやるべきこと‥必ず二人を会わせよう。実の親子なのにこのままずっと話もしないなんてそんなこと‥第一お兄ちゃんが悲しむわ。)
柊子に一方的に怒りを募らせている母千賀子の気持ちを解きほぐす為にも、二人を何とか会わせる方法を画策する。そう決意した美咲は、翌日柊子の家から自宅に帰ると先ず父に連絡を取り、二人を会わせる為の策略を練ることにしたのだった。
懐かしい祖母の家で過ごし身も心も癒されて帰宅した美咲は、出迎えてくれた父悦司に母の故郷で祖母柊子と三日間有意義に過ごせたことを伝えた。祖父母の思い出話をたくさん聞くことが出来て満足したことを話すと、父も喜んでくれた。その上で美咲は、柊子と千賀子がもう一度会って話をし、心を通わせることが出来るように力を貸して欲しいと父に頼み込んだのだった。だが美咲の作戦内容を聞かされた時、さすがに父は戸惑いを隠せなかった。
[嘘?お祖母ちゃんが倒れたってお母さんに嘘つくの?さすがにそれは‥]
二人を会わせるのは大切なことだとわかっていても、父の悦司は最初嘘をつくことにはさすがに消極的だった。それでも母の祖母柊子への怒りを解きたい。東京に行く自分が安心出来る為にも、何としても会わせなければならないのだという美咲の固い決意を聞かされ、悦司は結局その芝居に協力することにしたのだった。その上で協力を約束してくれた父に、美咲は祖母の言葉を伝える。

[お祖母ちゃん、やっぱりあの場所から離れるつもりはないみたい。私お父さんが定年になったら、この家を売って東京に移住することまでお母さんが考えてるってことお祖母ちゃんに話したの。]
[うん、そしたら何て?]
[ここを離れることで立ち直る切っ掛けをが得たいのなら、お祖母ちゃんは別に反対はしない。でも、自分はここを離れるつもりはない。ただ‥健介を忘れる必要は無いんだけどねって、そう言ってた‥]
[そうだね、その通りだと思う。それにもう八十も近いのに、今更環境が変わるのもね。お祖母ちゃんが嫌がるのは当然だよ。]
[そうね。でも不思議だったわ。何かお祖母ちゃん、昔とちっとも変わってなかった‥]
[えっ‥どういうこと?]
怪訝な顔をする父に、美咲は母の故郷である不知火で抱いた祖母への畏敬の念とも言えるような不思議な感じを伝えた。
[お祖母ちゃん、私が子供の頃とちっとも変わってなかった。全然年取ってなくて‥だからすごく神秘的で‥そして久し振りに一緒に寝たら亡くなったお祖父ちゃんとお兄ちゃんがしっかり夢に出てきて、でもそれが当たり前みたいな雰囲気がお祖母ちゃんの周りにはあって‥]
[へえ、でも年取ってないなんてそれは美咲の思い過ごしじゃないか?二人が夢に出てきたのだって、きっと偶然だよ。]
父は娘の言葉に耳を傾けつつも、その感じ方にはやはり否定的だった。美咲はそんな父の言葉に納得出来ない思いで、首を振りながら話を続ける。

[そうかなあ‥でもあの家やお祖母ちゃんの周りには、何か言葉で表現出来ないような不思議な雰囲気があったの。年を重ね様々な経験をして人生の喜怒哀楽を味わってきたお年寄りなら、確かにそんな雰囲気を醸し出すものかもしれないけど、お祖母ちゃんのは特別って感じがしたわ。]
[特別っておいおい、お祖母ちゃんは仙人でも魔女でもないんだよ。]
[わかってる。でもね、お祖母ちゃん結婚するまで霊感があったんだよ。知ってた?子供を産んでから少しずつ霊感が無くなっちゃたんだって‥でも最近は、毎日のようにお祖父ちゃんとお兄ちゃんの夢を見るって、二人に会えるって‥]
[へえ、お祖母ちゃんに霊感があったなんて初耳だよ。それで?亡くなった二人のことや、お母さんについては何て言ってるの?]
悦司にとっても柊子に昔霊感があったとは意外だったようで、驚いた表情を見せながら娘の話に聞き入る。そんな父に美咲は静かに答えた。
[魂は永遠だってそう言ってた‥肉体は死んでも魂は天国にいって、新しい肉体で生まれ変わるものだって‥だから自分も天国で必ずお祖父ちゃんに会えるし、お母さんだって生涯を全うして天国にいったらお兄ちゃんにきっと会える。それまでお兄ちゃんもきっと生まれ変わらずに待っていてくれるから、毎日を悲しんで過ごすのはやめて欲しい。何よりも今のままじゃ、健介がずっと天国で母親のことを心配し続けなければいかんからって言ってた‥]
[そう‥]

しみじみとした口調で話す娘の言葉を聞く父の目には涙が浮かんでいるようで、美咲は思わずはっとした。その時だった。[わかった!]気持ちの整理がついたのか父は突然大きな声でそう言い放つと、嘘を口実に何とか二人を引き合わせようとする娘の作戦に、積極的に協力することを約束してくれたのだった。
[二人で口裏を合わせたらいいんだろう?やるよ、その方があ
の二人の為になると父さんも信じるから。このままじゃ確かに、天国の健介が悲しむだろうからね。]
[有難う。後で母さんの怒りを買うことになるかもしれないけど、私は後悔しない。父さんは私が巻き込んだって言うから。実際そうなんだから‥]
[そんなこと気にしないでいい。大丈夫、二人は必ず元の仲のいい親子に戻れるから。僕達がそう信じなきゃ!]
[そう、そうよね!有難う、父さん。]
二人は互いに顔を見合わせ、しっかり頷いた。そして次の週の土曜日の午前中、予定通りその作戦を決行したのだった。
[お母さん、大変よ!お祖母ちゃんが倒れたんだって!たった今近所の多美子さんから連絡があって、救急車で近くの病院に運ばれたって!]
買い物から帰ってきたばかりの母に、美咲が青ざめて訴える。[えっ‥]娘の突然の言葉に確かに戸惑う母千賀子‥そんな妻に悦司は、自分が運転するから早く車に乗るようにと切迫した声で急かすのだった。

[何をぐずぐずしてるんだ!僕が運転するから早く乗って!美咲も早く‥]
[えっ、ええ‥家の戸締まりは‥]
[私がするから母さんは先に乗ってて!]
二人のてきぱきとした行動に千賀子は戸惑ったようだが、怪しくは感じていないようだった。だがやはり、今まで会おうとしなかった母親にこんな形で会いに行くことになるとは思ってもみなかったらしく、その表情にはかなり動揺が見られた。
[お祖母ちゃんどうしちゃったのかしらね、この前会った時は元気そうだったのに‥]
自分でも驚くほど切迫感のある演技を見せた娘に父も合わせる。
[それで?容体は?]
[わからないの‥多美子さんが倒れて救急車で運ばれたとしか言ってなかったから‥とにかく直ぐに行かなきゃと思って‥]
父と娘の息の合った名演技に最初はただ戸惑いの表情を浮かべていた千賀子だが、次第にその表情には不安の色が濃くなっていった。そんな母を見て美咲は少し心が疼いたが、これも二人を会わせる為と自分に言い聞かせ彼女はついこの間訪れた母の故郷へ、今度は父の協力のもと三人で向かうのだった。熊本市内から南下して宇土半島を巡る道路に入ると、次第に海が見え始める。祖母の家が近づくと、美咲は緊張して気持ちが高ぶるのをどうすることも出来なかった。祖母の家に着けば否が応でも嘘はばれる。それは勿論、悦司も美咲も覚悟していた。然し生まれ故郷である不知火の町に入ってからも、何故か千賀子は一言も発しようとはしなかった。

(お母さん、感付いたかもしれないな。それにしても何故何も言わないんだろう‥)
美咲は母の心が読めず、思わず父と不安げに顔を見合わせた。そして、ついこの前美咲が柊子と歩いた永尾神社にさしかかった時だった。外を見ていた千賀子が、不意に[あっ!]と小さな叫び声を上げたのだった。[どうしたの?]
美咲が驚いて尋ねても、千賀子は何も答えずただ無表情のまま車の外をじっと見つめている。
[お母さん?]
だが娘の問いにも反応せず、千賀子は外を見つめたまま柊子の家が近づいても口を開こうとはしなかった。そのまま車は、計画通り祖母柊子の家の前で静かに止まった。
[どうしたの?病院に行くんじゃなかったの?]
二人の嘘に薄々気付いていたらしく、千賀子の口から当然のようにその言葉が出たが、あまり切迫感のある言い方ではなかった。千賀子は更に意外な言葉を付け加える。
[とでも言った方が良かった‥?]
[千賀子‥]
[お母さん‥]
[嘘なんでしょう?二人で私とお祖母ちゃんを会わせる為に嘘ついたんでしょう?始めは本当かなと思って慌てたけど、途中から多分、否絶対そうなんだって思ってた‥真に迫った演技だったけど、でも私にはわかった‥家族だもの、それにしても‥]
千賀子は溜め息をつきながら夫を見つめると、感心したように話を続けた。

[まさかあなたまで、娘と一緒になって嘘をつくとはね。]
[お母さん、お父さんは悪くないの。私が無理に頼み込んだの。]
必死になって父を庇う娘に、千賀子は優しく微笑んで口を開いた。
[誤解しないで、私は怒ってるわけじゃないのよ。あなたは本当に嘘のつけない真面目ないい人だもの。そんなあなたが嘘をついてまで私と母を会わせようとした。相当な覚悟があってしたことだろうし、そこまで私と母のことを心配してくれてるのは有り難いと思う。]
[お母さん‥]
千賀子は自分を見つめる夫と娘に妻として母として久し振りに穏やかな視線を送りながら、しみじみとした口調で話を続けた。
[本音を言えば私自身色々な意味で迷ってたの。だからどんな形であれ、連れて来てくれて良かったのかも‥]
[お母さん‥]
[ここに来てやっと吹っ切れる事が出来るような気がするの。今まで夢で何度も健介に会ったけど、あの子は私になかなか笑顔を見せてくれなかったのよ。それが‥ここに来る途中にね、久し振りに永尾神社を見たけどその鳥居の先で一瞬だけど健介を見たような気がしたの。]
[お兄ちゃんを?]
[ええ‥あの子の幻‥かもしれない。多分そうだろうけど、私を見て確かに微笑んでた。やっと私に笑顔を見せてくれたんだ‥私にはそう思えた。]
[お母さん‥]
[そしたらね、昔あなた達を連れて不知火を見に来た時のことが自然と思い出されて‥]

[不知火か‥確か二度程見に来たよね、みんなで‥見えるのは真夜中だったから子供達を連れていくのはどうかと思ったけど、絶対見たいってせがまれて‥]
[そうそう、美咲なんて最後には泣き出しちゃって‥駄目だって言っても聞かないのよね。それで根負けして渋々ね。でも見える頃には眠っちゃっててまあ子供なんだから当たり前なんだけど、不知火が見えたよって起こすの大変だったんだから。]
[でも起こさないとなんで起こさなかったのって、後で文句言うだろうなって思った。だから何とか起こして四人で不知火を見たんだよね。それも必ず土曜日が八朔のお祭りの夜に‥]
[当たり前じゃない、あんな遅い時間まで起きてるんだもの翌日が会社や学校なら三人が無事に過ごせたかどうか、私は一日中不安に思ってなきゃいけないもの。それでも、そんな思いで見た不知火はとても綺麗だった。]
[確かに、不思議な威厳みたいなものを感じたなあ‥でもそれでも健介の思い出と繋がってしまうからなあ‥考えないようにしていたよ、いつしか‥]
健介を追想する悦司の言葉にそれまでの千賀子なら暗い顔しか見せなかったものだが、今の彼女は違った。しっかりとした口調で自分の思いを語る。
[私もそう、だけど思ったの。健介は今の私をどう思ってるんだろうって。幻かもしれないけど、ここに来てやっとあの子が私に笑顔を見せてくれたのかもしれない。そんな気がする‥今はとにかく母さんと会うわ。落ち着いて話してみる。あなたと美咲と一緒に‥]
[千賀子‥]
[お母さん‥]
頑なだった千賀子の心は、生まれ故郷であるこの地に来ただけで確実にほぐれてにつつある。それを実感し安堵する父と娘だった。その時だった。背後で柊子の声がした。

[おやおや、今日は三人で来たつかい?賑やかなこったい。]
[お祖母ちゃん‥]
[お義母さん、すみませんいきなり‥]
[まあそぎゃんとこじゃなんだけん、あがんなっせ。よう来たね。千賀子も‥来てくれて嬉しかよ。]
[母さん‥]
柊子はいきなりの訪問にも大して驚くことなく、この前と同じように今度は三人を温かく迎えてくれた。そして久し振りに会う娘にも、その態度は変わらなかった。
[さあさあ、座ってゆっくりしとって。丁度お昼の準備ばしとったとこたい。そうだ!あた達も手伝ってくれんね。四人分に増えたけんね。一緒にお昼食ぶっどたい?]
[えっ、ええ‥]
柊子に請われるまま千賀子は生まれ育った家に入ると、母と娘と三人で久し振りに実家の台所に立った。今までの空白の時間が嘘のように、しばし穏やかな時間が流れる。談笑しながらも食事の支度は進み、四人で食卓を囲む。そして仏壇の遺影に目をやりながら柊子が[さあ、久し振りに賑やかなお昼になったよ。お父さん、健介も一緒に食べようね‥]と口にした時だった。美咲は母の目から大粒の涙が溢れるのを見た。
[お母さん‥]
驚いて自分を見つめる夫や娘にも構わず、千賀子は声を震わせて母に語りかけた。

[母さんごめんね、私んこつば心配しとってくれたんだよね、ずっと‥それなのに私は怒ってばっかりで‥意地張ってばっかりで‥]
[母さん‥]
[千賀子‥]
嘘をついてでも連れて来て良かった。千賀子の様子にしみじみとそう思い、涙ぐみながら二人を見ていた美咲と悦司だが、柊子はそんな娘に対し仏壇にある勝彦と健介の遺影に目をやりながら、言い聞かせるようにしっかりと口を開くのだった。
[いい?千賀子、私にはあたの悲しみはわかる。私も父さんば亡くしとるけんね。それも自分ば犠牲にして私ば助けてくれた。私も一時は立ち直れんかった‥でも泣いてばかりで毎日を過ごしよった時の夢には、お父さんはなかなか出てくれんかったつよ。たまに出てくれても、笑顔なんか全く見せてくれんで無表情のままだった‥]
[本当?]
[本当よ、でもまだまだ悲しさが癒えんで毎日泣いてた時だった。思いがけなく昔私ば助けてくれた、恩人の娘さんと会ったとよ。]
[母さんを助けてくれた?]
[うん、あたにも話したこつあるど?私には昔霊感があって困っとったって。そん時どうすればいいか、教えてくれた人がいたとよ。そん人はもう亡くなっとんなはったばってん、娘さんに会うこつがあってね。彼女に言われたつよ。魂は永遠だって‥死ぬちゅうとは永遠の別れじゃなかて。]
[母さん‥]
柊子は娘を見ながら今度は穏やかな口調で続ける。

[肉体が死ぬだけで魂は永遠に生きている。そしていつか新しく生まれ変わるんだって!必ず又会えるから‥お父さんも健介も生まれ変わって新しい人生を歩むことになる。だけど私達が天国にいくまできっと待っててくれるから、もう泣くんじゃなかよ。]
[母さん‥]
[今まで健介の夢ばたくさん見たろ?健介はどんな顔しとった?これまでのあたば見とったら、健介は決して笑ってなかったと思うよ。]
[うん‥うん‥]
[健介とあたが天国でしか会えんというこつを、あたが受け止められんのは無理なかて思う。だけど今のままじゃ健介はずっとあたんこつば心配し続けんばいかんとよ。あたのお父さんと一緒に‥]
[うん‥]
[しっかりしなさい、あたには悦司さんと美咲がいるじゃなかね。優しい旦那さんと可愛い娘が‥二人はずっとあたんこつば心配しとったつよ。大切な家族にこれ以上心配かけちゃいかん、いいね?]
[うん‥]
母の叱咤激励を受けて、涙が頬を伝うままに子供のように泣きじゃくる娘‥その涙を拭いながら、柊子はほっとしたように母親らしい笑顔を見せるのだった。
(良かった‥迷ったけど、嘘をついてまで連れてきた甲斐があった‥)

二人の姿を見ながら美咲は心からそう思った。父の悦司も満足そうな表情で母と娘を見つめている。そしてひとしきり涙を流し終えた後、昼食でお腹を満たした千賀子は、帰宅する前に家族で不知火を一緒に見た永尾神社をもう一度訪れたいとみんなを誘った。
[母さんも行こう!寒い中歩くの大変かもしれないから無理強いはしないけど‥]
[大丈夫、ここら辺は私にとって庭みたいなもんだけん。悦司さんもよかね?]
[はい。行きましょう、お義母さん。]
美咲と柊子はついこの間通った道を、そして悦司と千賀子は十年近く前に通った道を、それぞれが様々な思いを抱いて歩く。この前と同じような否、それ以上暖かな日だった。高齢の柊子に合わせるようにゆっくりした歩調で歩き永尾神社に着いた四人は、鳥居を潜ると海を臨む堤防の所までやって来た。すると千賀子は不意に大きな声で[健介!][父さん!]と二人の名前を海に向かって叫んだのだった。
[母さん‥]
母の思いがけない行動に驚く美咲と違って、父と祖母は静かにそんな母を見つめている。やがて千賀子は吹っ切れたように、今まで見せなかった決意に満ちた表情でしっかり口を開いた。
[父さんが亡くなったあの高潮の災害の後、堤防が補強されたんだよね。それでも海は今までと同じようにずっと変わりなくこの町を‥みんなの暮らしを見つめてきた。]
[千賀子‥]
千賀子は母に優しく頷くと、感慨に耽りながら亡き父の思い出を語り始めた。

[父さんは昔から無口な人だった。だから怒る時は本当に怖くて、姉さんと逃げ回ってたわ。でも今はそんな昔が懐かしい。取っつきにくい人で厳しすぎると反発した時もあったけど、父さんは家族を心から愛してた。母さんを助けることが出来て良かったと思ってる。満足してるよ、きっと‥]
[そうかな?]
[絶対そうよ。]
千賀子は柊子の懐疑的な言葉を強く否定して更に穏やかな口調で続けた。
[私‥本当は自分を責めていたのかもしれない。健介を死なせたのは本当は自分じゃないかって‥]
[えっどういうこと?]
母の意外な告白に美咲は驚いて訳を尋ねる。そんな娘を見ながら千賀子はしみじみとした口調で続けた。
[健介は私の過度の期待をプレッシャーに感じてたんだと思うの。あの子の遺品の日記を読んだの。中にそんな気持ちが綴られてた‥あの子が地元じゃなく他県の大学を選んだのは、家を離れて私のプレッシャーから逃れたかったんじゃないか‥健介の日記を読んで私にはそう思えて‥だからかえって立ち直れなかったのかもしれない。私は自分が許せなくて‥]
[お母さん‥]

初めて聞かされた大学進学の時の兄の真意を知り、美咲は驚いて思わず父にも目を向けた。だが悦司はそんな妻の思いには既に気付いていたらしく、娘にただ優しく頷くのだった。そんな二人の様子を見つめながら千賀子は思いを吐露し続ける。
[でも、ここに来てやっとわかったような気がする。あの子は親のプレッシャーなんかに負けるような子じゃなかった。自分の人生をしっかり歩もうとしていた。私が自分を責める必要も無いし、あの子に私の立ち直れない姿を見せるのは却って酷なことじゃないかって、やっとそう思えるようになった‥だって幻だったのかもしれないけど、やっと見ることが出来たんだもの、健介の笑顔を‥]
[幻じゃなかよ。本当に微笑んでくれたつよ、健介は‥そうでしょう?千賀子‥]
[母さん、有り難う‥故郷はやっぱり素敵な場所だった。何を怖がってたんだろうね、私は‥これからのことはのんびり考えるわ。旦那にも娘にも心配かけないように、焦らず‥]
美咲は母の言葉を嬉しく思い思わず悦司と柊子を見る。その二人の目にも光るものがあった。美咲は思った。悲しみは癒えることはないだろうが、これからはきっとみんなで乗り越えていける。父と母と祖母‥自分にとってかけがえのない肉親であるこの三人は、自分がここを離れた後もしっかり地に足をつけて歩いていける。その手応えを十分感じていた。と同時に、美咲は不知火を家族で見に行ったあの幻想的な夜をもう一度思い返していた。提灯の灯りを頼りに永尾神社の暗い境内を歩く。そこにはたとえ見えなくとも健介も一緒にいる筈、もう一度みんなであの幻想的な夜を楽しみたいなと心からそう思う美咲だった。(了)