償い

第一章 謎の声に導かれて

[出して‥お願いだからここを開けてよ‥]
遠くで助けを呼ぶか細い苦しそうな声がする。あの声がする所に行かなければ‥そして助けてあげなければ‥そう思って必死に体を動かそうとするのだが、いかんせん身体はびくともしない。どうにもならずに唇を噛み締め、そのうちに身体も心も自然に項垂れてしまう自分がいた。
(そう‥自分は何も出来ない。いや出来ないというより、最初から何も聞こえなかったのだ。誰が自分に助けなど求めるものか‥)
それは諦めといった境地ではなく開き直りというべきものであり、同時に自分に言い聞かせるいつもの言い訳だったかもしれない。

するとそのうちに、暗闇の中で自分を呼ぶ声が再び聞こえてくる。だがその声は、助けを求めるあの切迫した声ではなかった。
[あなた、どうしたの?あなた‥]
体を揺すられて、次第に現実の世界に戻っていく。そして和範は、いつものように妻の正代に起こされて悪夢から覚めるのだった。
[又夢見たの?うなされてたわよ。]
[ああ、済まない。]
[この頃あなたしょっちゅうじゃない。疲れてるんじゃないの?それとも何か心配ごとでも?話して‥?]
心配そうに覗き込む妻に大丈夫だとしっかり笑顔を見せて 、和範は床につく為寝室へ向かった。だが歩きながらも、和範の心は知らず知らずのうちに、過去の記憶を探るように目まぐるしく思いを巡らせていた。

(何故、こんな夢を見るんだろう。あの声は誰?あの声を聞いた後にいつも心が痛むのは何故なんだ?あの声は俺に助けを求めてるとでもいうのか?良心の呵責?こんな悪夢を繰り返し見るのは、俺が良心の呵責に苛まれているとでも言うのか?俺が何をしたというのか?)
はっきり思い出せない。然し和範は気付いてこそいないものの、あの声について確かに心に封印していた忌まわしい記憶があったのである。そして思い起こしてみれば、この悪夢に悩まされるようになったのは、和範が二ヶ月程前に思いがけず裁判員に選ばれたことが切っ掛けだった。優しくて真面目、その上成績優秀でスポーツ万能‥更に容姿も申し分ないとくれば、その人は間違いなくその人を知る人々の多くに畏敬の念を持って認識されるようになる。正しく和範は、そのような目でみんなに見られてきたし、今もそう思われている人物だった。彼は幼い頃から優等生として知られ、中学高校大学とスポーツも万能で勉学とスポーツを立派に両立させ、一流大学を出た後は文字通り一流企業に就職し誰もが羨む華やかな人世を歩いてきた。

その上和範は性格も穏やかで普段から人を思いやる優しい人間だった。少なくとも今の彼を知る人々のほぼ全てが、そのような彼を本当に尊敬に値する人間だと信じて疑わなかったといえる。そして彼のような非の打ち所のない人物は、多少なりとも周囲の称賛の声に奢ってしまいかねないものなのだが、和範には少しもそのような所はなかった。そんなところも、彼が周囲から尊敬の目で見られる理由の一つだった。そんな彼が大学時代から付き合っていた現在の妻正代と結婚した時は、華やかな経歴の和範と地味な印象の正代とは少し不釣り合いではないかと、周りの人々は陰口を叩いたものだ。だが和範の新妻への愛情は確固たるもので、誰もがそんな彼の深い愛情に感銘を受け、心を打たれたものだった。

二人の結婚式は誰もが感動する素晴らしい式となったが、正代にはそんな優秀なエリートの妻になる事に、内心戸惑いもあったようだ。それでも和範の自分への揺るぎない愛情を感じ取ると、正代は安心して和範への信頼感を深め、全力で夫を支える良き妻であろうとした。何もかもが順調だった。順調にいく筈だった。たった一つの事を除いては‥たった一つのこと‥それは二人が結婚して今年で七年になるのだが、二人の間にまだ子供がいないことだった。子供が出来ないことについて夫とあまり正面切って話そうとしない正代だったが、さすがにかなり気にしてるようで、数年前から思い悩んでいる様子が見て取れた。和範は和範で表面上はあまり気にしないふうを装っていたが、やはり心のどこかになかなか親になれないという現実を受け入れられない自分がいるのを、否定出来なくなっていた。そのうちに二人よりも後に結婚した弟夫婦に先に子供が出来て、両親から[おまえ達も早く孫の顔を見せて私達を安心させてくれ。]と直接懇願されるようになってから、和範は何故か少しずつ心に引っ掛かるものを感じ始めるようになってきていた。

子供、命‥何か自分は大切な事を忘れているような妙な‥不思議な感覚‥まるで自分が親になることが罪悪そのものであるかのような‥
(何でこんな風に思うのかな?自分は親になれない、なってはいけないって何でそう考える?何が引っ掛かってるんだろう‥)
よく考えてみるのだが、そのような気持ちを何故自分が抱いてしまうのかわからない。まだこの頃は、現実の世界では良心の呵責に苛まれることのない和範だった。
そのうちに顔を合わせる度に孫の顔を見せるようにせがんでいた両親が、何故かぱったりとその話をしなくなった。急に何も言わなくなった両親に戸惑った和範だが、弟の久則からある日その訳を聞かされると、驚くと同時に却って複雑な気持ちになるのをどうすることも出来なかった。それは、正代の両親から不妊の原因が正代には無いという医師の確固たる証明書を添えた手紙が、和範の両親に送られてきたことによるものだった。

その手紙には、正代には妊娠出来ない身体的障害は何一つなく健康そのものであること、それは医師が書いてくれたこの証明書ではっきりしている。だから子供が出来ないことについて娘を責めないで欲しいという、娘を思う親心が切々と綴られていたという。そしてそれは同時に、不妊の原因が夫の和範の方にあるのではないかという、正代の両親からの無言の圧力が秘められていた。両親が孫のことを全く口にしなくなったのはそんな経緯があったからだと弟から聞かされた時、和範は確かにあまりいい気持ちはしなかったが、それでももうあまり思い悩むのはやめようと自分に言い聞かせ、それからは妻と二人再び穏やかな暮らしへと戻っていった。正代とは子供のことは意識して話さないようにしていた和範だが、正代も同じく何も言わなかった。両親とはそれからもちょくちょく顔を会わせていたが、父も母も孫のことは全く口にしなくなっていた。それでも‥気持ちが完全に晴れた訳ではなかった。和範は折に触れ、弟が言っていた言葉を思い出すのだ。

[兄さんだけがそんな遺伝子に影響を及ぼすような病気にかかったなんて、絶対そんなこと無かったよ。確かに先に子供が出来たのは僕達の方だけど、でも兄さんも僕も同じように育ったんだから出来る筈だよ。麻疹?水疱瘡?兄さんがかかった後、僕も必ず同じ病気にかかってきた。でも僕は、普通に親父になってるしね。実は僕、義姉さんに原因があるんじゃないかって、ずっとそう思ってたんだ。親父達も多分そうだと思う。これは義姉さんには言わないでね。でもお医者さんは絶対そんなことは無いって言ってるんでしょう?証明書まで書いてくれたんだから‥だったら何故なんだろうね。兄さんのような優秀な人間の子供なら、さぞや出来のいい子供が生まれるだろうに‥]
[それは皮肉か?]
[ううん、でも兄さんも病院で検査を受けるつもりは無いんでしょう?]
[そこまでは考えていない。]
[それなら子供のことは忘れて成り行き任せて暮らしていくしかないよ。そのうち忘れた頃にひょっこり出来るかも‥]
何か苦々しい思いに駆られつつも、最後の言葉に苦笑して和範は弟と別れた。

さすがに病院で何故子供が出来ないのか、自分の身体について色々調べられるのは正直言って抵抗があった。屈辱感といったものだろうか‥エリートとして認められ続けた自分が初めて味わう、それは和範にとって屈辱以外の何ものでもなかったのである。その後帰宅した和範は妻正代の顔を見ながら、改めて自分は夫婦二人の生活に十分満足してる事を静かに伝えた。直接子供のことは口にしなかったが、和範は敢えて口にしないことで自分の気持ちをしっかり受け止めて欲しいと思ったのである。正代はそんな夫の言葉に最初は少し戸惑ったようだったが、やがてゆっくり頷くと、彼女らしい控えめで穏やかな微笑を見せるのだった。子供のことはそれからは二人の会話から一切消えてしまったが、二人はそれはそれで元の静かな生活を取り戻していた。いや、取り戻した筈だった。しかしながらそれは和範自身がそう思っただけで、子供が出来ない事に端を発した彼自身の言い知れぬ不安はこの頃から少しずつ芽生えてきて、彼の誰もが羨む素晴らしい人生の歯車を確実に狂わせていったのである。但し、そんな事態に怯むことなく真っ向から立ち向かっていったのも彼自身であったが‥

そんな彼が抱いた次の不安は、思いがけない所から来た封筒で芽生えることになった。
[あなた、裁判所からあなたに手紙が来てるわよ。]
正代がある日、緊張した面持ちで和範に封筒を持って来た。
[裁判所?何でそんな所から‥]
[わからないわ‥]
正代も少し不安げな表情で、封を切る夫の手元を見つめる。そして封を開け中の書面を読んだ和範は、思いがけない文面に驚き早速心配そうな表情の妻にその内容を伝えた。
[僕が‥裁判員に選ばれたそうだよ。これは召喚状だ。]
[えっ‥]驚く正代に、和範は落ち着いて話を続ける。
[何月何日の何時に、横浜地裁に来るようにと書いてある。もし断る時はその理由を書いて提出してくれと‥驚いたな、裁判所からの手紙なんて何だろうと思ったけど、裁判員か‥まさか自分が選ばれるとは‥]
[でもぴったりじゃない、あなたには‥勿論受けるんでしょう?]
正代は、非の打ち所の無い誰からも立派な人間だと目される夫が裁判員に選ばれたことを、驚きというより寧ろ誇らしさを持って受け止めているようだった。

[うん‥今のところ仕事も大丈夫だし、断る理由は無いしね。]
[断るなんて‥あなたにぴったりの役目じゃないの。きっとみんなそう言う筈よ。]
[だけど、僕が裁判員に選ばれたことをみんなに態々教える必要は無いからね。勿論仕事に影響するから、会社には言わなきゃいけないし、会社から止められたら断ることになるだろうけど、今のところはそう大したプロジェクトも入ってないからね。多分受けることになると思う。だけど裁判員ねえ‥人を裁く立場に僕がなるとはね‥]
数年前裁判員制度が始まった時には、難しい判断を強いられるような様々な裁判がメディアで話題に上がっても別に何の感慨も抱かなかった和範だが、いざ自分が選ばれてみるとさすがに気が引き締まり、担当することになる事件が難しい判断を強いられる事件でなければいいのだがと、ついそこまで考えてしまうのをどうすることも出来なかった。それから二週間後、緊張した面持ちで横浜地裁の建物の中に入る和範の姿があった。

和範夫婦が住んでいる横浜市は、首都圏への通勤者を多く市民として有しているいわば東京のベッドタウンであり、通勤可能な圏内にマンションを購入して悠々自適ともいえるマイホームライフを満喫している和範自身、確かにエリートに違いなかった。そんな彼が、裁判員として人を裁く立場になったのだ。正代が言った通り会社の上司や同僚は勿論、彼を知る人々の殆どが彼が裁判員に選ばれたことを知ると、申し分のない人選だと口々に評した。裁判員は人柄まで選定して選ばれるのだと、中にはそう公言して憚らない人もいた。それだけ和範が周囲から人望が厚い人物だと思われているということだが、思えばこの頃から和範の脳裏に何かもやのように引っ掛かっているものが生じてきていた。それが一体何なのか
無意識のうちにあまり詮索しないようにしていた和範だが、いざ犯罪者と向き合うことになると思うと、嫌でもそのもやのことを意識せざるを得なかった。もやとは忘れてはいけない何か大切なこと‥
(何が引っ掛かってるんだ?何が‥)
いつも頭の中に浮かんでは消えかかる過去の遺物‥和範はそれを感じる度に不安に駆られたが、それが何なのか明らかになるのはもうすぐだった。

[皆さん、宜しくお願いします。]
不意に声がした。地裁に入って通された部屋で、和範は他の選ばれた裁判員と共に担当する裁判官から丁寧な挨拶と説明を受けた。和範を含めて選ばれた裁判員は六名、男性四名女性二名で男性は皆会社員、女性は二人とも主婦で一人は子供を親にみてもらいながらの参加だった。
[皆さん、ご苦労様です。裁判が終了するまでこれから三ヶ月程かかると思いますが、宜しくお願いします。]
静かな部屋に、担当裁判官の落ち着いた声が響く。互いに挨拶し自己紹介を終え裁判の流れを一通り聞いた後、担当裁判官は和範達が担当する事件の概要について重い口を開いた。それは何とも言いがたい、考えようによっては確かに判断に窮する難しい事件といえた。その事件とは、二人組の大学生の男が遊ぶ金欲しさにひったくりを思い付き、そのターゲットとして選んだ高齢女性を誤って自転車ごと転倒させ死亡させたという事件だった。

事件の概要が詳しく述べられた後、被告の供述調書そして取り調べにあたった警察官の調書、更に被害者の人となりそして遺族の意見陳述書など判決を下す為に決められた日程の間で、和範は幾度となく拘束された地裁の空間の元必要書類に目を通すことになったのだが、見れば見るほど彼は何か被告二人の人間性に納得出来ないものを感じた。彼らは勿論謝罪している。反省しているという‥だがそれは心からの謝罪だろうか?反省だろうか?ただ運が悪かっただけ‥偶々ターゲットとして狙った相手が転んで打ち所が悪くて死んでしまっただけで、自分達はそんなに大それた罪を犯したことになるのか?何か二人の供述調書を読んでいると、二人の真意がそういったところにあるように、和範には思えるのだった。そしてそう感じたのは和範だけではないらしく他の裁判員も同じようで、実際取り調べにあたった警察官も意見陳述書で、二人は口では申し訳なかったと言ってるもののその態度には反省の様子はなく、二人はやってしまったことの重大さが今一つわかっていないように思うとそう記されていた。

それでも二人には最初から被害者を死なせようというような意図は勿論なく、二人とも強盗及び過失致死の初犯として裁かれることになるのだ。和範は無論人を裁くことの難しさは十分自覚して裁判員を引き受けたつもりだが、それでも日々裁判員として過ごすなかで戸惑うことも多かった。自宅に帰っても裁判員は裁判の内容を、家族は勿論誰にも話すことは出来ない。もし話したりしたら罰せられる。緊張を強いられて生活するなか、それでも時は確実に過ぎて三回の公判を経た後判決の日はきた。和範達裁判員の被告達に対する心証は、決して良くはなかった。彼らは検察の求刑の刑期をあまり減らさないようにして、二人に実刑を下した。勿論何の罪もない人の命が奪われている以上執行猶予はつけられなかったし、皆つけようとも思わなかった。和範は裁判長が判決文を読み上げている間、被告が人をおちょくったような態度を見せるのを間近で見て、怒りがこみあげるのをどうすることも出来なかった。それでも和範に出来ることは限られていた。彼がすべきことは、今自分に出来ること‥それだけだった。いや、それだけの筈だった。

その時だった。[偽善者‥]ふと誰かの声がした。地裁で裁判員として立派に務めを果たした和範達六人が、いつもの部屋に戻ってきたその時だった。[終わった‥]
やり遂げたという満足感を秘めた言葉を、感慨深げに誰かが呟く。担当裁判官や他の裁判員ともう顔を合わせることはないだろうと思うと、少しほっとしたそれでいて寂しいような心持ちになっている和範の耳元に突然誰かが囁いたのだ。[えっ‥]驚いて周囲を見回すが、勿論そういう言葉を発したと思われる人物はいない。見ると他の裁判員や地裁の職員は、それぞれ堅い握手を交わし別れを惜しむ言葉が部屋中に飛び交っている。だが、その中で確かに聞こえたのだ。偽善者だと‥そして正にその時だった。和範の脳裏に、封印していた忌まわしい記憶の切れ端が突然蘇ってきた。
[偽善者だ‥おまえこそ偽善者だ‥]
今にして思えば、その言葉は何十年も忘れていたある重大な事実に対する、和範自身の良心の呵責から発せられた、正に彼自身の声だったのかもしれない。和範はその時、自分が何十年も前に一人の人間を見殺しにしたことを思い出したのである。

[あっ‥]
自分はあの時、確かに助けを求めてた人間を見殺しにしている。和範は呆然とその場に立ち尽くした。すると彼と同じ立場の裁判員だった水上という男性が、不意に和範に話しかけてきた。
[原田君どうしたの?ぼおっとして‥]
[あっああ‥いや、何でもない。]
必死に平静を装おうとしても動揺は隠しきれず顔に出る。この時の和範は自分を保つことで精一杯だったが、相手は更に和範を心配して話し掛けてくるのだった。
[何か顔色悪いよ。この後の記者会見、君と波多野さんが代表して出ることになってるけど、大丈夫?体の具合でも悪いの?]
[記者会見?]
そうだ。彼に言われるまですっかり忘れていた。自分はこの後マスコミの前に出て、この事件を担当した裁判員として、被告へ判決を下したことへの思いをコメントしなければならない立場だったのだ。六人の代表として女性の波多野さんと共に非の打ち所のないパーフェクトな人間として彼がえらばれたのだが、他の五人は最も裁判員に相応しい和範が、意見を述べるべきだと主張して譲らなかった。

だが‥和範は今まで味わったことのない、泣き出したいような衝動に駆られ自然に体が震えてくるのをどうすることも出来なかった。出来ない‥出来ない‥自分がどれだけ罪深い人間なのか、今やっと思い出したのだ。
[原田君、大丈夫?気分でも悪いの?]
青ざめていくその表情に気付いて、水上は勿論外の裁判員も声をかけてきた。地裁の職員も心配そうに彼を見つめている。
[すみません、ちょっと気分が悪いので、記者会見は代わってもらえませんか?]
和範は重い口を開いて、その場にいた全ての人々に頭を下げた。
[あっああ‥それは構わないですよ、水上さん、宜しいでしょうか?]
[僕はいいですけど‥]
[原田さんはすぐ帰られますか?]
[はい‥]
[あの‥大丈夫ですか? 何なら車で御自宅までお送りしましょうか?]
[あっいえ、ゆっくり行けば大丈夫です。すみません‥]
和範自身、今は一刻も早く一人になりたい心境だった。

それでも自分という人間を維持し、体裁を整えなければならない。それだけは自分に言い聞かせ、和範は車で送るという地裁の職員の申し出を断ってやっとその場を離れた。

一人にはなれたが、かといって和範の心が救われる筈もなかった。和範は思い出したのだ。自分が‥自分こそが罪人であり、犯した罪を償わなければならない人間なのだということを‥
[何故‥何故今まであのことを思い出さなかったのか‥そして何故、今になってこの日に思い出したのか‥]
和範は歩きながら、自分に問いかけずにはいられなかった。思えば裁判員に選ばれてからずっと、彼は心に引っ掛かるものを感じていたのだ。それが何なのかはっきり思い出す切っ掛けになったのは、よくよく考えてみれば被害者遺族の意見陳述書の内容を法廷で耳にしてからのような気がする。
和範が担当した事件の被害者は六十四才の女性で彼女は若くして夫を亡くし看護師をしながら二人の子供を女手一つで立派に育て上げた、母としても人としても立派な人生を送った人物といえる。

二人の子供は結婚して家庭を持ち、それぞれに孫も生まれ、苦労した分やっとこれからのんびり出来ると本人は勿論そう思っただろうし、子供達もこれからしっかり親孝行しなければと思っていたのだろう。そんな矢先に起きた事件だった。彼女の子供は姉と弟で、特に遺族の意見として採用された姉の言葉は、静かな法廷で正にそこにいる全ての人々の心に染み入るものだった。和範の耳には、彼女が書いた文章を読み上げる検事の声がまだ響いているようで、それは同時に和範にとってずっと心に封印していた過去の過ちに対する良心の呵責を、確実に思い起こさせる声ともなったのである。和範は静かに、彼女の言葉を思い出していた。

[私は母を誇りに思っています。母は平凡な女性ですが、立派な一生を送った立派な人でした。人はその時置かれた状況によって、強くも弱くもなります。父が病気で亡くなった時、私は九歳弟は六歳でした。平凡な一主婦に過ぎなかった母はその時は悲嘆にくれましたが、涙を流すだけ流した後、私と弟を育てる為に結婚前に就いていた看護師という職業に戻り、強い母となって時には父親の役割も兼ねながら私達を懸命に育ててくれました。私達は、時にはそんな母に反抗したこともあります。でも母はどんな時にも真っ直ぐに前を向いて、私達に接してくれました。結婚して親になった今母の苦労が身に染みて感じられて、これから親孝行しなければと弟と二人誓いあった矢先に、母は何の面識もない二人の男に命を奪われてしまいました。彼らは最初謝りもせず、転倒して打ち所が悪くて死んでしまった母に対して、まるで運が悪かっただけと言わんばかりに悪態をつき、人の命を奪ったことなど何とも思ってないようでした。弁護士の勧めで謝罪文を書いたようで、それを弁護士の方が私達の所へ持ってこられましたが、私達は受け取りを拒否しました。

彼等が心から謝罪していないのは、法廷での態度がそれを明確に示しています。そんな彼等が書いた謝罪文など、私も弟も読む気にはなれません。彼等は、人の命の重さを全く理解していないと思います。ですが私は思うのです。人は決して聖人君子ではない。だけど何の罪もない人の命を奪う、又軽視するような行為は必ず罰を受けるものです。彼等が今は理解出来なくとも、この後何十年もの人生を生きる間にこの過ちが年月と同様その重みを増して、彼等の心を苦しめることになるでしょう。私は自分が理不尽な事件の被害者遺族になるとは思っていませんでしたが、それでも常々考えてきました。人を殺しておいて‥被害者が幼い子供や母のような高齢者など無抵抗な弱者なら尚更ですが、その犯人が捕まることなくもし逃げおおせたなら、その人には本当に罰は下らないのかと‥もし償うことをしなくとも、その人は他の大勢の普通に暮らす人々と同様平凡な一生を送れるのかと、幸せに暮らせるのかと‥答えは勿論ノーです。人には良心というものがあります。どんなに善良な顔を装って生きていこうとしても、その人は決して幸せにはなれません。なれないのですから‥二人の被告にはこれから先罪を償う刑期の中で、人の命の重さというものをしっかり認識し噛み締め、学んでいって欲しいと私は心からそう願っています。

法廷にいる心ある人々全てに染み入るこの文章は、和範にとってまさしく彼が過去に封じ込めていた忌まわしい記憶を呼び起こす最大の要因となった。[出して‥ここを開けてよ‥]一度だけ聞いたあの悲しそうなか細い声が、そしてその声を聞いた時の驚きと戸惑いが、今和範の脳裏に鮮やかに蘇る。決して忘れていたわけではない。だが、自分のせいではない。自分には関係ないし責任もないとそう自分に言い聞かせ、出来るだけ考えないようにしてきたのは事実ではないか‥結果として声の主は亡くなっている。あの時、自分が鍵を開けてさえいれば、又彼が体育館裏の用具置き場に閉じ込められていることを誰かに伝えてさえいれば、彼は死ぬことはなかった。間違いなく助かっていた筈なのだ。和範は強い悔恨の念に駆られた。そしてつくづく思うのだった。
(本当に裁かれるべきは自分だ‥)
偽善者‥確かに耳にしたあの言葉は、思えばずっと封印してきた和範自身の良心の声ともいえる心の声だったのかもしれない。自分は偽善者の仮面を被って、あれから何十年もの年月を平然と生きてきたのだ。

和範は唇を噛み締め、静かにあの頃を思い出していた。その頃の彼は、確かにいじめを見て見ぬふりをしていた。彼が中学三年生の時の出来事だが、クラスの中で最も大人しく母子家庭で家庭的にも恵まれていない遠藤という男子生徒が、クラスの落ちこぼれといったどちらかといえば皆に嫌われている鼻つまみ者四、五名からいじめられるようになった。弱肉強食というが彼がいじめの対象になったのは、やはり彼が誰よりも大人しくいじめられても仕返し出来ないクラスで一番の弱者だったからに他ならない。それに対し幼い頃から勉強にもスポーツにも秀でていて、おまけに容姿も申し分なかった和範は、当時当然のようにクラス委員長を務めていた。先生やクラスメートからの信頼も厚く優等生ではあったのだが、彼の心は真の意味での優等生ではなかった。彼は遠藤がいじめられる場面を目の当たりにすると、密かにほくそ笑んだりして楽しんでいたのである。時には、彼等のいじめをこっそり助長するような行為をして、その結果を独りで楽しむようなこともあった。彼がそのような卑怯な真似をしたのは、やはり皆から優等生であり非の打ち所のない人間として見られ続けることのプレッシャーからくるストレスのはけ口として、遠藤がいじめられる姿を見て楽しんでいたからに他ならないだろう。自分はクラス委員長であり、生徒は勿論先生達からも信頼の目で見られている。どちらかといえば止める立場だと言えよう。

だが‥和範は大人しく皆からのろまと陰口を叩かれ何事においても動作が遅い遠藤を、いつも苛立ちの目で見つめていた。やがて彼がクラスの悪友達のいじめの標的になると、そのいじめられる様子を垣間見ては密かに楽しんでいたのである。時には遠藤がいじめっ子から逃れようとしてもわざと両者が出会うように画策したり、いじめっ子達をわざと怒らせるように仕向けたりして、その結果を楽しんでいた。この時まだ十五歳の少年だった和範には、人としての良心は芽生えていなかったといえるだろう。
(どんなことをされても言い返さないし仕返しもしない。そんな自分が悪いんじゃないか!悔しかったら言い返してみろよ!)
和範自身、この時自分が悪いことをしているという意識は殆どなかった。だが、遠藤に対するいじめは単なるいじめで終らなかった。そんなある日、取り返しのつかない悲劇が起きたのである。和範は、心の奥底に封印して取り出そうとしなかった記憶‥あの日の出来事を静かに思い返していた。

放課後、あのいじめっ子達が遠藤を体育館裏の用具置き場に閉じ込めようとこっそり話していたのを、いつものように立ち聞きしていたこと‥放課後遠藤の姿を確認出来なかった和範は、密かに用具置き場に赴きその時[出して‥お願いだからここを開けてよ‥]というか細い声を確かに聞いた。だのに自分は知らん顔をしてそのまま家に帰ってしまったのだ。遠藤が閉じ込められているのを知った時和範は戸惑ったもののやはり一方ではその状況を面白がっている自分がいた。誰かが開けてくれるだろう。とにかくどうにかなる。誰かがどうにかしてくれる。そう軽く考えていた。それがまさか‥遠藤が死んでしまうなんて‥和範は今まさに、これまで味わった事の無い程強い後悔の念に駆られていた。
(僕は人殺しだ。一人の人間を見殺しにしておいて、良心の呵責すら感じてこなかった、最低の人間だ‥)
夜になって遠藤が帰宅していないことを先生から電話で知らされた時、驚きとともに焦りも感じた。確かに遠藤が用具置き場に閉じ込められていることを、言わなければと思った。人の生死に関わることなのだ。黙っていてはいけない。

当時は二月、受験間近の厳寒の頃ほっておいたらどうなるかわからない。まだ十五歳だった和範にも、それくらいの良識はあった。いや、あった筈だった。だがその時、和範は保身に走ってしまったのだ。今遠藤が用具置き場にとじこめられていると話したら 、何故そのことを知っているのか、そして何故そのことを早く言わなかったのか、助けようとしなかったのか‥そう聞かれるに決まっている。そしてその事を追及されたら、自分が今までいじめを見て見ぬ振りをしてきたことや果てはそのいじめを助長するような真似をしてこっそり楽しんでいたことまで、皆に知られてしまうかもしれない。それはどうしても優等生である自分の立場としては避けなければならないことだった。和範はとにかく遠藤を閉じ込めたいじめっ子達の名前を上げ、自分のことは棚に上げて彼等がよく遠藤にちょっかいを出していじめていたことを告げた。そして彼等が何か知ってるのではと、誠しやかに先生に伝えた。その悪友達については、勿論先生や他の生徒達も疑念を抱いていたらしく、中には何も知らないで和範と同じようなことを言ってくる生徒も多数いた。

そしてそのまま不安な時間が過ぎ、深夜十一時を回った頃最悪の結果をむかえた。遠藤を捜していた学校の用務員が、用具置き場の中で倒れて冷たくなっている彼を発見したのだった。即座にクラス全員に連絡が行き渡り、和範にも取り返しのつかない悲劇が起きたことが知らされたのだが、彼自身まだ良心が痛むという状況ではなく、ただ何故?という疑問符しかわいてこない心境だった。居所を知っていたにも関わらず口をつぐんでいた和範だったが、用具置き場という学校の中にいる以上すぐに見つかる筈だと思っていたのだ。それなのに‥和範は混乱する頭で必死に考えた。遠藤が見つからない時みんなで‥といっても大人が殆どだが、学校中を捜した筈だ。用具置き場から出られない状況だったとしても、中から大声で叫べば必ず外の人の耳には届いた筈、何故遠藤は大声で助けを呼ばなかったのか?
いくら考えても当の遠藤が亡くなってしまった以上、和範には答えを出すことは出来なかった。その後遠藤の死因が凍死だと聞かされた時も、用務員が用具置き場で倒れている遠藤を発見した時そこには鍵がかかっていなかったと聞かされた時も、和範はもう何も考えることが出来ずに、ただ呆然と事態の成り行きを見守っていた。

遠藤の葬式には他のクラスメートと一緒に和範も出席したのだが、その時喪主として涙を流す母親の姿を見ても、そんな彼女に土下座して詫びる担任教師の姿を見ても、これといって何の感慨も抱くことの無い和範だった。その時和範達クラスメートにはショックを与えてはいけないという配慮があったのか、遠藤の死については事実のみが伝えられ、あまり詳細が語られることは無かった。この時担任だったベテラン女性教師は、遠藤が亡くなったことを知ると殆ど半狂乱になって嘆き悲しんだが、和範はまるで感情そのものを無くしたかのように、そんな担任教師の様子や他の生徒達が嘆き悲しむ様を冷ややかに見つめるだけだった。そしてその後、遠藤を閉じ込めた当のいじめっ子達にこの悲劇を招いた責任があるのではないかという、みんなからの当然過ぎる批判が集中することになったのだが、当の悪がき達は遠藤を閉じ込めたことを決して認めようとしなかった。彼等の悪巧みをいつものように立ち聞きしていて遠藤が用具置き場に閉じ込められていることにいち早く気付いていた和範だが、結局彼も自白することはなかった。和範はやはり自分の立場を第一に考えていた。だからそのことを、警察も交えた公の場面で口にするわけにはいかなかったのである。

それに遠藤の死因が凍死だったことと、用務員が彼を発見した時、部屋には鍵が掛かってなかったということで事件性は薄れる結果となり、最終的には学校関係者の処分も思いの外軽いものとなった。そして担任の教師だけが責任をとって自主的に学校を辞めることで、彼の死の責任について暗黙の決着がつけられたのである。
(片岡、野崎、名村、それに末‥末次だ!)
和範は無意識のうちに、遠藤をいじめそして用具置き場に閉じ込めた悪がき達の名前を思い出そうとしていた。それは、自分が遠藤の死に関して決して無関係ではない。それどころか、彼を助けられたのにその状況を面白がった末に自分の保身に走り、彼を見殺しにしてしまった。その罪の深さは、直接彼を閉じ込め死に至らしめた四人と何ら変わらないことを和範自身が痛感しているからに他ならなかった。和範は記憶の糸を手繰るようにあの日のことを思い出していた。あの日‥あの日は本当に寒い日だった。当時の和範は、自ら助けを呼ばなかった遠藤自身が悪いのだと自分に言い聞かせ、悪友達の悪巧みや遠藤の[助けて‥]というか細い声を聞いても見てみぬ振りをした自分を正当化しようとしていた。それは勿論、彼がまだ十五歳の少年に過ぎなかった故の自分を守ろうとした幼い判断だったといえよう。

だが今の自分‥大人になった自分は違う。違わなければならないのだ。思えばあの被害者遺族の陳述書を裁判員として法廷で耳にした時から、和範自身の罪滅ぼしは始まったのかもしれなかった。裁判員という重い責任から解放されたもののそれ以上の深い人生の課題を背負って帰宅した和範は、心配する妻をよそに二年前にあった同窓会で持ち帰った同窓生の近況や住所を記した配布物を貪るように探した。和範の体調を案じた裁判所からの電話を受けていた妻の正代は、帰宅した夫を心配して色々声をかけてきたが、今の和範の耳には入らなかった。そしてやっと探し出したアルバムをめくりながら和範は思う。あの四人のことを調べて自分はどうするのか?どうしようというのか?今更償えるものなのか?どうなるものでもないのではないか?では何故、何を探すのか?それでも、全ては自分がこれから生きていく姿勢を正すことに繋がる。自分という卑怯で卑劣な人間が、これから本当の意味で人として幸せに生きていけるのか、人生を再構築出来るのか?全てはこのことに繋がる。和範の頭には、あの遺族の言葉がこびりついて離れなかった。どんなに善良な顔を装って生きていこうとしても、その人が何の罪もない人の命を奪った事実は消えない。その事実と向き合い心から反省し償おうとしなければ、その人の心は永久に救われることはない。和範は今、その言葉の重みをひしひしと感じていた。

自分は直接いじめていない。だから、自分に責任はない。当時和範は自分にそう言い聞かせ、それ以上考えようとしなかった。だが、本当にそうなのか?彼等のいじめを見て密かに楽しんでいたのは、他ならぬ自分ではなかったのか?時にはこっそりいじめを助長するような真似までして‥それはいじめに加担していたと同じ、いやそれ以上にたちが悪い最低の行為ではないか、和範は唇を噛み締めた。どうして自分は、あんな卑怯なことをしてしまったのか‥その時の自分の気持ちを和範は静かに思い返していた。当時優等生として誰からも信頼されていた和範は、ちょっとわき道にそれることすら、学校帰りにゲームセンターや喫茶店に立ち寄ることなども、人の目を気にして一度も出来なかった。そんな和範の、優等生として周囲から見られ続けるプレッシャーのはけ口として、そのいじめはたしかにあったのだ。彼にだって羽目を外したい時はあった。友達と思い切り遊びふざけ、親に叱られるような行動もしたい年頃だった。だが優等生である彼へのプレッシャーが、羽目を外すことを許さなかった。そして彼は、プレッシャーのはけ口として卑劣な行動に走ってしまったのだ。弱い者を助けるどころか、寒い用具置き場に一人の人間が閉じ込められていたのに、誰よりも早くそれを知っていたのに助けることもなく、自分は帰ってしまった。絶対に許されることではない。更に‥和範は自分を責め続けた。この悲劇を封印して自分は平然と生きてきたのだ。彼が死んだことも忘れて何年も‥何年も‥今更ながら自分は何という卑怯なことをしてしまったのか‥和範は頭をかかえた。

封印していた忌まわしい記憶を呼び起こしたその時から、和範は良心の呵責に果てしなく苦しめられるようになったのである。とその時、思い悩む和範の背後でふと声がした。
[どうしたの、あなた‥何を探してるの?]
先程から声をかけられていたが、耳に入らなかったらしい。それでも妻の正代は不安だったのか、和範が気付く程の大きな声で夫を振り向かせた。
[えっ‥]
[あなた大丈夫なの?裁判所から電話があったのよ。あなた具合が悪くて記者会見も代わってもらったっていうじゃない?そして車で送るという申し出も断って帰られたって。だから心配して電話をかけてこられたのよ。ご主人、無事に帰ってこられましたかって。]
[あっああ‥]
[ああじゃないわよ。全くこっちはこっちでずっと心配してたのに、帰って来るなり机の中や書棚を引っ掻き回して本当にどうしたの?確かに顔色は良くないみたいだけど、体調が悪い訳じゃないんでしょう?何かトラブルでも?心配事があるんじゃないの?]
正代の言葉は良心の呵責に苦しめられていた和範を、現実へ一気に引き戻した。和範は何気無しに妻を見つめた。正代の不安げな表情、大人しい性格なのに、今日の口調はやけに厳しい。和範は今まで良心の呵責に苦しんでいた筈なのに、妻のことで何故かふと考え込んでしまった。

自分は何故、この大人しい女性の代表格ともいえる正代と結婚したのだろう。和範のようなハンサムで優しくて非の打ち所の無いエリートなら、普通もっと釣り合った派手な外見の女性を選ぶのではないか。結婚式の時に来てくれた友人の多くはそう感じたらしく、確かに和範が正代を妻に選んだことを意外だとは言っていたが‥和範の脳裏には、大学時代に趣味を通じて正代と再会した時から結婚に至るまでの懐かしい日々が、鮮やかに蘇ってくるのだった。彼女といる時不思議なくらい心が落ち着いた。優等生として心の武装をしなくて済む自分がいた。彼女は誰よりも自分を癒やしてくれる存在だった。それは当時の家族よりもと言えるかもしれない。だからおそらく自分は彼女を妻にしたのだ。そして、和範はふと一つの思いに駆られた。それは自分が将来、封印していた忌まわしい記憶を呼び起こす日が来るかもしれない。良心の呵責に果てしなく苦しめられる時が来るかもしれない。そういう日を予期して、もしかして正代のような大人しくて芯が強い女性を配偶者に選んだのではないか。はっきり意識していなくても、遠藤の死がいずれ自分の将来に何らかの影響をもたらすような予感を、和範自身心の奥底に抱いていたのではないか、そしてその時自分を支えてくれるパートナーとして、一緒にいるだけで癒やされる存在である正代を選んだのではないか。きっとそうだ。和範にはそう思えてならなかった。

彼は更に思いを巡らす。それに子供‥子供?和範はその時はっとした。そしてもう既に自分は罰を下されているのかもしれないと唐突にそう感じた。つい最近まで二人の両親を巻き込んで話題になっていたあのこと‥そう、わかったのだ。自分が親になれないのは、誰のせいでもない自分のせいだということを‥人の命の重さを理解すること無く、自分の過ちを悔い改めること無く、好い人立派な人の仮面を被ったまま平然と生きてきた、卑怯な自分に下された罰‥命を軽んずる人間に親になる資格は無いということ‥これが神が自分に下された罰でなくて、いったい何だというのか?
(僕には、親になる資格など無い‥)
和範はその時初めて、自分の罪の深さを思い知ったのである。それからの和範は、これから自分がどう行動すべきか考えがまとまらず、心配する妻の正代にも今の自分の苦悩をなかなか打ち明けられずにいた。やがて裁判員としての職務も終わり、彼は又いつものように会社へ出勤するようになった。表面上は裁判員に選ばれる前の元の平穏な生活に戻ったことになるのだが、良心の呵責に目覚めた彼の心は今までのように決して平穏でいられる筈もなかった。まず、以前にも増して幻聴に悩まされるようになった。大抵寝ている時かうとうとしている時だが、声が聞こえるのである。
[出して‥お願いだからここを開けてよ‥]

その声が聞こえる度、和範はうなされて飛び起きた。又あの被害者遺族の言葉、彼の良心を呼び起こしたあの一言一句が、何をしていても頭から離れない。何をしていてもその言葉が頭に浮かび、彼の良心を針のように突き刺すのだ。和範はしみじみ思う。
[自分はまだ、何一つ償っていない。]
それでも今の生活で自分に何が出来るのか‥?和範は迷っていた。妻の正代は勿論両親や弟夫婦も、最近の和範の様子に間違いなく不安を感じているようだった。以前の和範なら、何事も無かったかのようにエリートとしての今まで通りの生活に戻るのだが、自分のやるべきことを自覚し心に刻み込んだ今、以前のように平然と暮らしていくことなど絶対に出来ない。自分にはやらなければならないことがある。それは償い‥自分の犯した過ちを償うことだ。あの四人の住所はわかった。そして遠藤の母親の住所、当時の担任の住所も‥引っ越していなければ、同じ所に住んでいる筈、今は躊躇うより行動を起こす時なのだ。そう考えた和範は、迷った挙げ句先ず自分の両親に今の心境を綴った手紙を書いた。書きながらも和範は、両親がこの手紙を読んだらどれだけ心を痛め嘆き悲しむだろうとそう案じずにはおれなかった。それでもこの手紙を書かなければならないのだ。自慢の息子が、人としてやり直せるかどうかの瀬戸際なのだから‥

自分の覚悟を罪を償って人としてやり直したいという強い決意を、和範はその手紙の中で二人に余すところなく正直に訴えた。そしてあなた方の自慢の息子は、人の命を見殺しにするという最低の行為を犯した、卑怯で卑劣な人間だという事実から目を背けないで欲しいとも伝えた。そして和範は両親へ手紙を書いた後、退職願いを書いてその夜妻正代と向き合った。会社を辞める覚悟は当に出来ていた。だがその前にやるべきことがある。最も理解を求めるべき相手はすぐ近くにいた。それは他でもない、妻の正代だった。彼女にも勿論事実を‥そして今の自分の気持ちを有りのままに話さなければならない。それは夫としての自分の義務なのだ。和範は明日会社に退職願いを出して、会社を辞めるつもりだった。そうなると妻は当然、生活の不安を抱かなければならなくなる。和範には夫としての責任がある。自分の気の済むように行動し、許しをこうべき相手に心から謝罪した上で、たとえどんなに非難され罵倒されようと自分が十分罰せられたと思うなら、罪を償ったと思うなら、又生きる糧を得る為に何らかの仕事に就かなければならなくなるだろう。だが、今はとにかく自分なりの自分で出来る形で、罪を償う為の行動を起こすしかない。これから先ずしなければならないのは、最大の迷惑をかけることになる妻に全てを話し、その上で自分の気持ちを包み隠さず話すこと‥それが夫である自分のやるべきことなのだ。

そう考えた和範は、その夜今の自分の心境を静かに妻に話した。自分が十五歳の時、どんなに卑怯で卑劣なことをしたのか‥いじめにこっそり加担しただけでなく、その果てに一人の人間を見殺しにしてしまったこと‥そしてそのことを反省することなく悔いることなく、二十年近い歳月を平然と生きてきたこと‥正代は最初硬い表情で夫の告白を聞いていたが、和範が語り終えると溜め息をついて静かに目を閉じた。言葉はない。和範は妻がショックを受けて何も言えない状態なのだと思ったが、それでも口を開いた。今の妻の心境がどのようなものであろうと、自分の覚悟は話しておかなければならなかった。
[僕は退職願いを書いた。明日にも会社を辞めるつもりだ。そして罪を償う為にこれからの人生を生きる。そうなると勿論君に迷惑をかけることになる。君には不安な思いはさせたくない。これは僕の罪だ。僕一人が償わなければならない。だが僕の奥さんである限り、君にも迷惑がかかるだろう。もし君が離婚を望むなら応じるつもりだ。そして当面の生活の不安を無くす為に、君には出来るだけのことをする。急にこんなこと言い出してさぞ混乱してるだろうね。本当に済まない。さぞ僕という人間に失望しただろう。言った通り僕はエリートなんかじゃない。それどころか人の命を平気で見殺しにしたエゴイストだ。そんな自分を悔い改めることもしてこなかった。

思えば、僕に子供が出来ないのも当然なのかもしれないね。きっとこれは神が僕に与えた罰なんだろう。命の重さが全くわかっていなかった僕に、親になる資格はない。本当に罰が下ったんだよ。こんな自分と一緒にいても君は幸せになれないし、僕のせいで一生親にはなれないかもしれないね。]
和範は心を尽くして、今の心境を正代に正直に語った。自分がどんなに過去の過ちを悔やんでいるか‥そしてもう思い悩むことなく、罪を償ってやり直したいと考えていること‥すると黙って聞いていた正代は、意外にも首を振りながら少し笑みを浮かべて口を開いたのである。
[やっぱりね。]
[やっぱりって?]
[私、あなたが昔から無理な生き方をしているような気がしてならなかったの。自分を偽っているというか‥優等生を演じてる、そんな気がしてた‥私は中学生の頃からずっとあなたを見てたわ。ハンサムで頭も良くて、おまけにスポーツ万能‥私もそうだったけど、女の子は皆あなたに夢中だった。確かにみんな恋心を抱いていたわね。無論私も‥でも当時はライバルも多くて、あなたの周りはいつも華やかだった。そしてあなたは優等生であり続けた。先生からもクラスメートからも信頼されていたあなたは、当時から間違ったことは絶対しなかった。いつも品行方正でとにかくいい子で‥でもね、人間息を抜く時が無ければストレスが溜まってしまう。緊張の連続で人は生きていけないものよ。私はあなたが息を抜いて素のままの自分をさらけ出すことが出来る場所は、多分家庭なのだろう。そして何か勉強以外の趣味があり、それでストレスを解消させてるのだろうと、そんな風に勝手に思ってた。]

[正代]
今まで妻を大人しいだけの従順な女性だと見ていた和範は、驚きの表情で正代を見つめた。それが結婚してからならともかく、もう何十年も前から妻は自分という人間を鋭い洞察力で見つめていたのだ。そしてそんな驚く夫を前に正代の話は続く。
[でもね、中学三年生の時、二人とも生徒会の役員になったじゃない。あなたが生徒会長で私が書記、私は勉強が出来たから担ぎ出されたって形だったけど、やっぱり目立たない存在だった。だからあなたはあんまり覚えていないかもしれないけど、色々な行事について話し合う為にあなたの家に役員が何度か集まった時、私はっきりわかったのよ。家でもあなたは無理してる。優等生を演じてるって‥]
[君がそこまで‥]
そこまで見抜いてたのかと和範は言いかけて思わず口をつぐんだ。話をする妻の顔に、彼が今まで見たことの無いような悲しそうな表情が浮かんでいたからである。動揺する夫を前に、妻は更に話を続けた。
[あなたのご両親にとってあなたは自慢の息子であり、それ以上の何者でもなかった。ご両親はあなたに期待し、あなたのすることに百パーセントの信頼をおいていた。あなたのすることに絶対に間違いは無いと‥それはあなたの家にお邪魔する度に、私は嫌でも痛感したわ。あなたには勉強以外の趣味も無かったようだし、何をしててもあなたが自分の本音をさらけ出すことは無かった。羽目を外すことも無かった。私思ったわ、この人は相当無理してる。どこでどうやってストレスを発散させているのだろうって‥当時はずっと考えてた。あなたのことばかり思ってたから‥それでもわからなかった。でもまさか、そんな形でストレスを解消させてたなんて‥]
[正代‥]

妻はそこまで言うと大きく溜め息をつき、今度は夫を見つめながら強い口調で厳しい言葉を浴びせた。
[あなたが自分を責めるのは当然よ!遠藤君が閉じ込められているのを知っていながら知らんぷりしてそのまま帰ってしまったなんて、あんまりひどいんじゃない?人として決して許されることじゃない。あなたがそんなひどいことをしてたなんて、私夢にも思わなかった。遠藤君は死んでしまったのよ!取り返しがつかないのよ。人の命を、あなたがそんなに軽く考えてたなんて‥]
[済まない‥]
妻の想わぬ激しい叱責に和範は戸惑ったが、頭を下げてとにかく謝った。謝るしかなかった。和範には、内心正代なら自分の味方になってくれる。きっとそう怒らないで、自分に優しい言葉をかけてくれるのではないかとそういう期待があったのかもしれなかった。和範は今自分が動揺していることに、内心そういう思いがあったことをはっきり自覚した。そして同時にそんな甘い考えを抱いていた自分を情けなく思った。潔いことを言って自分をさらけ出したつもりでいても、その実自分はまだまだ甘えていたのだ。そんな夫を前に厳しい口調は少し和らいだものの、正代の叱責は続く。

[私は、あなたが償わなければならないのは当然だと思う。遠藤君のお母さんや先生に謝り、遠藤君の墓前でも気の済むまで頭を下げるべきだわ。その上で後はどういう形で償いが出来るか、あなたがしっかり考えるべきよ。あなたはいじめでも勿論許されないことをした。遠藤君を直接いじめてたあの子達以上に、遠藤君にひどいことをしてたのよ。私は直接いじめてた子達を庇う気持ちは毛頭ないけどでもね、わかって欲しいの。隠れて陰湿ないじめをする方が、直接何かされるより却って心は傷付くものなのよ。あなたは当時から確かにエリートだったけど、同時に人の痛みがわからない最低の人間だったと思う。遠藤君が死んだと聞かされた時、切っ掛けを作ったあの子達動揺してか泣いてたわ。あの子達だけじゃない。私も彼が可哀想で涙が止まらなかったし、クラスのみんなも泣いてた。特に先生の動揺が一番激しかった。葬儀の時号泣してらしたわ。でもあなたは、あの時もやっぱり冷静だった。クラス委員として当然のように冷静に振る舞っていた。私にはあなたが、悲しみを押し殺してクラス委員として立派に対応してる‥そう見えたけど、そうじゃなかったのね。裏ではそんな卑怯なことしてたなんて‥]
[僕は‥]
妻の詰問に戸惑いながら、思わず言いかけて和範妻はそこまで言うと大きく溜め息をつき、今度は夫を見つめながら強い口調で厳しい言葉を浴びせた。
[あなたが自分を責めるのは当然よ!遠藤君が閉じ込められているのを知っていながら知らんぷりしてそのまま帰ってしまったなんて、あんまりひどいんじゃない?人として決して許されることじゃない。あなたがそんなひどいことをしてたなんて、私夢にも思わなかった。遠藤君は死んでしまったのよ!取り返しがつかないのよ。人の命を、あなたがそんなに軽く考えてたなんて‥]
[済まない‥]
妻の想わぬ激しい叱責に和範は戸惑ったが、頭を下げてとにかく謝った。謝るしかなかった。和範には、内心正代なら自分の味方になってくれる。きっとそう怒らないで、自分に優しい言葉をかけてくれるのではないかとそういう期待があったのかもしれなかった。和範は今自分が動揺していることに、内心そういう思いがあったことをはっきり自覚した。そして同時にそんな甘い考えを抱いていた自分を情けなく思った。潔いことを言って自分をさらけ出したつもりでいても、その実自分はまだまだ甘えていたのだ。そんな夫を前に厳しい口調は少し和らいだものの、正代の叱責は続く。は正代を見た。遠藤の死という悪夢のような出来事を、自分は本当に記憶の片隅にでもおいておかなかったのか‥全て忘れ去って、この二十年近い歳月を平然と生きてきたのか‥彼はよくよく考えた。

過去の自分が償うべき過ちを思い起こさせる切っ掛けになったのは、間違いなく和範が思いがけず裁判員に選ばれたことだった。特に被害者遺族の意見書の内容を聞いた時から、偽善者という言葉が彼自身の耳に何度も響くようになったのではないか‥それは、彼自身が封印してきた良心の呵責が、やっと芽を出してきた兆候かもしれなかった。だが‥和範は思った。自分はこういう時が来るのを心のどこかで予想して、或いはそれを待っていたのかもしれない。償う機会が必ず訪れることを予期して待ってさえいた。と、そこまで考えた時、妻の正代が不意に顔を上げて吹っ切れたように力強く言い放った。
[あなたを責めるのはここまで!私には確かにショックだった。あなたという人間に不信感を持ったし怒りも覚えた。でもあなたは、どんな形であるにせよ心から自分の過ちを反省し償おうとしている。ここから先はあなたがやること!あなた自身の問題よ!お義父さんとお義母さんが何と言われようが、あなたが自分の罪を償う為に全てを捨ててでも本気で行動を起こすというのなら、私はあなたについていくわ。どこまでも応援する。]
[いいのかい?今までの安定した生活が一変することになるんだぞ?]
思いがけない妻の言葉、それも非難しつつもしっかり応援してくれるという正代の言葉に感謝しながら、和範は生活の不安は感じないのかと率直に尋ねた。だが正代はあっけらかんとした表情で淡々と言葉を続ける。

[私は生活の為にあなたと結婚した訳じゃないわ。あなたの奥底に素晴らしい人間性を感じたからあなたの妻になったのよ。あなたの話はショックだったけども裏切られたとは思ってない。あなたが罪を償う為に行動を起こそうとしたのは、私が感じた通りの人間性を確かにあなたが持ってたと思うから‥]
[正代‥]
[でもその代わり‥]
[えっ‥]
[その代わりね、全てが済んだら、あなたが罪を償って一人の人間として又新しい人生のスタートが切れる時がきたら、私のやりたいことをさせて‥]
[やりたいこと?]
[ええ‥]
正代は静かに頷くと、不意に遠くを見つめて穏やかな表情で切り出した。
[私ね、田舎で暮らしたの。畑で作物を作って自給自足の生活を送りたい。といっても、そう簡単なものでは無いだろうけど‥]
[正代‥]
少し驚いた表情で自分を見つめる和範に対して、妻はあくまでも静かに自分の思いを語るのだった。
[結婚生活には満足してる。私は幸せ者だと思ってた。でも都会で暮らすのは確かに便利だけど、正直言って疲れることも多いのよね。あなたと共にやり直せる時がきたら、私田舎で作物を育てながらのんびり暮らしたいの。今はどうしても色々考えてしまうけど、これから見聞きするだろう修羅場とか‥あなたが味わうことになるだろう苦しみなど避けて通ることの出来ない経験も‥私だってあなたをしっかり支えられるかどうか、自信がある訳じゃない。だけど乗り越えようと思ってる。そして辛いことがあっても、大自然の中でなら癒やせるかもしれない。そう考えるから‥甘いかしら、この考え‥]
[正代‥]

和範はあくまでも自分についていくという妻の決意を聞き有り難く思うと同時に、これから経験することになるであろう厳しい試練を前にして、気持ちが高ぶるのをどうすることも出来なかった。和範はその後会社に退職願を書き、そして遠藤の母親に宛てた長い長い謝罪の手紙を認めた。その手紙には今の自分の正直な気持ちと同時に当時の自分がどれだけ卑怯で卑劣な人間だったのか余すところなく赤裸々に綴った。確実に届くかどうかわからないが、もしちゃんと届き遠藤の母親がこの文章を読んだら、どれだけショックを覚えどれだけ苦しみそして和範に対する怒りを募らせるだろうか。或いは民事裁判を起こし、損害賠償を請求されるかもしれない。だがもしそうなっても構わない。自分は誠意を持って応じるつもりだ。妻の理解と支えを得て、和範の覚悟は今やびくとも揺るがないものとなっていた。しかしながら身内の戸惑いと反発は、和範が予想した通りすぐに行動になって現れた。翌日の夜和範の両親と弟が慌ててやって来て、母親と弟は和範に対して強硬に翻意を迫った。特に弟の言葉は和範の行動を軽率だと非難するものだった。
[手紙読んだよ。母さんから電話もらって‥驚いたよ、亡くなった生徒さんのことは勿論僕も覚えてる。だけど‥今更こんなこと、黙ってりゃわからないじゃないか!兄さんは長男としての責任があるんだよ!その責任を投げ出すのかい?今の生活まで投げ出して、無責任だよ。兄さんが直接閉じ込めたわけじゃないんだろう?それに当時はまだ子供だったんだし、ましてや会社を辞め家を売り払ってまで償わなくても‥兄さんにはそこまでの責任は無いと思うよ。]
和範の決心を手紙で知った両親は弟の祐一にも手紙の内容を伝え、翌日には三人連れ立って和範宅を訪れたのだった。

口火を切った祐一の言葉に母の喜美子も相槌を打つ。
[祐一の言う通りよ。もう二十年近く前の出来事じゃない。時効っていうか、忘れるべきよ。確かにその‥遠藤君?その子にはひどいことをしたと思うけど、でも当時はおまえもまだ子供だったわけだし、今更何もかも投げ出して償おうとしなくても‥]
[母さん、ごめんよ。でもね、僕のしたことは子供だったからという一言で許されるものじゃないと思うよ。]
[和範‥]
二人の反発は、和範が予想していた通りのものだった。特に母喜美子にとって、和範は自慢の息子そのものであり、長年ずっとそう考え誇りに思ってきたのだ。そんな息子からいきなり過去の過ちを打ち明けられ、その罪を償う為に今の自分の全てを投げ出して行動を起こすと聞かされたのだ。彼女が混乱するのも無理からぬことだった。
[義姉さん、義姉さんはどう思うの?]
[私は‥]
せっつくように問い掛ける祐一に対して、正代は躊躇いつつも口を開く。
[私は、この人の今の思いを大切にしたい。そしてこれからやろうとすることにも賛成してます。勿論この人から今回のことを打ち明けられた時は、ショックだったし怒りも覚えました。何よりも人の命が失われてるんです。取り返しのつかないことが起きてしまったんです。私は思います。人は何らかの罪を犯した時、それが命に関わるような重大なことだった時、黙っていればわからないとか子供だったからじゃ済まされないと‥

自分でその過ちと向き合い罪を償おうとしない限り、人は決して救われない。私はあの時のみんなの涙、先生の涙、遠藤君のお母さんの涙を未だに忘れることは出来ません。でもあの時、この人は冷静で沈痛な表情だったけど泣いてはいなかった。私はあの時クラス委員という立場上しっかりしなければいけないから、この人には涙は無いのだとそう思ってた。でもまさか、裏でそんなひどいことをしてたなんて夢にも思わなかった。思えばこの人には、いつもエリートというレッテルがついてまわってたような気がします。私は昔から、そんな和範さんが無理して自分を偽って生きてるような気がしてならなかった。優秀な子だから、この子に頼めば間違いない。間違いなど起こす筈が無いと、そんな周囲の視線からくるプレッシャーが、和範さんを卑怯な行動に走らせたのかもしれない。そんな風に思えて‥でもね、本当のエリートは人の痛みがわかる人のことを言うんです。人を思いやる優しい心を持った人のことを言うんです。人を傷付けても平気でいたら、最低の人間でしかなくなるわ。相手を平気で傷つける人はエリートでもない。私はそう思います。]
[あなたは私達の育て方が間違ってたとそう言いたいの?]
[いえっ、そこまでは‥]
[そう言ってるようなものじゃない。確かにあなたの言ってることは正しいけど、でもあなたは和範の妻なんだしそこまで厳しい言い方をしなくても‥]
正代の言葉に母喜美子が戸惑いつつも直ぐに反論する。だがそんな喜美子の言葉を遮って父の知徳がゆっくり口を開いた。

[おまえ達の気持ちはよくわかった。おまえ達がこれからやろうとすることは、人として正しい道だと思う。私は反対するつもりはない。]
[父さん!]
[あなた?]
知徳の思いも寄らない言葉に喜美子と祐一は思わず戸惑いに満ちた抗議の声を上げる。だがそんな二人に構わず、知徳は息子を見つめて静かに話を続けた。
[父さんも母さんも、確かにおまえに期待し過ぎていたのかもしれないね。考えてみれば、おまえにはいつもいい子であることを無意識のうちに強要していたように思う。おまえは確かに、素のままの自分をさらけ出すということが、あまり無かったように思える。自慢の息子か‥でも他人を傷付けても何とも思わない人間にだけはなって欲しくなかった。
[父さん‥]
[現実に人の命が奪われている以上、おまえはおまえの責任を果たさなければならない。子供だったからで済まされることじゃない。私達の育て方は間違っていたと思う。その時に気付いていれば尊い命が消えることは無かっただろう。それだけは残念だ。]
[父さん、済まない‥]
母や弟と同じように自分のやろうとすることにてっきり頭から反対するとばかり思っていた和範は、少し驚いた表情で父を見た。そんな息子を見つめながら、父知徳はあくまで穏やかな口調で更に続ける。

[おまえは幼い頃から何をしても優秀で、私も子育てしながら自然と優越感を覚えたものだ。とにかくおまえを育てることが楽しくてならなかった。鳶が鷹を生んだ。まさに我が家の子育ては、その諺を地でいくものだ‥そう思えてね。私は昔からそう大した人間ではなかった。普通に学校を出て普通に就職し結婚して家庭を持った。平凡で地味な在りきたりの人間の在りきたりの人生だった。顔だけはそこそこにもてるぐらいに生まれてきたけどね。それもおまえに遺伝してくれたのか、おまえはハンサムで学業も優秀、おまけにスポーツ万能‥まさに非の打ち所のないエリートそのものに育ってくれた。周囲にもちやほやされ私達は自慢の息子だとおまえを誇りに思い、世界一幸せな親だと自分達のことをそこまで思ってきた。だがそんな私達の過度の期待がおまえから良心を消し去り、まさか友達の命を危険に晒しても、自分の保身に走らせるようなことをさせていたとは‥]
そこまで言うと堪らなくなったのか、知徳は肩を震わせ言葉を詰まらせた。それは勿論、和範が初めて見る頑固なまでに誠実な父の姿だった。そんな父の姿に胸を痛めつつも、今は頭を下げるしかない和範だった。
[ごめんね、済まない。父さんの期待を裏切って、今はこんな自分が本当に情けないと思う。思えばこのことに対する自分の良心はあの時から‥あの彼が亡くなった日からずっと封印してしまっていた。自分が悪いんじゃない。みんなに助けを求めなかった彼が悪いんだとそう考えるようにして、そう自分に言い聞かせてきたんだ。

でもね、僕が罪を償う為に行動しようと思ったきっかけは、手紙に書いた通り僕が裁判員に選ばれたことだ。裁判員に選ばれてあの被害者遺族の意見陳述を法廷で耳にした時、偽善者という言葉が突然僕の耳に聞こえてきてその時はっきり、あの時自分が見て見ぬ振りをして彼を見殺しにしたことを思い出したんだ。自分がどれだけひどいことをしたのか自覚出来たんだ。心の奥底に封印してきたことをはっきり思い出すことが出来て、これは運命なんだとそう思えてならなかった。そして裁判員に選ばれたことは、僕に今からやるべきことを示す指針となった。自分は過去に犯した過ちと向き合い、そしてその罪を償わなければならない。そうしなければ自分という人間が永久に救われない。今は心からそう思う。]
知徳は息子の強い決意を聞くと、今度はしっかり頷いて口を開いた。
[わかった。おまえのやるべきことをやるんだ。しっかりな!
たとえどんなに罵られようと修羅場になっても怯むんじゃないぞ!そして全てが終わって新しいスタートが切れる時が来たら、今度は私達の前に一点の曇りも無い飛びっきりの笑顔を見せに来てくれ。]
[父さん‥]
息子に自分の思いの丈を伝えると、知徳は今度は正代に頭を下げるのだった。
[正代さん、こんなことになって本当に済まない。こんな息子についていくことを決心してくれて、心から有り難いと思っている。これからどんなことになるかわからないが、これからも息子を支えてやってくれ!お願いします。]
[お義父さん‥]

知徳の温かい言葉に心を打たれたのか、正代はそれだけ口にすると後はただ頷くだけだった。そんな父の励ましに勇気を得た和範は、今度は母と弟を見つめゆっくり口を開いた。
[母さん、祐一も本当に済まない。だけど今は、僕のやりたいようにやらせてくれ。二人にも迷惑をかけることになるかもしれないが、僕はそれでも人として悔いの無い生き方をしたいんだ。]
[和範‥]
溜め息をつきながら息子を見つめる母喜美子に対し和範はあくまで穏やかな口調で話を続けた。
[裁判員は裁判の内容を家族に告げちゃいけないんだが‥それでも伝えたい。僕を変えてくれた言葉だ。被害者遺族は、裁判の意見陳述でこんなことを言っていた。何の罪もない人の命を奪っておいて平然と暮らしても、人は決して幸せにはなれない。心から反省しその罪を本当の意味で償わなければ、その人は永久に救われないと‥確かに僕は、彼の命を直接奪ったわけではない。だが、助けられる立場にいたのに見殺しにしたのは事実だ。僕の罪は重い。被害者遺族の言葉を聞いたその日から、僕の耳には偽善者という言葉がついて離れなくなった。何をしてもその言葉が聞こえるんだ。それは良心の呵責からくる僕自身の声だったのかもしれない。今この世界の何処かで凶悪な事件を起こしておいて、何食わぬ顔で暮らしている人間も少なからずいるだろう。だが、僕はその中の一人でいたくない。僕はあくまで血の通った人間でいたいんだ。人生を終える時いい人生だったと‥父さんの言葉通りの一点の曇りもない笑顔で旅立っていけるような、そんな人間でいたい。だから、今まで通りの生活は出来ない。償いの為に僕は生きる‥]

和範の切々とした訴えにじっと耳を傾けていた母と弟は、彼の堅い決意を聞いて少し涙ぐんだ表情になったが、それでも諦めたように頷くと知徳と共に和範の家を後にした。渋々だったが、二人がこれからやろうとすることを何とか認めてくれたようだった。三人が帰った後、和範と正代は言い様のない虚脱感に襲われた。と同時に、緊張感を強いられるこれから先のことを考えずにはいられなかった。これからは生活が一変することになる。仕事も辞めることになるだろうから、暫くは貯金を取り崩して生活することになるだろう。又事情を知った周囲からは好奇の目で見られたり、或いは誹謗中傷の言葉さえ投げつけられるかもしれない。たとえ事情は知らなくてもあのエリートが何故?と誰でも不思議に思うに決まっている。それでももう後戻りは出来ないのだ。自分達は進むべき道を決めたのだから。その上で、和範にはもう一つやっておかなければならないことがあった。それは、こんなことになっても自分を励ましてついてきてくれるという妻正代に、もう一度意志を確認した上で感謝することだった。
[正代、本当に有難う。もう一度聞くが、君は本当に僕についてきてくれるかい?]
[あなた‥]
[後悔はない?これからは勿論、苦労することになると思うよ。暫くは生活の不安を感じることになるだろうし、僕と一緒にいることで君も辛い思いをすることになると思うが‥君は悪くないのに僕のせいでね‥]
夫の言葉に正代は笑顔を見せると、首を振りながら静かに答えた。

[後悔はないわ。実は私ね、今日あなたのお父さん見直したの。口下手で怖そうに見えて正直言って苦手だったんだけど、今日はっきりわかったわ。あんなに誠実な人はいない。あの人の血を受け継いでいるあなたならきっとやり直せる。そう信じるから私はあなたについていく。改めてそう誓ったの。]
[正代‥]
きっぱりとした口調で語ってくれた妻のその言葉は、今の和範自身の心を確実に奮い立たせ勇気を与えてくれたのだった。
[有難う‥]
改めて妻に頭を下げた和範‥そして考えた。もしかしてこういう日が来ることを自分は心の奥底で見通して、このどちらかといえば地味で大人しそうだが実は芯の強い女性を妻に迎えたのかもしれない。正代を妻にしたのは、彼女の人間性を見抜き自分を支えてくれる存在だと、無意識のうちにそう自分が判断したのだろうと改めて自覚する和範だった。

第二章 人生の岐路に立ち

翌朝正代に起こされいつもと変わらない朝を迎えた和範だが、いつものように出社した彼は、直属の上司にいきなり認めておいた退職願いを差し出した。今の生活を投げ出す覚悟は当に出来ていた。驚いた上司は当然その理由を問い質したが、今の和範には一身上の都合としか答えられなかった。

相当の覚悟で和範は退職願いを出したのだが、そのことでどうこう言われるより、今は自分のやるべきことに早く取り掛かりたかったのである。それでも和範の人柄を買っていた直属の上司は、和範の表情から彼の強い決意を感じ信頼していた部下が何か非常に思い詰めていると悟ったのか、一応退職願いは受け取ってくれた。そして呆気に取られている同僚や職場の人々をよそに、黙々と所持品を片付け社を出て行こうとした和範に、当然のように質問を投げ掛けたのである。
[転職を考えているの?]
[いいえ、全く‥]
[えっ‥なら本当にいいのかい?エリートとして華々しい出世街道を順調に歩いてきた君なのに、今ここを辞めてしまったらもう元には戻れないかもしれないんだぞ!]
[すみません‥]
[とにかくこれは預かっておくから、有給休暇でも取って暫くのんびりしたらどうだ?君は多分疲れてるんだよ。]
[いいえ、疲れてはいませんしとにかく私の意志は変わりません。でも、お気遣い頂いて有難うございます。]
[だけどなあ、おまえ‥]
尚も食い下がる上司に、和範は静かに微笑み遠くを見つめるような眼差しで口を開いた。その口調はどこまでも穏やかだった。
[そのうちに時期が来たら、今の僕の思いを詳しくお話出来るかもしれません。でも今は、とにかく自分の決めた道を歩きたいんです。僕にはどうしてもやらなければならないことがあるんです。それがどういうことか、まだ話すわけにはいきませんが‥今まで良くして下さって本当に有難うございました。]

上司に向かって一方的に自分の思いを伝えると、あとはただ深々と頭を下げる和範‥その姿を戸惑いの表情で見つめるのは上司だけではなかった。エリートだが気取ったところが無く、誰からも好感を持たれていた和範の突然の退職願いは、その場にいた誰からも驚きの声で受け止められていたのである。
[おい、原田!一体どうしたんだよ!いきなり‥この前‥いや裁判員に選ばれた頃から何か様子がおかしいと思っていたんだが、そんなに会社を辞めるまで思い詰めていたなんて‥何か悩み事があるんなら話してくれれば良かったのに、水臭いじゃないか‥]
同期入社で何かと気が合い一番の親友ともいえる同僚の坂崎が、退社しようとする和範を早速追いかけてきた。だが口を尖らせる坂崎にも、今は頭を下げるしかない和範だった。
[済まない。だが、君にもまだ訳を話せないんだ。でもね、僕は決して思い詰めてはいないよ。課長にも言った通り、僕は一人の血の通った人間である為にやらなければならないことをやろうと決めた。]
[やらなければならないこと?]
[ああ、その為に僕は行動を起こした。それだけ僕にとっては大切なことなんだ。]
[会社を辞めてまで?]
[うん、本当ならこの大切なことにもっと早く気付き思いを巡らすべきだったんだ。でも裁判員に選ばれたことは、僕に本当にやるべきことを教えてくれる結果となった。もう後悔はしたくない。だから今は、何と言われようと自分の気持ちに正直に行動したい。そう思ってる。]
[原田‥]

[どういうことだったか、そのうち君にも話せる時が来るかもしれない。その事情を知ったら君でも僕を軽蔑するだろうが、僕は構わない。僕は僕で懸命にやったとしか言いようが無いしね。でもとにかく、心配してくれて本当に有難う。]
[どうしても話してはくれないんだね、今は‥だけどどんな内容を聞かされても、僕は絶対に君を軽蔑したりしない。君は本当にいい奴だから‥]
[有難う‥]
[手紙書くから必ず返事くれよ!いいな!]
和範の決意を翻させることは出来ないと悟ったのか、坂崎は諦めたように首を振ると和範と名残惜しそうに握手を交わし社へ戻っていった。それでも又時々連絡を取り合うことを和範に約束させることは忘れなかった。そんな親友の気持ちを有り難く思いながらも、和範はこれから自分の進もうとしてる道の険しさに自然と身が引き締まるのを感じた。そして前々から考えていた通り、退職願いを出した日に同時にやろうとしていたことを実行に移した。それは、たとえ裁かれなくても自分の当時の過ちを警察に正直に話すことだった。迷いはなかった。エリートの座を棄てて償いの道を歩く。その決意が揺らぐことの無いように、和範は会社を辞めたその足で当時遠藤が亡くなった件を担当した所轄署へと向かった。あの時の自分の行動を有りのまま警察に正直に話し、その上で自分の卑怯な行動について誰にどのように謝罪すべきなのか考えたかった。とにかく、自分が当時どれだけ卑怯なことをしたのかまず警察に話すべきだと思ったのである。その上で自分の処遇を考えてもらうつもりだった。あまり刑法には詳しくない自分だが、とにかく正直に話すことで刑事上でも民事上でもどんな償いが出来るのか又するべきなのか、それを聞いてみようと思ったのだ。

[何の御用でしょうか?]
紳士然とした和範の突然の訪問に、署内にいた人々は当然驚いた様子だった。
[私は、私の過去の過ちを告白したいと思って来ました。]
[えっ‥]
その一言に周囲がどよめく中、和範は胸が張り裂けるような緊張感を味わいながらも、そこにいた人々の中にあの時捜査に来た人物を捜そうと目を凝らした。あれから何年も経っている。思えばあの事件を担当した人物が今もここにいるとは限らなかったが、記憶力のいい和範はそれでもあの時の関係者を捜そうと、必死に署内を見渡した。すると‥何とその中に、あの時何度も目にした刑事の姿を発見したのである。二十年近い歳月が若かったその人物を初老に変えていたが、和範の記憶にあるあの捜査を担当した中の一人に間違いなかった。和範は思わず駆け寄っていき、その人物の前で土下座すると頭を突っ伏して声にならない声で[すみませんでした!]と繰り返し叫んだ。呆気に取られているその人物の前で繰り返し頭を下げていると、自然に涙が溢れてくる。和範はその場にいたのが誰にしろ、今自分以外の人間全てに頭を下げ声に出して謝りたい気持ちだった。その人物は和範の突拍子もない行動に戸惑いながらも、繰り返し頭を下げる和範の背中を擦ってとにかく落ちつくように優しく声をかけると、奥の部屋に和範を連れていった。そして和範が落ち着くのを待って、静かに口を開いたのだった。

[何を謝りに来たんですか?私にはとてもあなたが犯罪者とは思えないのですが‥]
和範は、涙に濡れた瞳でその刑事の顔を見た。年は取っているが確かに、あの遠藤が亡くなった時何度も目にした刑事だ。
[亡くなった遠藤君なんだが、何故あんな場所にいたのか君は知らないか?]と問われた時の、人を見透かしたような険しい表情は、今も脳裏に焼き付いている。[僕は‥]言いかけて最初は戸惑ったものの、何とか勇気を奮い立たせ、和範は過去に自分が犯した過ちの償いの為に行動を起こすべくここを訪れたのだと告げた。和範は静かに頭を下げて、その時の自分がどんなに卑怯で卑劣な人間だったかを赤裸々に告白したのだった。
[私はエリートの仮面を被った、その実卑怯で卑劣極まりない人間でした。中学三年生の時のことです。私は、クラスメートを見殺しにしたのです。とても寒い冬の日でした。学校の用具置き場に彼が閉じ込められていたのを知っていたのに、誰にも言わずに帰ってしまった‥]
[用具置き場?閉じ込められて?]
和範の話を聞き、遠くを見つめるような眼差しで自分が過去に関わった事故や事件の記憶を辿っていたその人物は,
[ああっ!]と一言発すると、あの時あのと言わんばかりに和範の顔をまじまじと見つめた。
[君は確か、あの時のあのクラスの‥]
[はい。クラス委員でした。]
[クラス委員?そういえば確かに面影が‥でも、でも‥]
思いがけない告白に戸惑いつつも、彼の心にはその内容に怒りがこみ上げてきたのか、次の瞬間激しい口調で和範を怒鳴り付けていた。

[知っていた?彼があの用具置き場に閉じ込められていたことを、君は知っていたというのか?まさかそんな‥でも知っていたなら何故助けなかった?何故みんなに教えなかった?君が一言教えてくれていたら、彼は助かったかもしれないんだぞ!]
その刑事の激しい叱責に多少なりとも動揺した和範だったが、今はどんなに耳の痛い言葉を投げ付けられ非難されようともそれを乗り越え人として再生するために行動を起こしたのだという、強い信念が彼を支えていた。和範は気持ちを落ち着かせるために深呼吸すると、再び口を開いた。
[申し訳ありません。私は本当に卑怯な人間でした。彼がクラスの一部の生徒からいじめられていたのを知っていたのに見て見ぬ振りをして、そればかりかこっそりその様子を見て楽しんでた‥時には彼らのいじめをそっと手助けすることさえあった。あの時も、あいつらが遠藤を用具置き場に閉じ込めようとこっそり話してるのを聞いたんです。それなのに、それなのに僕は‥]
茫然とした表情で和範の告白を聞いていたその刑事は、今度は呆れたといった表情になり大きく溜め息をつくと口を開いた。今度は前と違って叱りつけるような口調ではなく、相手に詰問するようなそれでいて相手の気持ちを追い詰めないような、まるで取り調べをする時のような言い方だった。事実和範にとって、それは取り調べ以外の何ものでもなかったのである。
[いつもなら僕はここにいない。別の署にいるからね。それにしても‥今日別の事件の捜査協力で偶々私がここに来た時に君がやって来たのは、全くの偶然なんだろうか。何か目に見えない力が、今日君に僕を引き合わせてくれたように思う‥]
[えっ‥?]

[まあいい。それで君は夜になっても遠藤君が帰宅していないと聞いた時、どう思ったの?]
[正直言って‥]
[正直言って?]
[焦りました。あいつらによって遠藤君が閉じ込められているのを知ったのは昼過ぎ‥いえ帰る直前でしたが、その時は自分が言わなくても誰かが見つけてくれる。何とかなるとそう軽く考えていました。だけどまさか、夜になってもそのままだったなんて思ってもみませんでした。]
[だが夜になって先生から訊かれた時も、君は遠藤君が用具置き場にいることを言わなかった‥]
[はい‥]
[何故言わなかったんだ?]
[言えなかったんです。すみません。最初彼が閉じ込められているのを知った時、僕はいつものようにほくそ笑んで面白がって‥でも自分から助けを呼べば必ず外の人間には聞こえる筈、助けを呼ぼうとしなかった彼自身も悪いのだとそう自分に言い聞かせてきました。]
[それで?]
[先生から遠藤君が見つからないと知らされた時、さすがにこのままではいけないのではないかと思いました。人の命に関わることだし‥でも黙っていたのを責められるのが怖かった‥みんなの僕を見る目が変わるのが怖かったんです。]
[エリートとしてのプライド?]
[そう‥かもしれません。多分そうなんでしょう。間違った価値観に基づく下らないプライド‥でもみんなから軽蔑されるのは当時の僕には耐えられなかった。

僕は幼い頃から、両親は勿論周囲の人からもエリートとして見られ生きてきました。そのエリートで誰からも信頼されていたこの僕が、そんな卑怯なことをしていたと知られることの方が怖かった。そのプレッシャーが、僕の人としての理性をずたずたにしてしまっていたのです。あいつなら何をやらせても間違いない。あいつなら決して馬鹿な真似はしない。ずっとそういう目で見られて、僕はエリートとしての道を一歩たりとも踏み外すことが出来なかった。だけどそんな時の僕は、決して有りのままの僕じゃなかった。たまに羽目を外したり他の奴らとも喧嘩したり、そんな普通の人間でありたかったけど、エリートであることのプレッシャーが僕に羽目を外すことを許さなかった。僕はあの事件で保身に走ってしまったんです。僕があんな卑怯な行動に出たのは、そのストレスをこっそりいじめという形で発散していたからなんです。あいつらが遠藤君をいじめているのを陰で見てると、何だか気分がすっきりした。時にはいじめを手助けするようなことまでして‥]
[最低だな‥]
吐き捨てるようなその刑事の言葉にも動じず、和範は落ち着いた声で続けた。
[その通りです。その挙げ句僕は救うことが出来た命を救おうとしなかった。だから償わなければならないんです。彼の命は戻らない。取り返しがつかないのはわかってます。本当は遅すぎるんですけど‥]
和範の告白を耳にしたその刑事は、何も言わずに目を閉じた。そして暫くして口を開き、和範に対して当然抱く疑問を投げ掛けるのだった。

[君の気持ちはよくわかった。これは君にとっては間違いなく自首なんだろうね。でも一つ疑問がある。何故今なんだ?あれから何年も経っているのに、今更行動を起こすというのは‥まさか当時の事件を担当していた私が、捜査協力で今日ここに来るのを調べた訳でもあるまいに‥]
[それは全くの偶然です。ですがそのことを問われたら僕には何も言えない。何を言っても自分に都合のいい弁解にしかならないし‥]
思えば和範にとって彼の今の質問こそ一番耳にも心にも痛い言葉だったのかもしれなかった。そんなに後悔する気持ちがあるのなら、何故もっと早く行動を起こさなかったのか‥本当なら遠藤が亡くなった時に自分の過ちを自覚し、取り返しのつかないことをしてしまったと泣いて謝るべきだったのではないか‥どんなにみんなから白い目で見られても、そうすべきだったのだ。良心の呵責は、その時の和範の心には本当に少しも芽生えていなかったのか‥和範は頭を抱えると、絞り出すような声で今の心境に到るまでの自分の思いを静かに語り始めた。
[あの時、僕は彼が死んだのは自分のせいではないと、自分に言い聞かせていました。クラス委員として必死に冷静を装って‥あの夜、みんなで学校中を捜したんですよね。だけど彼は見つからなかった。僕には彼が亡くなったと聞いた時、何故?という疑問符しか浮かばなかったんです。僕が帰った後でも、声を上げて助けを呼んでいればきっと誰かが気付いた筈、そうしなかった彼自身が悪いのだと僕は自分に言い聞かせ思い込もうとしていました。そしてその時から、この忌まわしい思い出を無かったものとして、記憶の底に封印してしまっていたんです。僕の良心もその時に封印してしまったのかもしれない。

でも‥僕にはわかっていた。心のどこかで、自分はきっと彼を見殺しにした罰を受ける時がくるだろう。漠然とだけど、そんな日が来ることを予想していたんです。封印してたけど決して忘れた訳ではなかったんです。思い出さないようにしてたんでしょう‥そんな時、僕の良心を呼び起こす切っ掛けとなった出来事がありました。僕が裁判員に選ばれたことです。]
[裁判員?]
[ええ、選ばれたのは勿論偶然でしょう。然し同時に、運命だったのかもしれません。僕は裁判員として、ある事件と向き合うことになりました。その事件とは、二人の若者が強盗目的でひったくりをしようとした相手を誤って死なせてしまったというものでした。人の命を奪っておいてその罪の重さを自覚していない被告達に、私は裁判員として接するうちに正直言って怒りを感じました。その感情は、普通の人々が抱くのと変わらない当たり前の感情だと私は思ってました。でも遺族の意見を法廷で聞いた時から、私の耳にはいつしか[偽善者]という言葉が何度も響くようになっていたんです。]
[偽善者?]
[ええ、今にして思えばそれは、やっと呼び起こされた私の良心が私自身の心に訴えてきたものかもしれません。裁判員に選ばれたことは、私に自分という人間を見つめ直すいい切っ掛けとなりました。遺族の女性はこう言ってました。どんなに善良な顔を装って生きていこうとしても、その人が何の罪もない人の命を奪ったという事実は消えない。その人が心から反省し、その事実と向き合い自ら償わなければその人の心は永久に救われないと‥確かに、僕は彼の命を直接奪った訳ではありません。でも救えた筈の命を見殺しにしたのは事実です。僕は強く感じたんです。僕が裁判員に選ばれたのは、僕自身が過去に犯した過ちに気づきしっかりその事実に向き合うようにと、そういう‥何か目に見えない力のようなものが動いたか‥]

[或いは、自分でそう望んだのか‥]
[えっ‥]
涙ぐみながら告白する和範に、その刑事は最初すっかり困惑した様子だったが、やがて決心したように頷くと和範の顔を見ながらゆっくり口を開いた。そして当時クラスメートには知らされなかった、遠藤の死にまつわる和範の良心が益々痛むような衝撃的な事実を、敢えて和範に話してくれたのだった。
[あの時、君達は中学三年生とはいえまだ子供だった。だから遠藤君の死にまつわる具体的な事実は、一切君達には話さなかった。君達がショックを受けるといけないと思ったんだ。それは勿論私個人の判断ではなく、警察や学校など周囲の大人達の君達の心を慮っての配慮だった。わかるね?]
[はい‥]
[だが、君はもう大人だ。君の話を信じればだが、君は彼の死に対して十分責任があるしその責任を取る覚悟もしている。だから私は、あの時君達に知らされなかった事実を有りのまま伝えようと思う。君にとっては相当ショッキングな内容になると思うが、いいかい?]
[はい‥]
[実は遠藤君はあの時返事をしなかった訳ではない。返事が出来なかった‥助けを呼べる状態ではなかったんだ。]
[えっ‥]
呆然とする和範に、その初老の刑事は遠藤の死について当時伏せられていた事実を淡々と語るのだった。
[実は彼は数日前から風邪気味で、その日は特に具合が良くなかったらしい。そんな中いきなりあの寒い用具置き場に閉じ込められて、かなり早い段階で彼は低体温症になり倒れてしまったと思われる。]
[低体温症?]

[今の君ならわかるだろう?彼はかなり早いうちに意識も混濁して、彼を捜している声にも答えられる状態ではなかったらしい。不運なことに彼が倒れていた場所も、用具置き場の奥の大きなボール箱の片隅で入り口から死角になっていてそれで発見が遅れたんだ。]
[あっ‥]
自分は何てことをしてしまったんだろう‥思いも寄らない真実を刑事から聞かされて和範は絶句した。あの時‥自分は勝手に捜している声に返事しなかった遠藤自身が悪いのだと、そう思い込もうとした。自分には関係ないと自分に都合のいいように理屈付けて、自分の責任ではないとそう思い込んだのだ。だが、真実はそうではなかった。考えればわかること、返事が出来ればした筈、助けを呼んだ筈なのだ。激しく動揺する和範を前に、冷静な口調で刑事の話は続く。それは和範にとって、胸が苦しくなる程の辛い内容だった。だが今の彼には、どんなに辛くてもその話を絶体に聞かなければならない義務があった。
[彼を発見した時、確かに用具置き場の鍵は掛かっていなかったそうだ。君が聞いた通り遠藤君を閉じ込めたのがその悪ガキ共だったとしても、大人達が彼を捜してる時は鍵が掛かっていても必ず開けて中まで確認した筈だからね。実際開けて確認したと、私は当時の教職員から聞いている。その時見つけられなかったのは私達大人の責任だが、それでも君は知っておくべきだ。彼はその日は体調が悪くて、殆ど助けを呼べないくらいに早い段階で倒れてしまっていたと思われることを‥先生は、当時の君達の担任だった女性教師は、遠藤君が発見され病院で死亡が確認された後、私達警察には子供達がショックを受けるといけないのでそのことだけはどうか伝えないでくれと、涙ながらに懇願された。その上で遠藤君のたった一人の遺族である母親に、土下座していつまでも謝っておられた。

そして全ての責任を一人で取る形で学校を去っていかれたと私は記憶している。君はそんな先生の心まで欺いたんだぞ!君が一言教えてくれていたら、教えないまでもその時鍵を開けてさえいてくれれば遠藤君は死なずに済んだんだ!君には辛い現実だろうが、大人になった今君はしっかりその現実を受け止めるべきだ。君が自首‥これは自首といえるんだろうな。自首してきたその気持ちと、今の君の覚悟はしっかり受け止める。その上でこれから君が一人の人間としてどう生きていくのか、何が出来るのか、どうやって自分の罪を償っていくのか‥現実を見据えてしっかり考えるんだ!わかったな!]
[はい‥]
刑事の叱りつけるようでいてまた諭すような口調に、混乱しながらただ頭を下げるしかない和範だった。思ってもみなかった真実を突き付けられて気持ちの整理がつかない和範だったが、そんな呆然としている彼にその刑事は、気持ちが落ち着いたら帰るように静かに告げた。
[でも僕は‥]
帰る訳にはいかない。罰を受ける為に自分はここに来たのだ。特にこれまで知らなかった衝撃的な事実を聞かされて、このまま何事もなかったかのように時を過ごすことなど絶対に出来ない。だが首を振って訴える和範にその刑事は強い口調で言い放った。
[君の気持ちはわかった。だが、今の君を法的に裁くことは出来ないんだ。わかるだろう?]
牢に入ることも厭わない心境の和範に対して、その刑事は更に畳み掛けるように話を続けるのだった。

[勿論僕としては、今からでも君に刑を科したい気持ちだ。あの時の先生や遠藤君のお母さんの悲しむ様子を具に見てきたからね。君の卑怯な行動がなかったら、遠藤君は助かったかもしれないしあの二人も救われたかもしれない。あの悲劇自体起きなかったかもしれないんだ。それを思うとやはり君を裁きたい気持ちはある。だが、私は警察官だ。君に対して法的に罪に問える状況にない以上、今は帰れと言う他はない。然し、君には彼があの時本当はどんな状況だったのか、遠藤君がどんな状態で死んでいったのか、真実を知る義務があ。だから私は、敢えて君に話した。そしてここから先は、君が何をやるのか、どんな風に生きていくのかにかかってくると思う。]
[はい‥]
肩を震わせて頷く和範にその刑事はあくまで厳しく言い放つのだった。
[繰り返すが、君の覚悟はしっかり受け止めた。その上でこれからの君の姿を、君がやることをちゃんと見届けさせてもらおうかとも私は思っている。君の名前も覚えた。私はこれから君がやることを、一人の人間として見守っていくつもりだ。それを忘れずに‥いいか?]
[はい‥]
刑事の言葉に促されるようにして警察署を出た和範は、重い足取りで家路についた。電車を降り一人で自宅に通じる暗い道を歩いていると、自然に涙が溢れてくる。
(自分は何てことを、何て独りよがりな‥)
こんな重い事実を知らされることになるとは思ってもみなかったが、それでも和範は警察署を訪ねたことを後悔はしなかった。

会社を辞めた勢いに乗じて自分の償いを少しでも早く始めようとそのまま警察署を訪ねた和範だったが、結果として思いも寄らなかった重い課題を抱えての出発となった。今は後悔の涙をいくら流しても流し尽くすことは出来ない。ただ、ひたすら自分を正当化させていたあの時と今の自分は違う。遠藤は助けを呼ばなかったのではない、呼べなかったのだ。だがそれでも自分だけは聞いたのだ。あのか細い小さな声を‥あの時自分がちゃんとやるべきことをやっていれば、遠藤は助かったに違いないのだ。和範は当時の担任の先生に電話で遠藤の行方について尋ねられ、思わず口を開きかけたあの夜のことを鮮明に思い出していた。あの夜、自分は間違いなく保身に走った。知っていたなら何故もっと早く言わなかった?君が彼を閉じ込めたのか?君はクラス委員でありみんなの模範となるべき生徒ではないか?何故危険な状態にある友達を放っておいたのかと、先生方をはじめみんなから批判され自分はエリートではなくなってしまう。和範はみんなから白い目で見られ見放されるような気がして、そんな目で見られるのが嫌で言うに言えなかったのだ。
(済まない‥遠藤君‥)
和範は静かに目を閉じて、十五歳という若さで亡くなってしまったクラスメートに心から詫びた。そして必ず彼の墓前でも謝罪し、遺族と担任の先生に真実を告げ、許しをこう為に行動することを改めて誓うのだった。
(泣いていても何も始まらない。今は行動あるのみ、僕はもう、独りよがりで卑怯なエリートではない。血の通った人間として胸を張って生きていく。その為にも今こそ生まれ変わるんだ!)

クラスメートの死について、彼が死に至るまでの経緯その衝撃の事実を知らされた夜、帰宅した和範は中学校の卒業アルバムを引っ張り出すと、全ての責任を一人で取る形で学校を去っていった当時の担任の女性教師の名前と住所を確認し、改めて彼女に長い長い手紙を書いた。遠藤の母親には以前同じように謝罪の手紙を出していたのだが、宛先不明で戻ってきていた。彼女の住所を知る手懸かりは、今のところ皆無に等しかった。母親の所在をどのようにして知ればいいのか考えあぐねてふと同窓会という言葉が頭に浮かんだが、思い返せば中学校の同窓会の案内状など一度もこなかったように感じる和範だった。同窓会そのものが一度もなかったのか‥それは定かではないが、その背景には遠藤の死という忌まわしい事実が影を落としていたのは間違いないといえた。それと同時に、ほぼ一年間クラス担任として生徒達の為に懸命に尽力してきた女性教師の性急な辞職も影を落としていたともいえる。当時大事な受験を目前にして先生が急に辞めてしまったことで、生徒達の戸惑いは勿論大きかったが、それよりもクラスメートの死というショッキングな事態に直面した生徒達の心の傷の方が大いに心配されるものだった。学校側の配慮で直ぐにベテランの教師が担任となり、それからは新しい先生の元で友達の死をゆっくり悼む暇もないくらいの慌ただしい時間が過ぎていったのだが、さすがにこのクラスの生徒達からは同窓会を何年経っても開こうという声は起こらなかった。それでも小さなサークルでの会合や懇親会を兼ねた飲み会は個々に何度か行われていたようだが、和範はたとえ誘われても一度も参加しようとは思わなかった。参加する気にならないというより、クラスメートと会うと遠藤のことを思い出してしまいそうで怖かったのかもしれない。

遠藤のことを無意識のうちに思い出すのを避けていたのだろう。
(やっぱり‥忘れたようでいて内心は気にしてたんだな‥でも今更、僕はやるべきことをやるだけだ!)
和範は気を取り直すと、改めて当時の担任だった女性教師の名前を思い返していた。
(えっと‥浪川先生‥そうだ!浪川先生だ!)
アルバムを見ながら、当時の担任だった女性教師の名前を確認する。然しアルバムの集合写真に生徒達と共に写っている先生はその浪川先生ではなく、彼女が去った後慌ただしく担任におさまり大変な時期を強引ともいえる手法で事務的にまとめてきた、後任のベテラン男性教師だった。浪川先生は‥と探してみると、片隅に小さな枠で囲って淋しく写っている。だが遠藤の写真はクラス写真にすらなく、後方のページの中で追悼と記され一人淋しく写っているだけだった。
(みんなと一緒じゃないのか‥独りだけなんて淋しすぎる。)
和範は今更ながら心が痛むのを感じた。やはり他の生徒と一緒に載せると、子供達が見る度に心の傷として思い返してしまう。だが紛れもなくこの学校の生徒だった彼の存在を消す訳にはいかない。それは、悩み抜いた先生達が迷った末に出した苦肉の策だった。一応遺族の了解を得た上で、このアルバムはこういう体裁を整えたと和範はその時聞いている。まだ十五歳だった和範はその時は特に何とも思わなかったが、今の彼なら先生達がそして誰よりも遠藤の母親が、どんな思いでそのアルバムを作りまた受け取ったのかその心を推し量ることが出来た。和範は胸が潰れるような痛みを覚えるのだった。だがそれはそれで自分にはやらなければならないことがある。和範は気持ちを切り替えると、浪川先生に宛てて書いておいた手紙に宛先を記しすぐに投函した。届くのを信じて出したのだが、たとえ何と思われようと、この手紙は絶対に先生に読んでもらわなければならないと思った。

十五歳の時の和範は当時の担任だった浪川先生に[あなたがそんなことをする人だとは思わなかった‥]と非難され呆れられるのを何よりも恐れていた。だが今の自分は違う。自分の過去の卑劣な行動を先生と遠藤の母親に正直に告白して謝罪し、許してもらえなくても今の自分の思いを少しでも伝えなければならないのだ。その為にもこの手紙は絶対に届いて欲しい。読んで欲しいのだ。すると考え込む和範に妻の正代がいきなり声をかけた。
[何‥?]
[あっ‥ううん、遠藤君のお母さんは引っ越したんでしょう?浪川先生も引っ越してる可能性あるよね。]
[そう‥だよね。確かに‥]
妻の言う通りだった。読んでもらえるかどうかその不安は当初からあった。事実遠藤の母親に出した手紙は、宛先不明で戻ってきている。だが、和範は正代に強く言い放った。
[住所が変わっていても、必ず捜し出して許しを請うつもりだよ。この手紙は何としても読んでもらう。その上で僕は会いに行くつもりだ。勿論、遠藤君の墓に手を合わせ心から謝ろうと思っている。簡単には許してくれないだろうけど、僕は決して諦めない。]
[あなた‥]
夫の強い決意を聞いて、正代は感慨深げにしっかり頷いた。遠藤がかなり早いうちから低体温症となり、意識も薄れて助けを呼ぼうにも呼べない状態であったらしいことを警察から帰った夫から聞かされた時は、さすがに正代も強いショックを覚えたのだが、当の和範にはもう動揺はなかった。帰宅したその夜、妻に警察から聞かされた内容を涙ながらに打ち明けた和範だったが、ひとしきり涙を流した後はもう決して気持ちが揺らぐことは無かったのである。全てを受け入れた上で、自分は人としてなすべきことをする。後悔するだけした後には、これから自分が辿るべき道が見えてきたようだ。正代はそんな夫の横顔を見つめながらふと思った。

(まるで今のこの人は、優等生でありながら喧嘩っぱやいガキ大将みたい。もしこの人が最初からプレッシャーを与えられることなしにそんな人間になっていれば、遠藤君の悲劇は起きなかったかもしれないし、この人が今になってこんなに苦しむことも無かったかもしれないんだわ。この人は道は誤ったけど、根っからの悪人じゃない。決して先が見えてる訳じゃないけど、これからもこの人をしっかり支えていこう!)
一度は夫に怒りを覚え複雑な思いを抱いた彼女だったが、今はそんな気持ちも消え正代は自分ももう絶対に迷わないことを心に誓っていた。この先どんなことがあろうと、自分は妻としてずっとこの人を支えていく‥もう迷わない。そしてそんな妻の決意を知ってか知らずか、和範はひたすら筆を走らせていた。和範はその手紙を書くことで償いへの一歩を確実に踏み出したのだった。だがその為には先ず相手が彼の手紙を読み、会ってくれなければならないのだ。和範はどんなに相手に詰られようと謝りに行くつもりだが、その前に手紙で自分の過ちを告白し、これからしっかり償っていこうと思っていることを少しでも相手に知っておいて欲しかった。そんな気持ちで書いた思いが相手に確実に届くかどうか、また相手の住所を探し出せるかどうかは何ともいえないところだった。又和範は思う。
(あいつら、今どうしてるんだろう‥)
遠藤を直接いじめ、彼が死に至る原因を作ったあの実行犯ともいうべき三人について、今何をしているのか穏やかに暮らしているものなのか、和範には多少なりとも気になるところではあったが、然し自分が向き合うべき相手は彼等ではない。亡きクラスメートの遠藤と彼の母親、そして浪川先生‥彼等に謝罪して許しを請うことは、自分が新しく生まれ変わることが出来るかに繋がる。和範は遠藤の母親の住所を探しながら、浪川先生からの返事を待った。そして彼等に会う為に旅立てる準備をするのも忘れなかった。そしてそんなある日のことだった。

浪川先生に手紙を出した翌日の夕方、不意に家の電話が鳴った。和範は何故か直感で浪川先生からの電話だと思った。手紙を出したその結果が、どういう形で現れるか勿論わからない。怒りのあまり直接電話を掛けてくるか、訪ねて来る場合だって有り得る。浪川先生本人が怒りにまかせてというのは考えにくいのだが、何故か鳴り響く電話の音に見えない相手の相当な怒りを感じてしまう和範だった。
[浪川先生、お元気なのだろうか‥]
もし電話の相手が浪川先生なら、どんなにきつい言葉を投げ掛けられても自分は耐えられる。怯みはしない。今の自分ならしっかり受け止めることが出来る。この電話の主が償うべき相手‥当事者である可能性もあるのだ。そう思って受話器を取った和範は、相手が高齢の男性で震える声で口を開くのを耳にしてもしやと思った。その声には紛れもない怒りが込められていた。聞き覚えの無い声だったが、やはり手紙を読んだ相手だ。声には落ち着いた口調だが、怒りを内に秘めたそんな堅さがあった。
[もしもし、原田さんのお宅ですか?]
[はい、そうですが‥]
[原田和範さんっていうのはあなた?]
相手は名乗ろうとしないし和範も尋ねない。ただ固唾を飲んで次の言葉を待つだけ‥と次の瞬間その声は、和範が心の底で密かに恐れていた厳粛な事実を口にしたのである。
[私は、あんたが手紙を出した浪川春江の夫です。妻春江は、二年前に病気で亡くなりました。私は迷ったが、あんたから春江にきた手紙を読ませてもらいました。春江もきっと許してくれると思って‥手紙には、思いも寄らなかった衝撃的な内容が書かれてありました。私自身複雑な気持ちというより、あんたに対して勿論怒りがある。近くにいたら、一発ぶん殴ってやりたいところだ。だがね、春江はそんなことは決して望んじゃいないと信じて堪えようと思う。

けどあんたには是非知っといて欲しい!春江があの事件でどれだけ傷付いたのかってことを‥身も心もぼろぼろになるまで傷付いた末に、妻は天職とも思っていた仕事を辞めたんです!春江が、どれだけ教師という仕事に誇りと情熱を持って取り組んでいたか‥それなのに‥身も心もぼろぼろになるまで傷付いて辞めざるを得なかった。そして復職も叶わず、それから二度と教壇に立つことなく、失意のうちに病になって闘病生活を続けながら死んでいった。私はやっぱりあんたを恨む。あんたがあの時 、その子が閉じ込められていることをみんなに教えてくれてさえいたら、あんな悲劇は起きんかったかもしれん。そう考えると、あんたに対する怒りをどうすることも出来ない。あんたは人を傷付け、助かる命を見殺しにした。あんたが償わなければならないその罪は確かに大きい‥]
感情を押し殺したような低い声だが、それだけに浪川先生の夫だというその人物の和範に対する怒りが、体の痛みを覚える程ひしひしと伝わってくるのだった。それと同時に、和範は出来るだけ考えないようにしていた最悪の事態が現実になったことに激しく動揺したのだった。恐れおののきながらも彼は口を開く。
[申し訳ないです。先生は‥亡くなられたんですね。もう直接謝ることも出来ない。勿論謝って済むことではありませんが、私は償いを続けていきます。自分に出来る形で‥]
[あんたに出来ることは謝ることだけじゃろうが!]
感情が爆発したように和範の言葉を遮る突然の激しい怒号‥[あなた‥]ふと見ると妻の正代が、心配そうな表情で受話器を握る和範を見つめている。和範は妻を安心させるようにゆっくり頷くと、相手の怒声にも動じることなく静かに口を開いた。恩師が既にこの世にいないと知らされた時は確かにショックだった。然し今の彼の決意は確固たるもので、どんな大声にも和範の心は怯まなかった。和範は静かに言葉を続ける。

[その通りです。今の私に出来るのは償うことだけです。先生が亡くなられたことを私は知らなかった。恥ずべきことです。私は同時にもしそうならと恐れてもいた。直接お会いして謝ることが、永久に出来ないことだとはっきりわかることが私は怖かったのです。私は、先生のお墓の前で頭を下げたい。迷惑をかけたあなたにも謝りたい。謝ることしか、今の私には出来ないのですから‥]
言葉を尽くして素直に自分の思いを口にする和範に、相手は厳しい口調を幾分緩めて今度はまるで自分に言い聞かせるように語るのだった。
[あんたは確かに内に問題を抱えた生徒だったんだろうね。外面に惑わされてそれを見抜けなかったのは、うちの奴が教師としてまだまだ未熟だったということか‥うちの奴が生きていたらきっとこう言うだろうな。お父さん、それ以上この子を責めないでやってくれ!うわべだけでこの子は大丈夫だと判断し、その実心の闇を全く見通すことが出来なかったこの私が一番悪いのだからと‥あいつが生きていたら多分そう言うだろうな‥]
[浪川さん‥]
妻を思いしみじみ語る亡き恩師の夫の言葉に動揺した和範は、その人物の声にもっとしっかり耳を傾けようとしたが、不意にガシャと音がして電話は切られた。もうこれ以上話すことは無いという、相手の意志表示だったのだろうか、それともこれ以上話しても怒りや虚しさが募るだけだという思いから切ったのだろうか‥それはわからないが、和範は先生が二年前に病気で亡くなっていたことを知らされて今更ながら後悔の念が募るのだった。
[先生、ごめんなさい‥]

冷静に受け止められるかと思ったが、和範の心は突然電話を切られたことで、更に動揺していた。亡き恩師を思うと自然に涙が溢れる。先生は息を引き取るその瞬間まで、紛れもなく教師だったのだ。いや、教師であろうとしたというべきか‥少なくとも生涯の伴侶だった彼女の夫には、妻がもし生きて手紙を読み、和範の懺悔に満ちた告白を知ったらどう反応し何と言ったか、それが手に取るようにわかったのだろう。その意味では途中で辞めざるを得なかったとはいえ、浪川先生は確かに教育者、先生そのものだったといえる。和範は受話器を置くと、自分を心配そうに見つめている正代に、あの浪川先生が二年前に病気で亡くなっていたことを告げた。電話はその浪川のご主人からで、手紙の内容を知り和範に対して激しい怒りを覚え、彼を叱責した上で妻の死を伝えてきたのだと正代に話した。正代は夫の言葉に驚くと同時に、涙ぐみながらしっかりした口調で教師として思う存分生きられなかったかつての恩師への思いを口にするのだった。
[私達恩知らずよね。あんなにお世話になったのに、二年間も先生の死を知らなかったなんて‥浪川先生のことは、勿論私もずっと気にはなっていたの。あんな形で学校を去っていかれたんだもの、口には出さなくてもいい先生だっただけにクラスの皆にとって忘れられない存在になった筈よ!だけどあの時私達の目前には、高校受験が迫ってた。感傷に浸ってる余裕なんか無かった。あのまま受験を終えて皆高校生になったけど、でもね私思うの。みんな心のどこかに何かやり残したような納得いかないような、そんな気持ちを抱えていたんじゃないかしら。私にはそう思えてならない。]
[納得いかない気持ち?]
[ええ、そうよ‥]
正代は和範の言葉に頷くと更に続けた。

[このまま先生を辞めさせていいのか、先生と別れることになってもいいのかって、そんな複雑な気持ち‥一方で何もかも忘れたい、遠藤君のことも先生のことも考えたくないってそんな気持ちも確かにあったわ。やっぱりみんな自分が大事だったから‥そして結局、私達は何も出来なかった‥行動を起こさなかったのよね。先生に辞めないでって言えなかった‥先生は全ての責任を一人で取る形で学校を去っていかれた。あんなに世話になったのに、あんなに私達の為に尽くしてくれたのに‥そう思ったけど、どうすることも出来なかった。子供だったからってその一言で済ませたくないけど、でもやっぱり何も出来なかったのよ。それにしても、いい先生だったわ‥]
[そうだね。]
[ええ、子供をひたすら信じて優しい先生だったのに‥でも、ある意味先生は優し過ぎたのかもしれない。]
[優し過ぎた?]
思いがけない妻の言葉に、和範は少し驚いて正代を見た。正代はそんな夫に臆することなく続ける。
[先生は子供達を信じて疑わなかった。みんながあの四人が関係してるんじゃないかって言っても受け付けることなくそして結局先生は遠藤君を閉じ込めた生徒達のいじめの実態も、そして何よりあなた自身の心の闇も、見通すことは勿論気付くことも出来なかった。何か先生を非難してるようで心苦しいけど‥]
冷静な妻の指摘に和範は頷くと、静かに口を開く。
[ご主人も同じことを言ってたな。もし妻が生きていたらきっとこう言うだろう。お父さん、その子をこれ以上責めないでやってくれ。その子の心の闇を見通すことが出来なかった自分が悪いのだと‥教師として未熟だったんだと‥]
和範は堪らなくなって頭を抱えた。

[もう謝りたくても、直接謝ることは永久に出来ないんだ。遅かった‥先生が生きておられる時に、会って真実を話して頭を下げるべきだったのに‥卑怯な行動をとった自分を叱ってもらうべきだったのに‥僕はこんな自分を見つめ直し、もっと早くこんな気持ちになるべきだった‥]
死というものは、人と人とを分かつ絶対的な壁のようなもの、直接謝ることが永久に出来なくなった和範の後悔の念は、今やどうにもならない程強くなっていた。すると正代は、自分をひたすら責め続ける夫の肩に優しく手を置き、頭を抱える和範に静かに語りかけるのだった。
[焦らないで‥先生が亡くなられたのは本当に残念だったけど、焦ったら駄目よ。償いは穏やかで素直な気持ちのまま続けるべき、あなた自身が過去に犯した過ちに向き合う為には、焦りは禁物‥私達は今、人生の再生をかけているのよ。それも何もかも捨てて‥だからって気負ったら駄目、正直に生きてたら何とか道は開けるもの、私はそう信じてるわ。]
[そう、そうだな‥]
妻の穏やかな口調には、和範自身を癒してくれるそんな響きが確かにあった。その後和範は、浪川先生の墓前で謝罪するために先生の墓所を教えて欲しいと、今度は改めて浪川先生の夫に宛てて手紙を書くことにした。電話で和範に激昂している彼と直接話すよりも、今は手紙で自分の覚悟を伝え有りのままの気持ちを知ってもらうべきだと思ったのだ。それにしても‥遠藤の母親には、まだ自分の思いを伝えることは全く出来ていない。和範は今、自分がやるべきことについて思いを巡らしていた。

自分が謝るべき相手は、本当にあの二人だけでいいのか‥浪川先生の家族にも辛い思いをさせたのは事実だし、当の遠藤にも墓前で頭を下げるしかないが必ずするつもりだ。たとえ土下座しても自分の罪は簡単に許してもらえるものではないと、和範は覚悟もしていた。それでも謝らなければならない。自分は血の通った人間なのだから。血の通った人間として生きる為にも‥そして、和範はふと思った。遠藤を閉じ込め彼の死の直接の切っ掛けを作った、あの悪ガキ達と会わなくてもいいのか‥結局彼等が法的に裁かれることは無かったが、考えてみれば彼等と自分達は同じ加害者の立場だ。彼等が今、どのように生きているのか‥遠藤の死についても、もしかしたら今の自分と同じように苦しんでいるのではないか、それとも裁判員に選ばれる前の自分のように、まるで他人事のようにそのこと自体を忘れ、平然と暮らしているのだろうか‥和範は考えまいとしても、どうしても彼等のことを考えてしまう自分をどうすることも出来なかった。

第三章 転機

そして浪川先生の夫に手紙を出し、色々手を尽くして遠藤の母親の消息を捜している最中のことだった。和範はある朝いつものように目を通している新聞記事の中に、思いがけずあの悪ガキの中の一人の名前を見つけ愕然としたのである。
(名村太一、名村太一、この名前は確か‥)
忘れもしない。確かに悪ガキの中の一人の名前だ。見ると彼は、我が子を虐待して妻と共に逮捕されたとその記事は伝えている。驚いた和範が正代に記事を見せると、正代も驚いて息を飲んだ。
[名村君って確か当時の不良グループの中の一人だったわよね!遠藤君を閉じ込めた中の一人‥子供を虐待して奥さんと共に逮捕されたって、まあ何てこと‥]
[記事には、三歳の長男を虐待して重傷を負わせたとあるが‥]

[三歳って可愛い盛りじゃない。ひどいことするのね。でも一体何があったのかしら。]
[彼が僕達の知っている名村だったら‥]
[同姓同名で字も同じ、可能性は高いわ。気になるんでしょう?]
[ならないって言ったら嘘になるだろうな。う~んよし、決めた!彼に会えるかどうかわからないが、とにかく彼の所に行ってみよう。]
和範の突然の言葉に、正代はびっくりして振り返った。
[いきなり何を‥?名村君に会いに行ってどうするつもり?第一会えるわけないでしょう?逮捕されて留置されてるのよ。]
妻の最もな指摘だったが、和範はそれでも会いに行きたいと落ち着いた口調で続けた。
[うん、それはわかってる。でも何とか‥僕は、彼が僕と同じように過去の過ちで苦しんでいるんじゃないか、そう思えてならないんだ。もしそうなら、僕は今の気持ちを洗いざらい彼に話した上で、彼の力になりたい。勿論子供を虐待した罪は、親としてしっかり償うべきだ。僕はその点では彼を庇うつもりは無い。ただ、彼が遠藤のことでもし迷いがあるのなら、僕の過ちをそして今の僕の思いを話し、彼と共に償いたい。他の三人のことも気になるけどね。]
[あなた‥]
何ともいえない表情を見せる妻に、和範は力強い笑みを見せ言葉を続けた。
[会えるかどうかわからないけど、一応行ってみる。当たって砕けろってところかな。君は田舎で野菜を作って暮らす‥自給自足で暮らしたいというのが夢だったよね。勿論それはそれで大変だろうけど、君は君自身の夢を叶える為に頑張ればいい。その夢の為にも僕はしっかり頑張る。約束するよ。]
[私の夢を応援してくれるの?]
[ああ、だがその夢の実現にはまだまだ時間がかかるだろうけどな。]
[わかったわ、あなた‥]

夫の力強い決意に満ちた言葉を聞き、正代は最初は不安気な表情を見せたものの、やがて優しく頷いて夫を送り出してくれたのだった。
[気をつけてね。]
その日の午後外出の支度を整えた夫に静かにそれだけ言うと、正代は何ともいえない味わい深い表情を見せてくれた。勿論名村に会える見込みなど皆無に等しいことは二人ともわかっていた。それでも送り出してくれた妻の為にも、和範は何とか結果を出したいと願わずにはいられなかった。
(ごめんな‥)
その表情には妻の様々な思いが含まれることを痛い程感じ取った和範だが、今はただそんな正代に心の中で詫びるしか出来なかった。そして和範は、その足で名村が勾留されている所轄署へと向かった。勿論名村が起こした事件と今の和範とは無関係で、和範が彼に会える確率は殆ど無いのはわかっていた。然し、彼がもし苦しんでいるのなら少しでも力になりたい。自分と同じように良心の呵責に苛まれているかもしれないのだ。そんな言い知れぬ思いに突き動かされるように、和範は遙々足を運んだのだった。だが目的地に着いてみると、さすがにどのような形で接触すればいいのか和範にとってもそれは当然戸惑うものだった。学生時代のクラスメートで心配して来たと言っても、逮捕されている彼に簡単に会える筈など無い。それはわかり切ったことだった。和範は警察署の前でどうすべきか暫く考えあぐねていたが、幸か不幸かその時、和範は思いがけず名村の母親に接触することが出来たのである。それは警察署の玄関近くで心労の為に倒れてしまった彼女を、偶然和範が介抱し救急車で運ばれる彼女に付き添うという、劇的な関わり方をしたことによるものだった。

その初老の婦人は覚束ない足取りで建物から出てくると、わずか数段の階段をゆっくり時間をかけて降り始めた。何ということなしに彼女に目がいった和範は、何か呆然として虚ろな目をしているその表情に危なっかしいものを感じて、彼女から目を離すことが出来なくなった。すると和範の不安は的中し、彼女は階段を降りたと同時にその場に崩れるように倒れてしまったのである。
[どうしました?大丈夫ですか?]
慌てて和範が駆け寄ると、その女性はうっすらと目を開けた。意識はあるようだが、ぐったりとして起き上がろうとしない。どうやら起き上がる気力も無いようだ。近くにいた警察官が異変に気付きすぐに救急車を呼んでくれたので、和範はその警察官と言葉を交わすことが出来たのだが、その時偶然彼はその女性が逮捕された名村の母親だと知ったのである。警官の話では、息子夫婦が逮捕されて慌てて警察署に来たものの結局息子には会えず、病院の孫の所へ行こうとしたが体調が悪くて倒れてしまったらしいのだ。
[どうしたものかな‥一人で来たらしいし、誰に連絡すればいいものか‥]
困っている警官を見て、和範は自分がかつての名村の同級生であり、記事を見て心配してここまで来たこと、そして名村の母親の様子が気になるので、自分が救急車に同乗して病院まで付き添い、彼女の親族が来るまで面倒を見ようと思うとそう警官に告げた。するとその警官は、感心して頭を下げながら和範のことを誉めちぎるのだった。
[原田さんって仰るんですね。それにしても‥中学時代の同級生だったってことでそこまで心配されるとは‥あなたって本当にお優しい方なんですね。それではお頼みします。お手数ですが‥]
[いえ、それであいつはどうなんですか?名村は‥?]

警官が教えてくれるかわからなかったが、和範は少しでも名村の様子が知りたくて口を開いた。すると警官は、家族間で起きたこのデリケートな事件について人間味溢れる言葉で教えてくれたのだった。
[うっう~ん、大分参ってるようです。反省してる様子ですよ。でも、子供にあんな暴力を奮うような親には見えないんだけどな。大人しそうな優しそうなお父さんだって近所の人も言ってましたし‥お母さんも普通の親御さんですしね。一体全体何故あんな真似をしたのかな?]
[会いたいんですが、駄目ですか?]
[それは私の判断では‥まあとにかく、反省してもう二度としないと誓ってくれればいいのですが‥]
無論名村との面会など叶う筈もなく、それだけ言うと彼は救急車を誘導する為に表に出向いていった。憔悴し切ったその女性と生まれて初めて救急車に乗った和範は、慌ただしく対応する救急隊員の近くで落ち着かない時間を過ごしたが、やがて車が病院に到着し名村の母親が診察を終えて病室に運ばれると、やっと落ちつくことが出来た。名村の母親の病状は心労からくる疲れによるものだとうということだったが、和範は彼女の親族ではないので、彼に対してはそれくらいの簡単な説明しかなかった。それでも彼は、急を聞いて駆けつけた名村の母親の妹から、彼女が心臓に持病を持っており、あまり無理の出来ない体だということを後で知らされたのである。
[太一の同級生だった方だそうで、心配して来て下さった上に姉の介抱までして頂いて‥本当に何とお礼を申し上げればいいのか、有り難うございました。]
病院まで付き添ってくれた和範に対してひたすら恐縮するその女性は、その反面ベッドに横になる姉を見つめながら、甥夫婦への怒りを隠そうとしなかった。

[病気の姉にこんな思いをさせて、本音を言えば私はあの子達には相当頭にきてるんです。姉夫婦は、あの子を幼い頃から手塩にかけて懸命に育てたのに‥何故あんなふうになってしまったのか、確かに姉は体が弱くて入退院を繰り返しましたが、それでも子供達には淋しい思いはさせたくないと本当に頑張ってきたんです。それなのに‥私は近くでそんな姉をずっと見てきました。それだけに太一のことが余計許せなくて‥]
彼女のこんな事件を起こしてしまった名村に対する怒りは相当大きいようだったが、和範は和範で同じ加害者として名村に接しようとしていただけに思いは複雑だった。
[あの‥それで?]
赤の他人である自分が聞くことではないと思ったが、それでも和範は敢えて口を開いた。
[お母さんはこれから?]
[あっ、ああ‥状態が落ち着いたらこのまま入院先の病院まで運んでもらうことになると思います。]
[入院?お母さん入院してらしたんですか?]
びっくりして和範が尋ねると、女性は溜め息をつきながら静かに頷いた。
[外出願いは出していたらしいんですが、それが受理される前に入院していた病院を抜け出して太一の所に来たらしいんです。本当に無茶なことをします。事件のことは姉には知らせないようにしてたんですけど、テレビや新聞を見せないようには出来なくて‥多分そっちの方で知ったんでしょうね。それでも私は、あの子のことは私に任せて今は自分の体のことだけ考えるようにと口を酸っぱくして姉に言い聞かせてきたんですが、やっぱり親ですね。]

女性はそう語ると、改めて深い溜め息をつくのだった。和範は迷ったものの、思い切ってもう一人の親について切り出した。
[あの‥ところで、名村君のお父さんはどうされてるんですか?]
[あっ‥]和範の問いに名村の叔母にあたるその女性は、言葉を詰まらせひどく困惑した様子で声を落として語りだした。
[お恥ずかしい話です。姉の連れ合いは女をつくって家を出ていってしまいました。太一が結婚する頃にはもううまくいってなかったようですが、それでも太一が身を固めるまではと‥]
[太一君が結婚してからお二人は離婚されたんですか?]
[ええ、思えば体の弱い姉との夫婦生活で、あの人も相当無理してたのかもしれません。それでも子供達の為に表面上は仲睦まじい夫婦を装っていたのか‥でもやったことは許せません。義兄だと思っていた自分に腹が立ちます。太一には嫁いだ姉がおりますので、その姪が姉の面倒をよく見てくれていたのですが、さすがにこれ以上迷惑はかけられません。だから今は、私が姉を入院させて面倒を見てるんです。姪は太一のことをずっと心配してました。姪の話では、会社では左遷され奥さんともうまくいかず、折角生まれた一粒種の周ちゃんにも最近は手を上げていたとか‥]
[そんなに生活が荒れていたのですか?]
[はい。でも私は今度のことで、太一は見限りました。姪にも、もう太一には関わらないように強く言ってあります。自分のこと‥今の自分の家庭を大切にするようにと‥姉のことは私がしっかり面倒を見ようと思ってます。気楽な独り身ですしね。ですが甥に対しては、しっかり罪を償って反省して出直して欲しい。それだけです。手を差しのべるつもりは全くありませんので‥]

その女性のきっぱりとした口調には、もう甥のことには一切関わらないという堅い決意が表れていた。和範は頭を下げ、姉の病室へ向かう彼女の後ろ姿を成すすべなくただ見守るしか無かった。彼女と別れた後、和範はひとまず名村が拘留されている警察署へと向かった。自分はこの後どうすればいいのか思い悩んだ彼だが、取り敢えずここに来れば何らかの方法で彼に会えるかもしれない。会えないまでも、彼の周辺の人物から何らかの手段で彼の今の様子について、もっと詳しい話を聞くことが出来るかもしれない。そんな期待もあって再びここに来たのだが、現実はそう甘くはなかった。当然のことだが、考え込んでいても誰も来ないし何も起こらない。警察署の前をうろうろしていたら、それこそ不審人物に間違えられる可能性だってある。名村に会おうと決心してここまで来たが、会える筈などやっぱり無いのだ。自分は名村の、中学時代のクラスメートでしかないのだから‥やっぱり帰ろう。和範が諦めて警察署を後にしようとしたその時だった。一人の紳士がタクシーを降りて警察署へと向かった。見るとその人物のスーツの胸には、確かに弁護士バッジが光っている。もしや‥考える間もなく咄嗟に和範は、その弁護士とおぼしき初老の男性に思い切って声をかけていた。
[すみません、あなたはもしや‥昨日逮捕された名村太一君の弁護士の方ではないですか?]
声をかけながら和範自身、自分の大胆な行動に驚いていたが、その人物は当然のことながらもっと驚いたようで、和範をまじまじと見つめながら半ば警戒しつつ頷くのだった。

[そうですが‥あなたは?]
[僕は名村の中学時代の同級生で原田和範といいます。新聞で名村が逮捕されたと知りました。それで彼のことが心配になり、会いたくて会って話がしたくて来たんです。]
会って話をしたい‥それは今の和範の偽らざる本音だった。するとその初老の男性は警戒した表情をすぐに解き、笑顔になって口を開いた。
[名村さんのことを心配されて‥それはどうも、恐縮です。あっ、では先程名村さんの叔母さんにお母さんが救急車で病院に運ばれたと聞いたんですが、その時病院まで付き添われた親切な方というのは?]
[僕です。]
[そうでしたか‥]
その男性は和範の行動にいたく感激したようで、和範に深々と頭を下げて感謝の言葉を口にするのだった。
[有難うございます。お母さんの妹さんから話は聞いております。本当のことを言えば、名村さんのことを心配される方はあまりいらっしゃらないのに、あなたのような奇特な方もいらっしゃるんですね。心配してわざわざ来てくれて、お母様のことまでお世話して頂くなんて‥妹さんからお話を聞いて感心していたところです。
[いいえ!]
和範は思わず、自分を誉めてくれる相手の言葉を強く遮っていた。和範の突然の反応に驚いた表情を見せるその紳士に、和範はあるがままの自分をさらけ出すように口を開いた。それは相手にとっても思いも寄らない話となったが、それでも自分がここに来た訳を和範は包み隠さず話さなければならなかった。今の和範にとって、自分という人間が誉められるのは苦痛でしかなかったのだ。

[僕は、あなたが仰るような奇特な人間ではありません。塀の中にいるかいないかの違いはありますが、僕も名村と同じ犯罪者なんです。それも罪悪感すら感じてこなかった‥]
[えっ‥それは一体どういうことなんですか?]
和範の思いがけない告白を耳にして困惑した相手は、その意図を確認するように口を開いた。彼が混乱するのも無理からぬことだった。そして和範は田尻というその弁護士に、自分が過去に犯した過ちを話しそれを償おうとして今を生きていることを伝えた。その上で遠藤の死の責任が彼の心に今も重圧となっているのではないか‥遠藤の死について名村はずっと苦しんできたのではないか‥事件を起こした彼の心の闇も、そのことが関係してるのではないか‥だとすると、自分にも何か出来ることがあるのではないか。一緒に償う道をあるだろうし、話すことによって力になりたい。とにかく彼の気持ちが知りたかった。そう考えてここまで訪ねて来たのだと、和範は今抱いている思いを田尻というその弁護士に有りのままぶちまけた。長くなったので駐車場の片隅にある小さなベンチに座っての話になったのだが、田尻はそれこそ真剣な表情で身動ぎもせず和範の話を聞いてくれた。そして和範が話し終えると、彼は頷きながら静かに口を開いた。
[成る程‥名村君のお母さんから、彼がずっと心に迷いや不安を抱いて生きてきたらしいことを直接お聞きしましたが、やはり中学時代の同級生の死にその原因があったのですね。彼自身はそのことには関与していないとずっと否定してきたらしいんですが、聞けばその生徒が亡くなった時に他の三人の友達と取り調べを受けたとか‥彼等は閉じ込めたりしていないと警察には言ったそうですが、やはり閉じ込めていたのですね。結果的にはその子は死んでしまった‥凍死だったそうですね。]
[ええ‥]

[取り返しのつかないことが起きてしまったが、彼等が閉じ込めたという証拠はなく彼等が公に裁かれることは無かった‥]
[その通りです。結局担任の先生が一人で責任を取る形で学校を去っていかれました。]
[でも、その子が閉じ込められていたことはあなたも知っていた‥]
[そうです。知っていたのに黙っていました。彼を助けられたのに何もしなかった。僕は卑怯な人間です。僕も名村と同罪なんです。いや、彼よりもっと悪質かもしれない‥]
和範の話を聞いていた田尻は、冷静な口調ながら和範を批判する言葉をしっかり口にした。
[そうですね、弁護士という職務を離れて人として意見を述べさせていただければ、私はあなたが仰ることは最もだと思います。]
田尻の抑揚のないその言葉は、事務的な口調だからこそ容赦なく和範の胸に突き刺さるものだった。和範は堪らなくなって訴えるように話を続けた。
[名村がもし良心の呵責でずっと苦しんでいたのなら、僕はそんな名村より最低の人間でしかない。罪の意識すら感じてこなかったんだから‥だから僕は、名村に言ってやりたいんです。共に償おうと‥世間ではエリートで通ってきた僕だけど、本当は今の君よりずっと最低の人間だったんだと‥彼が僕のしたことを知ったらどう思うのか‥当時の僕は、人の命より自分の体面を守っていた。しかし、今は何と思われてもいい!新しく生まれ変わる為にも、犯した罪は絶対に償うつもりです。彼もそうあって欲しい‥我が子を平気で傷付けるようなそんな人間であって欲しくない。絶望せずに何とか罪を償ってやり直して欲しい‥今僕はそう言ってやりたいんです。心から思います。だから来ました。会える見込みも無かったんですけど‥彼の弁護士であるあなたに話を聞いてもらえて良かった。今は本当にそう思ってます。]
[そう‥ですか‥]

和範の話を聞いていた田尻は、暫く考え込んでいたが決心したように不意に顔を上げると、何と名村の面接に和範が同席することを許してくれたのである。
[僕があなたと一緒に?名村に会えるんですか?]
[会いたいんでしょう?会って今のご自分の思いを、余すところなく彼に伝えたいんでしょう?]
[えっ、ええ‥それは‥]
[私が会わせてあげましょう。私と一緒なら会えます。勿論二人っきりは無理ですが‥]
[本当ですか?]
[私が先ず警察の方に事情を話します。あなたは彼の学生時代のクラスメートということで、私と共に会うことを許してもらいます。特別に許可を得ますので、多分警察の方も同席されるかと思います。だから先程の話は、警察の方も知るところとなりましょう。それでも構いませんね?]
[ええ、勿論‥]
[戸惑いはあるかと思いますが、そこまで決心されてるんなら、彼に直接会って思いの丈を存分彼に伝えるべきです。名村さんは今、確かに自暴自棄になっておられます。取り調べにもあまり積極的に応じようとはしてくれていません。だからあなたと会うことは、彼の態度が変わるきっかけになるかもしれない。それは警察も考慮してくれるのではないか‥私が彼に話しますからとにかく、これからどんな風に罪を償っていくにしても、あなたがお会いすることで彼も変わってくれるのではないかと私も考え期待しています。]
田尻の相変わらず感情を抑えたその口調は、却って和範の心を強く揺さぶるものとなった。
[はい、お願いします。]
殆ど迷うことなく、和範は田尻の申し出を承諾した。

[わかりました。]
田尻も頷く。そして田尻に頭を下げたその十分後には、和範はその警察署の中の狭い一部屋で田尻の横に座り数十年ぶりに名村と対峙していた。
[名村‥]
机を挟んで和範と田尻、そして当の名村と彼を連れてきた刑事が腰を降ろす。刑事には名村の友人として彼の心を解きほぐす為にも是非立ち合わせて欲しいと、田尻が和範の同席について頼み込んでくれた。警察が和範の同席を許したのは田尻が言った通り、すっかりやけになり取り調べにも素直に応じようとしない名村の態度に業を煮やした警察の事情というのも、その背景にあるらしかった。田尻のお陰で十数年振りにクラスメートに会えた和範だったが、彼が部屋に入って来た時そのあまりの変貌振りに和範自身言葉を失った。それはやつれるというより、失意のどん底に喘ぎ人間らしい表情を無くした、いわば野獣の領域に足を踏み入れたような彼を目の当たりにしたからである。ぼさぼさに伸びた髪、やはり伸ばし放題の髭、そしてその髪なのか髭なのかわからない顔の中で、ぎらぎらと異様に光ってる目‥人はここまで人間らしい表情を失うことがあるものかと感じ、和範は名村の変貌振りから彼の苦悩の深さを改めて思い知らされたのである。そして和範が口を開く前に村上という同席した刑事が、名村の現在の状況を大まかに教えてくれた。それによると名村は逮捕されてからこのかた、ずっとこの状態なのだという。取り調べにも正気かどうか判断に迷う程の虚ろな表情のままろくに答えようとせず、警察の方も困っているようだった。すると和範が口を開く前に、田尻が慣れた様子で名村に話しかけた。
[名村さん、田尻です。お母様からあなたの弁護を依頼された弁護士の田尻です。お会いするのは二度目ですよね。わかりますか?]

田尻の大きなそして言い聞かせるようなはっきりした口調に、名村はゆっくり顔を上げると先ず田尻の顔を見た。そして視線を動かし今度は田尻の隣にいる和範を凝視する。だが和範の顔を見ても、その虚ろな表情は全く変わらなかった。そんな名村に和範は、今度は動じることなく一人の人物の名前をいきなり叫んだ。
[遠藤佳人!]
[えっ‥]
急に耳慣れない人の名を言われてその場にいた刑事は驚いた様子だったが、和範はそんな鋭い視線にも全く動じなかった。然し当の名村はその名前を叫んだ和範を、一瞬何か恐ろしいものでも見るような目付きで凝視した。その顔つきは益々異様でまるで何かに憑かれたようですらあったが、和範はその表情に少しもたじろぐことなく口を開いた。
[久し振りだね、僕が誰だかわかるかい?君の中学時代の同級生だった原田和範だよ。]
[原田‥和範?原田‥ああ、あの‥]
名村は暫く考え込んだ末にやっと和範のことを思い出したらしく、無表情だった彼にその時やっと人間らしい表情が戻った。刑事はただ呆気にとられて二人の会話を聞いている。名村は勿論当然のことだが、何故和範がここにいて遠藤の名前を叫んだのか全くわからないようだった。
[何であんたが‥ここに‥?]
この場所にいることが最も似合わない人間‥そんな人間の代表格である和範がここにいることを不自然だと思った名村は、和範が来たことに最初腹立たしさを覚えたようだった。
[何故君が‥?僕を笑いに来たのかい?嘗ての落ちこぼれが逮捕された姿を見て、面白がってるのかい?君のようなエリートが何でこんな場所に‥]
名村が疑問に思うのは当然のことだった。だが和範は、そんな苛立つ名村に臆することなく口を開いた。

[君は今、何を恐れてるの?どうしてこういうことになってしまったの?君がここまで荒れてしまったのは、やっぱり遠藤君の死にその原因があるんじゃないの?僕はそう思ってとにかく君と話したくてここまで来たんだ。]
[遠藤‥あいつの死は、あんたとは関係ないだろう?]
[いや、それは違う。]
和範から話を聞いていた田尻はともかく、その場にいる刑事は訳がわからない様子で和範達の会話をただ聞き入っていた。だが和範はそんな周囲の様子など全く気にすることなく強い決意を持って話を続けた。
[聞いてくれ、僕は決してエリートなんかじゃない。君達が中学の頃遠藤君をいじめていたのを僕は勿論知っていたし、陰でその様子を見てほくそ笑んでいた。]
[君が‥まさか‥]
[本当のことだ。勉強は出来ても、当時の僕は人として最低の人間だった。誰もが僕を成績優秀でスポーツ万能‥何一つ間違ったことをしない優れた人間だと決めつけていた。そのプレッシャーに僕は耐えられなかった。人に叱られるようなやんちゃなことは少しも出来ない僕だったが、本当はもっと羽目を外したかったんだ。もっと枠にとらわれない生き方をしたかった。でも少しでもそれを許さないプレッシャーが僕を苦しめていた。だから当時の僕は、誰よりも卑怯で卑劣な真似をした。遠藤君がいじめられているのをこっそり見て楽しむのは、僕にとって何よりのストレス解消になったんだ。クラス委員だった僕は本来いじめを止める立場だったのに、自分の苛立ちをいじめをこっそり見ることで晴らしていた。そしてあの日、君達の計画を僕は知っていた。]
[知っていた?]

[ああ、君達の会話はいつも盗み聞きしていたからね。そして僕は、あの寒い日にあの部屋に遠藤君が閉じ込められているのを知っていながら見てみぬ振りをしたんだ。結果的に彼を見殺しにしたんだよ。そんな卑怯で卑劣なことをしていながら、僕は今まで罪の意識すら感じてこなかった。つい最近まで遠藤君に少しも悪いと思うことなく、平然と生きてきた。そんな自分が心からおぞましいと思う。]
[原田君‥]
和範の思いがけない告白につい先程まで人としての表情を無くしていた名村が感情というものを取り戻し、呆然とした顔で和範をただ見つめている。和範は話を続けながら、胸が熱くなるのを感じた。どうすれば自分の思いが伝わるのかわからない。でもとにかく、自分の気持ちを伝えたい。心を込めて訴えれば思いは通じる筈だ。そう信じて心を落ち着かせながら、彼は喋り続けた。
[君が子供さんを虐待して逮捕されたことを知り、僕は居ても立ってもいられずにここに来た。君のお母さんや叔母さんとも、偶然だが会って君について話をした。特に叔母さんは、何故君がこんなふうになってしまったのかわからないと困惑しておられた。だが僕にはわかるような気がする。その上で、君に是非知っておいて欲しいんだ。君の生活が荒れだした原因がもし遠藤君が死んでしまったことにあるなら、勿論それだけではないだろうが君以上に卑怯で卑劣なことをした人間がここにいることを‥僕はそれを伝えたくて君に会いに来たんだ。うわべだけのエリート、その実人を傷付けても何とも思わなかった最低の人間‥それは君じゃない、この僕だ。]
[最低の‥人間‥]
[ああ、誰からも白い目で見られるようなことを僕はした。でも僕はその罪を償う為に、これから先の人生を生きようとそう決心したんだ。今ここで君や他の誰から罵倒されようと、僕の決心は揺るがない。だから‥調子のいいことを言うなと言われそうだが、僕は君にも是非立ち直って欲しいんだ。死んだ人はもう生き返らない。だから完全に罪を償うことは出来ないだろう。その意味では僕も君と同じ立場だ。そして君も僕のように立ち直って生きて欲しい‥]
[原田‥]

[僕はもう行動を起こしている。遠藤君のお母さんと、あの時担任だった浪川先生に謝罪の手紙を書いた。だが‥先生は二年前に亡くなられていた。]
[亡くなった?]
和範の言葉にただ驚く名村‥その目は見る見るうちに赤くなってきたように見えた。そんな名村に和範は更に続ける。
[ああ、それに遠藤君のお母さんに出した手紙は宛先不明で戻ってきた。浪川先生のご主人からは、直接お叱りの電話があったよ。妻の代わりに手紙を読んで、僕に相当の怒りを感じたらしい。それは当然のことだが、先生の死を知って僕は正直間に合わなかったと思った。中三の受験で一番大変だった時にあれだけお世話になったのに、亡くなられたことも知らなかったなんて申し訳なくて‥]
[原田‥]
[それでも僕は、まだ自分に出来ることがあると信じたい。真っ直ぐ前を向いて生きていきたいんだ。そして人として生まれ変わる為にも頑張ろうと思っている。そんな僕の気持ちを、何としても君に知って欲しかった。君も立ち直って欲しい。そう願ってるから‥]
[ありがとう‥]
和範の誠実さが溢れた言葉に、先程まで正気を失っていた名村は漸く気力を取り戻したようだ。やがてぽつりぽつりとこれまでのことを語り始めたのだった。
[僕の人生、最初から上手くいかなかった。上手くいきそうな時も、必ずどこかでとんでもない挫折が待ち構えていた。結婚して子供が生まれて仕事も頑張って、幸せになれる筈なのに何故?わからないんだ‥そのうちに焦りは苛立ちに変わった。そして僕は、きっと遠藤が僕達のことを呪っているんだ。いつしかそう思うようになっていった‥]
[名村‥]
やっと口を開いた名村を、和範は勿論名村の横に座る刑事も身動ぎもせずに見ている。そして名村は今までとうって変わって、表情豊かに自分の思いを吐露するのだった。

[確かに‥悪いことをしたと思ってる。でも当時の僕達は、彼を閉じ込めたが三十分もしないで鍵を開けたんだ。だから遠藤が出て行かない筈はないと思ってた。彼が死んだと聞いた時、僕らはパニックで頭が真っ白になった。あの事件のことは一日たりとも忘れたことはない。結局僕らは遠藤を閉じ込めたことを最後まで認めなかった。怖かったんだ‥認めてしまうと僕らは前科者になってしまう。将来もずっとそのレッテルを引きずって生きていかなければならない。周りの大人からそう言われた。僕らが警察から取り調べを受けているのは不当なことで、僕らは冤罪の被害者のように扱われた。そして僕らは無実だと当時の弁護士や専門家から声が上がった。それは無言の圧力となって、僕らが遠藤を閉じ込めたことを最後まで認めないように方向付けた。とにかく親は勿論当時の周りの大人達は、事実を追及するよりも一貫して僕らと遠藤の死とは無関係という既成事実を作り上げようとしたんだ。僕らも本当のことを正直に話すことが出来なかった。だが‥だが‥]
[名村‥]
人間らしい表情をやっと取り戻した名村は、肩を震わせ唇を噛み締めると自分を鼓舞するようにしっかりと話を続けた。
[結局僕らは遠藤の死とは無関係だったと結論付けられた。だがそれは、僕らにとって何の救いにもならなかった。過ちはやってしまったことを心から反省し、償おうとしない限り決して許されることはない。救われることはないんだ。当時はそれほど感じなかった罪悪感だが、年を重ねるにつれ自分の心には耐えがたい重荷になってしまった‥あれ以来他の三人との交流も殆ど無くなったが、やっぱり僕と同じような思いをしているらしいことは伝わってきた。どんな時も心から笑えないし楽しめないんだ。仕事も私生活もうまくいかなくなってきて‥人を死なせておきながら知らん顔をした自分に幸せになる資格があるのか?常にそんな思いが自分に付きまとう‥それでも犯罪者として警察のお世話になっていない分君は僕よりもましか‥]
[名村‥]

嘗てのクラスメートである和範に自虐的な笑みを見せると、名村は更に続けた。
[結局僕らは、遠藤の死について罰を科されることは無かった。こんな自分が本当に幸せになっていいのか、そんな苦悩が僕の心のバランスを確実に崩していった。家族に当たり散らして、その挙げ句泣き止まない子供に暴行まで‥本当にどうしようもない人間なんだ。僕は‥]
[名村‥]
どうしようもない人間‥その言葉は名村だけでなく、和範の心をも深く突き刺すものだった。自分は別の形で、名村以上にどうしようもない人間だったのだ。それでも今、後悔するだけの自分ではないしそうありたくもない。和範は名村だけでなく、自分にも言い聞かせるように力強く口を開く。
[聞いてくれ、僕は君以上にどうしようもない人間だったんだよ。君が良心の呵責に苛まれて生きてきたのに、僕はその良心の呵責すら感じてこなかったんだから‥大体声を上げれば外にいる誰かに必ず聞こえた筈、声を上げずに助けを呼ばなかった本人が一番悪いんだ‥遠藤が亡くなった時僕は自分に都合のいいようにそう理屈づけて、彼を助けようとしなかった自分を正当化して生きてきた。だが、事実は違ったんだ‥]
[違った?それはどういうこと?]
[当時の刑事さんが話してくれたよ。遠藤君はあの日風邪気味で体調が悪くて、熱もあったんだろうがあそこに閉じ込められてからかなり早い段階で低体温症となり、意識も無くして倒れてしまったらしい。だから助けを呼ぼうにも呼べなかったと考えられるそうだ。倒れていた場所も外から死角になる場所で、それで発見が遅れたとその刑事さんは言っていた。僕は刑事さんからその事実を聞かされた時、自分が犯した過ちは万死に値すると思った。当時は周りの大人達の配慮でその事実は伏せられたが、今の僕、いや僕達にはしっかり受け止める義務がある重い真実だ。今の君にこの事を告げるのは酷なことかもしれないが、それでも聞いて欲しい。君にも覚悟を決めて欲しいから‥ここに君以上にどうしようもない人間がいるが、それでも何もかも捨ててこれから償いの為に奔走しようとしている人間がいることを‥僕の思いを知って欲しくて今日ここまで来たんだ。]

[原田‥それにしても‥知らなかった‥まさか遠藤がそんな状態だったなんて‥済まない、遠藤‥本当に、本当に済まなかった‥]
名村の口から嗚咽がもれ、涙が溢れた。自分が犯した過ちを悔やみ亡き友に頭を下げる名村に、和範は先ず償うべき相手が誰なのか静かに諭すのだった。
[言っておくが、君が最初に償うべき相手は遠藤君ではない。君のお子さんだ。そうだろう?僕はまだ親にもなれていない。親でもない僕が言うのも何だが、君は先ず子供に対する過ちを償うべきだ。僕は結婚して七年になるが、まだ子供に恵まれない。妻はずっと子供を欲しがっていて、医者の話では彼女には何の異常もないということだった。多分子供が出来ないのは、僕の方に原因があるのだろう。体にも‥心にも‥そして遠藤君のことをはっきり思い出し意識した時、僕は罰が当たったんだと思った。僕には親になる資格はないと、そう神は考えたのかもしれない。だが君は間違いなく父親だ。子供を傷付けてしまった責任は君自身にある。それにそれを黙認していた奥さんにもある。子供のいない僕が言うのもおこがましいが、傷付けてしまった子供の為にも罪を償って立ち直って欲しいんだ。]
[原田‥]

まだまだ話し足りない思いだったが、和範と名村の会話はそこまでだった。刑事に連れられ部屋に入って来たときとは打って変わって、何か吹っ切れたような落ち着いた表情で名村は部屋を出ていった。同席した刑事からは何も言われなかったが、和範は弁護士の田尻から刑事が名村の心を解きほぐしてくれたことで和範に感謝しているとそう伝えられた。田尻は相変わらず弁護士らしい冷静な表情を崩さなかったが、その田尻が口添えしてくれたお陰で和範は名村としっかり心を割って話すことが出来たのだ。名村が去った後、和範は名村に会わせてくれたことについて田尻に深々と頭を下げ感謝の言葉を告げた。すると今までにこりともしなかった田尻は、相好を崩し穏やかな口調で和範に答えるのだった。[いいえ、こちらこそお礼を言います。あなたのお陰で私もやっと彼の心を掴むことが出来たような気がします。きっとあなたの誠意が氷のように閉ざされた彼の心を解かしたんです。感謝するのは私の方です。有り難うございました。]
田尻に丁寧に頭を下げられて、和範は却って戸惑った。そんな和範を前に田尻は淡々とした口調で話を続けるのだった。
[間違いない人生を生きるというのは、本当に難しいものです。誰もが後悔や失敗の連続で、それでも明日への希望を抱いて生きています。あなたも周囲からの過度なプレッシャーが無ければ、過ちを犯すこともなかったかもしれませんね。弁護士という職業柄、私は色々な人達の悔恨の情に満ちた話を聞いてきました。あなたと名村さんとの会話を聞いて、私は人生について今日程考えさせられたことはありませんでした。私はあなたの行動は正しいと思いますし、その年でその立場で何もかも捨てて人として生まれ変わる為にこれから生きようとお決めになったのは、尊敬に値すると思います。どんな未来が待っていようと今のあなたなら大丈夫だと私は信じています。そして応援しています。]
[そんな‥]
誉められるなど思ってもみなかった和範は、田尻の言葉に自分は称賛されるような人間ではないと慌てて首を振った。ただ、自分の行動が認められただけなのだ。自惚れてはいけない。和範は自分にそう言い聞かせて今も気になっていること‥名村以外の三人の近況をそれとなく田尻に尋ねた。田尻は名村の心の闇が遠藤の死を切っ掛けに始まっているのなら、他の三人にも話を聞く必要があるかもしれないから、近況がわかったら三人の様子を許される範囲内で伝えると言ってくれたのだった。長い長い一日を終えやっと帰宅した和範は、今日あった出来事‥まさか会えると思っていなかった名村に会えたことは勿論、彼がいる警察署内で弁護士同席のもと彼と交わした会話の内容まで、妻正代に詳しく語って聞かせた。妻には全てを知る権利があるし、自分にも全てを伝える義務がある。そう自覚しての報告だったが、話を聞き終えた正代の関心は以外にも留置されている名村ではなく、虐待されて今入院している彼の幼い子供の方にあった。

[それにしてもよく会えたわね。あなたの一途な思いがきっと奇跡を生んだのよ。]
[そうかな‥]
[そうよ。で子供さんの様子はどうなの?子供は男の子って新聞には書いてあったわね。幼いのに辛い目に遭って可哀想‥その子体の傷は癒えても心の傷は一生残ってしまうんじゃないかしら。で?退院したらその子はどうなるの?]
[わからないなあ、夫婦共に逮捕されてるしなあ‥あの様子じゃ身内で引き取り手はいないんじゃないかな。叔母さんの口振りじゃ名村の姉さんも無理みたいだし‥田尻さんが言ってたけど、奥さんの方が早く釈放されるだろうがとても子供を任せられるような状態ではないらしい。]
[というのは気持ちが‥]
[そう‥逮捕されたことでかなりショックを受けててね。彼のお袋さんも入院してるし後は奥さんのご両親でも引き取れるならいいんだが、それが無理なら施設ということになるかもしれないなあ‥]
[ふうん‥]和範の話を聞いて、正代は何か考え込んでいるようだった。和範は妻の関心が名村の方ではなく、虐待されて入院している子供の方にあったことに正直少し驚いたのだが、やはり妻も女なのだと思い知らされたのだった。思えば何年も前から、正代はとても子供を欲しがっていた。自分はそんな妻の気持ちに応えてやることもなく、どこまでも鈍感だった。もしかしたら‥引き取り手が無ければ自分が子供を育てるとでも彼女は言い出し兼ねない。もしそうなったら自分はどうすべきなのか‥そこまで考えた時和範は、自分が今までにない思いを抱いていることに驚いた。だがもし彼女がそう言い出したら、自分に反対する資格はないし反対する気持ちもない。そう思った時、和範は考え過ぎだと自分を戒めた。だが彼自身妻の子供が欲しいという切なる願いから目を背けてきたのは紛れもない事実、和範は今更ながらそんな自分を恥ずかしく思い、心から妻に謝るのだった。と同時に妻がもし望むならどんなことでも叶えてやりたいと思った。今までの自分ならこんな考えは抱かなかっただろう。和範は自分の心の変化を自覚せずにはいられなかった。

和範と会い色々話したことで、名村は何とか自分でも立ち直る切っ掛けを掴んだようだった。それからは人が変わったように取り調べにも素直に応じ、自分のしたことを心から後悔しているという。だが一度断ち切られてしまった家族の絆はもう繋ぎ止める術は無く、先に釈放された妻は名村との離婚を望んでいるという。田尻から電話でそう聞かされた時、和範は一度傷付いてしまった心が修復するのは本当に容易ではないことを思い知らされたのである。更に和範は田尻から危惧していたことを、はっきり現実として知らされた。
[引き取らない?奥さんは子供を引き取るつもりはないって仰るんですか?]
[ええ‥彼女は精神的にとても参ってらっしゃるようで、子供の面倒を見れる状態ではないようです。彼女元々名村さんとの間に子供は欲しくなかったって仰るんですよ。結婚当初から、夫はどちらかといえば精神的に不安定だったって‥親になれば少しは変わってくれるかもしれないと期待して子供を産んではみたものの、結果は裏切られるものだったって‥だから嫌な思い出と繋がってしまう子供を手元に置いたくないって‥名村さんの裁判が終わってその刑期が終わるまでどこか施設に預けてくれないかと‥]
[そんな‥]
[奥さんのご両親も高齢で持病もあり育てる自信がないって仰ってるし、他の親族も全く‥本当に可哀想な子です。虐待された挙げ句、親からも見捨てられるなんて‥]
[名村は、名村は何と言ってるんですか?]
せっつくように尋ねる和範に、田尻はあくまで冷静に答えるのだった。
[そうですね。親に見捨てられてと私は言いましたが、あくまで片親にですね。名村さんは子供のことを思い、父親としての責任を全うしようとしてらっしゃいます。まあその前に裁判があって刑期が決まるんですが‥すぐには出てこられないでしょうが、彼が自由の身になるのにそう時間はかからないと思います。だけどその後のこと‥生活を立て直して親子でちゃんと暮らしていけるようになるまでは、暫くかかるでしょうから‥その間子供はどうなるか‥でも名村さんは、罪を償ったら自分で引き取ってしっかり育てるって仰ってますよ。まあ奥さんがあんな風になってしまったのは、確かに名村さんに責任があるんですが‥それでも子供には何の罪もありませんからね。私は子供が不憫でなりません。]

[田尻さん!]
[あっ、はい‥]
そこまで聞いた和範は、自分でもびっくりする程の大きな声で田尻の名前を呼んだ。急に大きな声で呼ばれて田尻も驚き、こちらも大きな声で返事する。
[あっ、すみません急に大きな声を出して‥あの‥出来ればその子を、名村が生活を立て直して親子二人でちゃんと暮らしていけるようになるまで、私達夫婦で面倒を見たいんです。見させてもらえないでしょうか?]
[えっ‥?]
口にしながら和範は自分自身に驚いた。何のことはない、妻の意志を確認するまでもなく、和範はこの突拍子もないと思える申し出を自分から口に出していたのだ。
(僕は‥何を言ってるんだ?僕が、自分からこんなことを言い出すなんて‥)
自分で自分が理解出来ない。だがこんなことをするのが本当の自分だったかもしれないと、そうも思えてくる。そう考えた時、ふと見れば正代がこちらを見てにっこり微笑みながら頷いている。
(やっぱりそうだ!正代もそうしたがっている‥)
そう確信した和範は、子供のように胸を弾ませ更に言葉を続けた。
[いきなりこんなことを申し上げて、驚かれたと思います。すみません‥でも私達夫婦は本気です。妻もそう望んでいます。妻は心の優しい女性です。子供を欲しがっていましたが、出来なかったんです。彼女なら、傷付いた子供の心をきっと癒やすことが出来ると思います。僕もそんな妻をしっかりサポートします。出来ると思います。親ではありませんが、実の親以上の愛情を注いでやれたらと思ってます。いや、必ずそうするつもりです。]
[あっ‥]
電話口で田尻が言葉を詰まらせる。当然のことながら思いがけない急な申し出に、彼自身戸惑っているのだ。それが痛い程感じられても、和範はただ答えを待つしかなかった。やがて田尻は静かに口を開く。

[有り難い申し出だと思います。あなた方ご夫婦なら、子供をきっと幸せにしてあげられるのではないか‥そうも思います。名村さんと話されているあなたを見て、実は私もそう感じたんですよ。然しこういう特別な事情のあるお子さんを育てるというのは、決して簡単なことではありません。第一失礼ですが、あなたは今仕事をしてらっしゃらないのでしょう?生活はどうされるのです?それにやっと子供との生活に慣れて心を通わせることが出来ても、実の父親である名村さんに再出発する時が来れば子供さんともいずれ別れなければならないのですよ。その時辛い思いをされるのは、奥さんでありあなたです。確かに覚悟はなさっていると思いますが、そういうことを考えれば有り難い申し出だと思いますが、今の私には賛同できかねます。]
[それは‥そうですね。あまりにも性急な話で驚かれたでしょう。申し訳ありません。]
田尻の言葉は最もだった。働いていない人間に子供を育てられるのか?説得力のある田尻の言葉に、和範は引き下がるしかなかった。そんな和範に田尻は、今度は人間味溢れる優しい口調で話を続けた。
[いいえ、あなた方のお気持ちは本当に有り難いと思いますし私自身嬉しかったです。名村さんにもあなたの申し出は一応お伝えしておきますが、宜しいでしょうか?]
[ええ、構いません。]
[それではまた‥]
田尻との話を終え受話器を置いた和範は、不意にどっと疲れるものを感じた。今までの自分では決してしなかっただろうことをやろうとした。行動を起こしたのだ。以前の自分なら、他人の子供など気にもかけなかったのに‥と‥そこまで考えた時不意に声がした。
[どうだった?]
心配そうに尋ねる妻正代に、和範はゆっくり微笑むと首を振って答えた。

そんな時だった。思いがけない人物から救いの手が差しのべられた。ある日その人物から送られてきた手紙が、どうにもならない状況の中で悶々としていた和範に一筋の光をもたらしてくれたのだった。その手紙は、以前和範の家に直接叱責の電話をかけてきたあの人物‥今は亡き浪川先生の夫からのものだったのである。手紙が嘗ての恩師浪川先生の夫からきたことを知り、和範は緊張の面持ちで封を開け目を通した。手紙には最初叱責の電話を掛けてきた時のままの、彼の和範への怒りに満ちた厳しい言葉が綴られていた。だが、自分の怒りをぶつけるように一通り手紙に厳しい言葉を綴った後、彼は亡き妻との思い出に浸りながらも今の和範にとって最も知りたかったことを教えてくれたのだった。それは遠藤の母親の現在の住所であり、更に記されていたのは浪川先生が亡くなるまで遠藤の母親と交わした手紙の内容だった。彼の手紙には、遠藤の母親が生まれ故郷である長野に帰って今も一人で暮らしていること‥遠藤の遺骨は母親が持ち帰り、自宅近くの墓所に葬っていることなどが克明に書かれていた。浪川先生と遠藤の母親との間ではそれから何度も手紙のやり取りがあったらしく、あの悲劇の後責任を取る形で教職を辞した浪川先生だったが、それでも遠藤の母親とは頻繁に手紙を交わしていたという。それからは時が経つにつれて年に数回時候の挨拶を踏まえた上でのやり取りに変わっていった。だがそのやり取りは、浪川先生が亡くなるまで一度も途絶えたことは無かったという。浪川先生の夫は、手紙のやり取りをしていた時の妻の様子をこう書いていた。
[妻は手紙を書きながら私によく言っていた。自分はこれまで、死というものがこれ程絶対的なものとは思わなかった。お母さんと手紙のやり取りをしていて、彼女の気持ちを幾分癒やすことが出来たように思えても、その子供が僅か十五歳で死んでしまったこと‥なくさなくてもいい命を失わせてしまったその事実を否が応でも突きつけられる。その事実は、たとえどんなことがあっても覆すことは出来ないのだと‥それを思い知らされる度に、どうにもやるせない気持ちで一杯になるのだと妻はそう言っていた。死期が近づいた時やっとこれで遠藤君に会える、あの子に謝ることが出来ると妻はほっとしたように微笑んでいたのを覚えている。妻が亡くなった後遠藤君のお母さんは私にお悔やみの言葉と共に、今まで励ましてくれたことに心から感謝していると伝えてきたが、私は辛くてその手紙を一度しか読んでいない。君が妻への手紙に謝罪の言葉と共に、遠藤君の母親にも謝らなければならないので母親の現在の住所を知っていたら教えて欲しいと書いていたが、私は誰が教えてやるものかと最初そう思っていた。勿論君に対して怒りがあったし、遠藤君の死に何の責任も感じてこなかったそんな君がどこまで本気なのか、疑わしいものだと思ったからだ。とにかく君自身、まだまだ反省して自分のしたことを悔いるべきだと思ったんだ。だがそれでも、君の手紙に書かれた君の言葉が何日経っても私の頭から離れなかった。そのうちに、君の罪を償って人生をやり直したいという言葉に嘘はないのではないかと、何故だか少しずつそう思えるようになってきたんだ。然しそうかといって、君にすぐ遠藤君の母親の所在を教えようとは思わなかった。それはそうだろう。人の怒りというものは、そんな簡単に消えるものではない。だから私は、君の今の姿を自分の目で確かめたくなったんだ。何故こういう気持ちになったのか自分でもわからない。或いは妻が私の気持ちを変えさせたのかもしれない。不幸な偶然だがそちらの方に行く用事ができてね。実はそちらに嫁いでいる娘の夫が今入院していて、見舞い方々つい君のことが気になり、本当に反省しているのかこの目で確かめようと思ったんだ。でもつい君の所に足を運んでしまう自分が無性に腹立たしく思えて‥俺は何をしてるんだ?あいつはもういないのに今更どうしようというんだって、そんな葛藤があった。それでも訪ねていった先で君は手紙に書いていた通り真摯に生き償おうとしている。君の表情から君の決意が見てとれたよ。私はひたすら迷った。娘もそんな私の様子が気になったらしく、ある日私に問い質した。父さんは何をしようとしているの?頻繁に出掛けているようだけど、何を考えあぐねてそんなに苛々しているの?そう訊いてきたよ。そんな娘に私は、迷ったが思い切って全てを話した。娘は何とも言えない表情で黙って私の話を聞いていたよ。

そして話を終えた時、娘は何と言ったと思う?そのお母さんの住所を君に教えてあげるべきだと、真剣な表情で私に言ったんだ。わかるかい?事件当時娘は、君より少し年上の大学生だった。あの時は娘なりに、母親の苦悩を具に見てきてずっと心を痛めてきた筈なんだ。そんなあの子が‥私だって同じだが娘には本当に辛い思いをさせたと思う。その子が真剣な眼差しで私に訴えるんだ。君の気持ちを無にしてはいけない。亡くなった子の母親の今の住所を君に教えてあげるべきだと。私は娘に尋ねた。お前は腹立たしくないのか?彼があの時遠藤君の居場所を教えてくれれば、鍵をすぐ開けてさえくれればあんな悲劇は起こらなかったし、お母さんだってあんなに苦しむことも無かったかもしれないんだと‥すると娘は私に言ったんだ。確かにあの時のことを思えば、君に対する怒りはある。でも今は何より、お母さんの気持ちを第一に考えたい。お母さんは生涯教師だった。腹立たしい気持ちが無いと言えば嘘になるけど、お母さんだったらどうするのかどう思うのか、きっと今の彼の気持ちを先生らしく受け入れてくれるだろう。多分そうすると思う。だから私は教えるべきだと思うと、娘はそう私に言ったんだ。そして私は娘の意見を受け入れた。今はただ、娘の心を思いやって欲しい。亡くなった妻‥君達にとっての浪川先生の気持ちを考えて欲しい。娘も賛成してくれたし天国の妻も望んでいると思うので、私は君が最も知りたかったことを君に伝える。後は君がどう対処するか‥君自身の生き方が問われていると思う。私は君がこれから何をしようと、確認するつもりはない。だが君のことは、良い意味でも悪い意味でも忘れられない存在になった。それだけは確かだ。忘れようとしても忘れられないだろう。君の行動はこれからの生き方は誰でもない、天が見ている。いいか?私の言葉はしっかり心に刻んでおくように。]
手紙はそこで唐突に終わっていた。和範は言い知れぬ安堵感と共に、浪川先生が生前語っていたという死というものの絶対性を改めて身に染みて味わっていた。
(有り難うございます。これでやっと‥やっと前に進める。先生、本当に本当にごめんなさい。僕があの時、すぐに話してさえいれば‥)

先生が生きてさえいてくれれば、何度でも謝ることが出来る。土下座でも何でもして自分の気が済むまで謝るだろう。だが彼女はもういない。いくら謝りたくても、心の中で詫び後悔の涙を流すしかないのだ。死というものは絶対的に人と人とを引き離すもの、和範の後悔の念は彼がこれから一生背負っていかなければならないものとなった。そして和範が以前何をしたのか知ったにも拘わらず、彼に遠藤の母親の住所を教えるべきだと訴えた先生の娘さん‥そんな彼女の訴えを聞き入れて遠藤の母親の住所を知らせてくれた先生のご主人‥和範は改めて送られてきた手紙を抱き、二人の心に深々と頭を下げるのだった。
(有り難う‥感謝します。そして僕のこれからの生き方を、しっかり見ていて下さい。あなた方のお気持ちに必ず報いてみせます。先生も‥天国で見ていて下さい。)
気持ちが高ぶり、泣くまいと歯を食いしばっても自然と涙が溢れる。
[どうしたの?]
和範の様子を見て心配そうに尋ねる妻正代に、和範は黙ってその手紙を差し出した。その長い便箋に書かれた文章に静かに目を通す妻の傍らで、和範は再び同じ人物に宛てて今度は決して宛先不明で戻ってはこないだろう手紙を書き始めるのだった。勿論相手にしてくれない可能性は高い。無視され返事など来ないことは和範も覚悟していた。だが自分は諦めない。何度でも手紙で謝罪し、直接会いに行って謝るつもりだ。心を尽くして謝れば、人は許されるものなのか‥やり直すことが出来るものなのか‥たとえ死という現実がそこに介在したとしても‥その答えは簡単に出せるものではない。だが自分は謝り続けなければならない。相手がどう思おうと‥和範は住所がわかった以上、すぐにでも飛んでいって遠藤の母親に会いたい心境だったが、彼が息子の死にどう関わったか知った彼女が和範の謝罪を受け入れてくれるかどうか勿論わかる筈もなかった。それでも自分は謝るだけ、そして今の有りのままの自分を見てもらうのだ。然しいきなり訪ねて行っては相手を戸惑わせることになりかねない。そう考えて前もって自分の思いを長い手紙に記して、ポストに投函したその翌日のことだった。和範は妻正代から、いきなり思いがけない話を聞かされたのである。

[長野へ引っ越す?いきなり何の話?]
[ごめんなさい。本当にいきなりで驚いただろうけど、私が遠藤君のお母さんが今暮らしておられる長野への引っ越しを考えたのは、本当に偶然なの。先生のご主人からのお手紙で、遠藤君のお母さんが長野にいることを知って、私は驚いたし同時に因縁めいたものを感じたわ。でも私があなたと二人で長野へ移って新しい生活を始めたいと思ったのは、実は私の従兄弟から長野で一緒に働かないかって誘われたからよ。]
[君の‥従兄弟‥?]
[ええ、実は従兄弟が脱サラして奥さんと共に長野の蓼科でペンションを始めることになったの。それであなたのことを話したらね、言ってくれたのよ。もし働く気があるなら、こちらに来て一緒にやらないかって‥ペンションの仕事もあるけど、彼無農薬の野菜も作っていて今は住んでる所で土地を借りて作ってるけど、移住して本格的にやるつもりなのよ。だから人手はいくらあっても足りないらしいの。][あっ‥]
[勿論農作業は肉体労働だし、働くといってもそう簡単なことではないと思うわ。今までずっとオフィスでデスクワークしてきたあなたには、相当荷が重いかもしれない。でもあなたはまだ若い。都会を離れて空気のいい田舎で、思いっきり汗をかいて働いてみるのもいいんじゃないかしら。私達の再出発として考えてみて‥それにあの子‥]
[あの子?もしかして、名村んちの周君のこと?]
[そう。周君っていうのよね、あの子‥あの子今週中には退院出来るんでしょう?あなた電話で田尻さんと話してたじゃないの。私はあなたと二人で名村君が立ち直って親子で暮らしていけるようになるまで、長野で働きながら是非周君の面倒を見たいの。勿論親になった経験のない私達にとっては、子供を育てるのは簡単なことじゃない。それはわかってる。でも従兄弟夫婦には三人の子供がいるの。年も近いから色々アドバイスしてくれると思うの。親としても頼れる存在だし。従兄弟夫婦にも相談したけど、私達が引き取ることに賛成してくれたわ。]
[もうそんなとこまで話が進んでるの?]

[ごめんなさい、勝手に話を進めて‥でも私の決心は固いわ。お願い、同意して‥私達の再出発の地を長野に決めて欲しいの。遠藤君のお母さんが住んでるし、いつでも会いに行ける。]
[だけど‥]
急な話に当然ながら戸惑う和範‥長野で新しい生活を始め、親友の子を引き取って育てるなんて‥和範は思った。妻はやはり、名村の子を引き取るのを諦めてはいなかったのだ。思ってもみなかった話を聞かされ考え込む夫に、正代は畳み掛けるように話を続けた。
[従兄弟からは私達が行かなければ他に人を雇わなければならないので、返事だけは急いでくれって前々から言われてたの。だからあなたがまだまだ大変な時だけど、今話さなければならないと思って‥私は自分の希望を前にあなたに話した。遠藤君のお母さんの住所が同じ長野だと聞いて、私は因縁めいたものを感じたし、より一層この道を進みたいと思った。私はあなたの償いにかける思いを決して軽く考えてる訳じゃないわ。でも私達にだって生活がある、私にだって望みはあるのよ。]
[望み‥?]
[そう‥]
静かに頷くと正代は、常々考えていた自分の願いを口にした。それは和範にとって思いがけない話だったが、然しそれほど驚きを覚えなかったのも事実だった。実際和範は妻がどんな望みを抱いていたのか、無意識のうちの自分は察知していたのかもしれないと思った。そんな夫を前に、妻は静かに話を続ける。

[私‥やっぱり子供が欲しいの。でも、絶対自分の血を分けた子供でなければ駄目だとは思っていない。血の繋がりも大事だろうけど、心の繋がりはもっと大切だと思うから‥世の中には、不幸な生い立ちで生まれてくる子が大勢いるわ。虐待されても子供には親は選べない。そんな不幸な境遇にある子供を私達が引き取り、独り立ちさせて送り出してあげるの。]
[えっ‥養子とかそういうんじゃなくて?]
[ええ、里親って聞いたことあるでしょう?役所に聞いてみたら、私達でも十分資格がありそうなのよ。仕事も始める予定だしね。勿論子供を育てるのは決して容易なことじゃない。不幸な境遇にいた子なら尚更だろうけど、それでも私はやりたいの。都会を離れて大自然の中で、子供達とぶつかりながら地に足をつけて生きていきたい。周君を私達が里親になったその最初の子にしたい。そして幸せにしてあげたい。私は心からそう思ってるわ。だからあなたが賛成してくれるなら、私の方から田尻さんに話そうと思ってるの。]
[正代‥]
語気を強めて訴える妻のその横顔には、何があっても怯まないという強く固い決意が滲み出ていた。自分が自らの過ちを償うために奔走する中で、妻はこんなことを考えていたのか‥和範は以前から大人しいというイメージしか持ってこなかった正代の、女性としての芯の強さを改めて思い知らされたような気がした。
(そういえば‥)
心底子供を欲しがっていた頃から、正代は虐待など子供を巡る様々な事件にかなり気を尖らせていた。子供を虐待する親を鬼だと、憤慨してよくそう言ってたものだ。
(正代‥)

以前の和範なら、妻のこんな決意を聞いても多分反対していただろう。自分の子供なら喜んで育てるが、他人の子供など殆どといっていいくらい興味がなかった彼なのだ。虐待など子供の事件に心を痛める正代の傍らで、彼に必要なのは今働いている会社でいかに出世するか、いかに仕事をスピーディにそつなくこなし、自分というエリートの存在をアピールするかということだった。それは競争社会で生きてきた和範にとっては、極当たり前に抱く感情だったと言えよう。然し今は違う。そんな自分の仮面はかなぐり捨てて、新しい生き方を模索する時なのだ。エリートとしての誇りなど彼にとってはもうどうでもいいことだった。
(畑仕事‥農作業か‥俺に出来るかな?)
ぼんやり考える。自分は確かに、今まで肉体労働とは殆どといっていいくらい無縁だった。体力的に大丈夫だろうか‥迷いはあったが、かといって元の生活に戻るつもりはない。和範自身、エリートとしての出世コースに未練はなかった。
(よし、大変だろうがやってやろうじゃないか!そして里親のこともOKしてやろう。正代と自分達が育てることになる子供達‥周君だけじゃないだろう、そんな家族をしっかり守って長野で暮らしていこう!自分はまだ若い。そして健康で十分働ける。自分で自分の新たな人生を切り開くんだ!やるぞ!)
思えば自分に言い聞かせるまでもなく、和範の気持ちはもう既に決まっていたのかもしれない。和範は正代に、長野へ行ってその従兄弟の所で働くのに自分は異存はないし、周君を始め不幸な境遇にある子供を引き取って育てる里親になることにも賛成すると告げた。ただ自分にとって、最も大切な遠藤の遺族である母親への謝罪が済んでいない。その大切なことは働きながらも続けるつもりだと話した。正代はそんな夫の決意を受け止め、夫が自分の気持ちをしっかり汲み取って新生活を始めることに賛成してくれたことを本当に嬉しく思っていると、涙ながらに和範に感謝の言葉を伝えるのだった。

第四章 生きるということ

何もかもがいい方向に進んでいるように思えた。長野での新しい生活、子供が欲しいという妻の願いを間接的ながらも叶えられそうな状況にあること。仕事は厳しいだろうが、新しい生活に希望を見出だし和範は少し楽観的になりかけていた。だが現実はそう甘くはなかった。和範が出した遠藤の母親への手紙は、予想していた通り一週間経っても十日経っても一向に来なかったのである。和範はすぐにでも母親に会いに行きたい心境だったが、それよりも今は大切なことがあった。名村の息子の周君は、既に退院して今施設で暮らしている。償いは償いで和範がしなければならない大切なことだったが、それでも今自分達夫婦には先にやらなければならないことがある。自宅を引き払い長野へ引っ越す作業‥そして里親になる為の手続き‥様々なことを二人で一つ一つこなしていきながらも、和範の心には遠藤の母親から返事が来ないことに次第に焦りが生じていた。
(もう待てない。これ以上‥周君のことも疎かに出来ないが、一度行きたい。勿論すぐには会ってくれないだろうが、とにかく行かなければ‥)
そう思っていた矢先、ふと正代が早く周君を迎えに行ってあげたいと呟いた。先ず顔を覚えさせて、傷付いた幼い心を癒やす為の段階を踏まなければならない。正代は新しい生活が始まるまで、施設にいる周君に出来るだけ会いに行こうと思っていると夫に告げた。和範は思った。自分がこれから移り住もうと思っているのは奇しくも遠藤の母親が暮らしている同じ長野‥和範は妻の言う通り何か不思議な因縁というか、確かにそんな糸で繋がっているような気がした。そして彼は、とにかく一度遠藤の母親に会いに長野へ行くことを決心したのだった。同じ長野へ向かうということで、従兄弟と会って仕事や住む所を決める為に長野へ行く正代が心配なのか和範に同行したいと申し出た。和範は妻の言葉に感謝しつつ途中まで一緒に行くが、その後のことは自分の問題なので自分一人で向き合いたいと真剣な面持ちで答え、正代は不安そうな表情ながらも夫の意志を尊重し頷いてくれたのだった。

同じ電車でこれから新天地となる長野へ向かった二人だが、和範は駅で妻と別れると浪川先生の夫が教えてくれた住所を頼りに、遠藤の母親が住むその家をやっと探しあてた。そこは長野の県北にある町で、人家の疎らな寂れた集落だった。住んでいる人々も殆どが高齢者らしく、遠藤の母親が住む家はその中の古びた一軒家だった。家の前に立ち表札を確認すると自然に足が震えてきた和範だが、勇気を奮い起こして呼び鈴を押した。[はあーい!]
和範の予想とは裏腹にすぐに元気のいい声が聞こえてきて、奥から出てきたのは身なりがきちんとした初老の男性だった。[あっ‥あのう‥]
母親一人で暮らしているとばかり思っていた和範は、その男性の登場に少し戸惑って言葉に詰まった。するとその男は頭をかきながら口を開く。
[あっ‥いや、私はこの町の民生委員をしている者で、一人暮らしのここのおばあちゃんの様子を時々見に来てるんです。崎本といいます。おばあちゃんに何か?]
[あっ‥すみません、いきなり‥僕は原田和範といいます。この家の‥遠藤さんの亡くなった息子さんと中学の同級生だった者です。]
[原田‥和範‥原田‥]
取りあえず名乗らなければと口を開いた和範だったが、崎本というその男は和範の名前を聞いた途端、何故か怪訝な表情をして眉をひそめた。
[あっ‥あのう‥]
戸惑う和範に、民生委員だというその男は今度は思いがけず少し険しい表情で厳しい言葉を放つのだった。

[いや、他人に来た手紙を読むのはどうかと思われるかもしれないがね、私はハルさんとは十年来の付き合いで、ハルさんも私のことを信頼してくれとる。何日か前に私はハルさんに見せられたんだ。確か君からの手紙だった。迷ったがね‥ハルさんが是非読んでくれと言うもんだから目を通したんだよ。書かれていた通りだとすれば、君も随分酷い人間だね。エリートか何か知らないが‥ハルさんの息子さんが凍死しかねないような寒い場所に閉じ込められているのを知っていながら、黙って帰ってしまうなんて‥いくら中学生だったからって、君がしたことは許されることじゃないと思うよ。それで?今日は何しに来たの?直接謝りに来たの?]
いきなりの説教となったが、和範は躊躇することなく崎本の言葉をしっかり受け止め今の自分の思いを口にするのだった。今更遅すぎると非難されても自分は過去の過ちを後悔し謝りに来たこと‥その上で、自分はこれから同じ長野の蓼科で新しい生活を始めることにしていて、一度の謝罪で許されるとは勿論思っていないが、これからは何度も謝りに来ようと考えていることなどを告げた。和範の言葉を崎本というその男性は険しい表情のまま黙って聞いていたが、話している途中で不意に奥から声がした。声は小さくて和範に聞き取れるものではなかったが、崎本にはわかるらしくその声に応じてる様子が見てとれた。
[はい、あっ‥ハルさん、何だって?帰ってもらってくれ?そう‥そうだよね。]
崎本は奥に引っ込んでハルという名の遠藤の母親と話していたようだが、すぐに出てきて和範に帰るように告げた。
[折角来てくれたが、ハルさんは会いたくないそうだ。済まんが‥帰ってくれないか。]
[あっ‥あのう‥会うだけでも‥責められる覚悟は十分してきました。何としてもお会いして謝りたいんです。]
なおも食い下がる和範に、崎本は困ったような表情を見せて今度は少し柔らかな口調で口を開いた。

[確かに君の手紙はハルさんにはかなり衝撃的な内容だったそうだ。それでも‥君はその時まだ子供だった。ハルさんはなあ、ショックだったけど君のことを怒ってる訳じゃないと思うよ。十年以上付き合いのある私には彼女の気持ちがよくわかるんだ。とにかく、ハルさんはもう忘れたいんだよ。君に会えば、嫌でも亡くなった息子さんのことを思い出さなければならなくなる。それが怖いんだと思うわ。もう昔のことは忘れて心静かに暮らしているんだから、そっとしといてくれってそういうことだと思うわ。]
[はあ‥]
そういうふうに言われると、さすがに何も言えなくなる和範だった。寧ろ面と向かって罵倒された方が、よっぽど気持ちが楽だったのかもしれない。だが一度の訪問で彼の謝罪を受け入れてくれる筈もないのだ。和範は彼女が会ってくれるまでここに通い続けることになるだろうと、これからの日々に思いを巡らすのだった。するとまだ家の前から去ろうとしない和範に崎本は強硬に言い放つ。
[さっ、わかったらとっとと帰ってくれ!君に会うことはハルさんにとって苦痛でしかないんだ!今の君にハルさんを苦しめる権利などないんだから。とにかく、彼女をそっとしといてくれ。]
[でっ‥でも‥]
[そもそも君が謝りに来たのも、結局は自分の為じゃないのかい?今までのエリートとしての生き方を捨てて奥さんと新しい生活を始めようとしてるそうだが、その新しい生活を始めるにあたって自分の気持ちを切り換える為‥所詮は自己満足の為じゃないのかい?]
[いっ、いいえ‥それは違います。]
崎本の厳しい言葉を強く否定する和範‥必死に首を振る和範の悲痛な表情を見て、崎本は心が少し疼いたのか今度は柔らかな口調で続けるのだった。

[少々厳しいことを言い過ぎたのかもしれん、君はその時まだ子供だったんだよね。人の命の重みは、子供だった君にはよくわかっていなかったんだろう。ましてや君が閉じ込めた訳でもないしね。でもだからといって、ハルさんを困らせるようなことはしないでくれ。ハルさんは佳人君があの日体調が悪かったことに気付かず学校に行かせたことで、ずっと自分を責めて生きてきたんだ。息子の死を受け入れられるようになるまで、どれ程の時間がかかったと思う?何年もの歳月を経て、ハルさんはやっと心穏やかに暮らせるようになったんだ。そんなハルさんの心を今の生活を、今更掻き乱すような真似は頼むからしないでくれ‥]
そこまで言われると、さすがに今の和範には返す言葉がなかった。
[わかりました‥]
頭を下げてその場を去ろうとした和範だが、やはりこのまま帰る訳にもいかないと思い直しせめて遠藤の墓に参ることだけでも許してくれないかと、もう一度崎本に‥そしてその奥にいると思われるハルに向かって頼み込んだ。
[でもなあ‥]
[お願いします!]
必死に頭を下げる和範に根負けしたらしく、今度は崎本が渋っているらしいハルを説得してくれたのだった。
[ハルさん、あんたの気持ちは晴れないだろうが墓参りぐらいさせてあげようよ。折角来てくれたんだから‥私が場所を教えてやる。あんたはそこにいていいから‥私が案内するから‥なあ、いいだろう?]
崎本は奥にいるハルを説得しようと言葉をかけているようだが、はきはきとした崎本の声とは対照的にハルという遠藤の母親の声は小さくて聞き取りにくく、和範には何と言ってるのか全くわからなかった。

待つことしか出来ない和範がそれでも辛抱強く待っていると、やっとハルの了解が出たらしく崎本はそのまま即座に和範を外へ連れ出した。そしてすぐ近所にあるハルの息子が眠る墓所へと和範を連れて行ってくれたのだった。そこはいくつかの墓石が並んでいる墓所の一角であり、和範は崎本が教えてくれた墓石に[遠藤佳人享年十五歳]と刻まれていたのを確かに目にした。ここだ‥和範はひざまずくと静かに手をつき、そして頭を地に擦り付けた。体が自然に震えてくる。自分はこの時を待っていたのだ。たとえ許されなくても、自分の償いは先ずこの土下座から始めなければならない。温かい血の通った人間として生まれ変わる為に、自分は今この場所にいるのだ。そう自覚した和範は、不意に遠藤がまだ生きていた頃彼に一度だけ見せたことのある、はにかむような笑顔が何故か鮮やかに思い出されて和範自身の心を締め付けるのだった。あの時遠藤は、和範が陰で自分のことをストレス解消のターゲットとして陰湿な眼差しで見ていることなど全く気付いていなかった。あの笑顔は何よりも彼が純粋無垢な人間であり、素直な心で和範を見ていた証拠、それなのに自分は‥自分という人間はなんということを‥取り返しのつかないことを自分はしてしまったんだ‥そこまで考えた時、堪らなくなった和範の目から涙が溢れた。
[ごめんな、ごめんな‥本当にごめんな‥謝るのにこんなに時間がかかったけど、俺今更償いようがないけど、謝るしかないんだ。本当にごめんな‥]
土下座したまま、和範は涙声で今は亡き遠藤に詫び続ける。そのまま彼の懺悔は、暫くいや永遠に続くかと思われた。

だがそのうちに、和範にこの場所を教えて一旦立ち去った筈の崎本が気になって戻って来たらしく、墓の前で土下座して泣いて詫びる和範の肩に手をかけ、今度は優しく声をかけてくれた。
[さあ、もういいから‥君の気持ちはわかったから泣くのはもうやめ。あんたが自分のしたことをどれだけ後悔して息子さんに詫びていたか、私がしっかり見届けた。あんたの気持ちに嘘はないと思う。私が見たことをハルさんにちゃんと話すから‥あんたの気持ちは十分わかったから‥ハルさんの息子さんにもしっかり伝わったと思うよ。だからもう泣くのは止めて‥なあ‥]
[はい、すみません‥]
崎本に優しく声をかけられて、和範はやっと落ち着きを取り戻した。そして涙を拭いて墓まで案内してくれたことを素直に崎本に感謝する。それに答えて崎本が口を開いた。
[もう忘れよ、なあ‥あんたも自分の生活があるんだし、勿論家族もおられるんだろう?あんたはあんたの人生を、これから間違いなく正しく生きていくこと‥それがハルさんや息子さんに対する、何よりの償いになると思うよ。わかったらもう帰りなさい。君の気持ちは私がハルさんに必ず伝えておくから。]
崎本に穏やかな口調で帰るように優しく促され、和範の心はまだ空白のままだったがその日はそのまま帰途についた。今はまだ、何も考えられない心境だった。それでも帰りの汽車の中で、和範はこれからのことを少しずつ考え始めていた。自分と妻は、これからハルさんが住んでいる同じ長野の蓼科で新しい生活を始めることになるのだ。しかも今までのような二人だけの生活ではなく、いずれ実子ではないが子供を迎えることになる。妻の正代は一人で奔走し、周君の里親になる手続きをほぼ済ませていた。田尻の話では、現在禁固十一ヶ月の刑が確定し服役している名村は、周君を里親として引き取って親子で新しい暮らしが始められるようになるまで面倒を見るという正代の申し出に全く異存はなく、和範夫婦には大変感謝しているという。そう聞かされた和範は、自分の償いも大切だが周君の里親としてしっかり生活を築いていくことも、決して疎かに出来ない大切なことなのだと改めて認識するのだった。

そしてその夜、帰宅した和範に妻の正代は長野での新しい住まいを決めてきたことを報告した。
[家、決めてきたの?]
[ええ‥ごめんなさい、勝手に決めちゃって‥でも急がなきゃいけなかったもんだから。候補は前もってあなたに見せておいたんだけど‥その中の‥ここに決めたわ。]
正代はそう言って、手にしていた家の間取りが書いてある紙を夫に渡した。更に彼女の話は続く。
[従兄弟の話ではペンションにも畑にも近いし、どちらの行き来もここが一番便利がいいらしいの。3DKでまあまあの広さだし、周君が来ても大丈夫なように庭が結構広いとこよ。思いっきり遊べるわ。あとはこの家を売ってローンがどれだけ減らせるかってことだけど‥]
夫を励まそうとわざと明るく話す正代に、和範は優しく微笑んで口を開いた。和範が遠藤の母親に会いに行ったことについて、どうだったのかその様子を訊きたい気持ちを懸命に堪えている妻に、和範はあくまで優しく話しかけるのだった。
[家はこれでいいと思うよ。一人で大変だったろう。君は君で色々大変なのに気を使わせてしまって済まない。だからじゃないけど、今日のこと有りのままに話すよ。家には行ったんだけど、遠藤君の母親には結局会えなかった。会ってくれなかった‥民生委員の崎本さんという人の口添えで、遠藤君のお墓には参ることが出来たけどね。]
[顔を出してくれなかったのね。やっぱり怒って?会いたくないって?]
心配そうな表情を見せる妻に、和範はそれでも笑顔を崩さずに答えた。
[怒るというより、僕と会うと辛いことをどうしても思い出してしまい兼ねない。それが嫌だから会いたくないって‥丁度民生委員の崎本さんて方が来てらしてね。彼がハルさんの意志を仲介して僕に伝えてくれたんだ。]
[ハルさん?]

[遠藤君のお母さんの名前だよ。その民生委員の崎本さんに言われたんだ。ハルさんが息子さんの死を受け入れられるようになるまでどれだけの時間がかかったと思う?やっと事実として受け入れて心静かに暮られるようになったんだから、今更ハルさんに会って彼女の心を掻き乱すようなことはしないでくれってね。つまり結果はどうあれ僕に会うこと事態が、亡くなった遠藤君を思い出すことに繋がってしまう。それが嫌だから会いたくないって‥そう言われると、僕も何も言えなくなってしまって‥]
話を聞いた正代は、頷きながら何ともいえない表情を見せた。そんな妻に和範は、暗い雰囲気を吹き飛ばすように元気に声をかける。
[まあ、人を介してだけど話が出来た。それだけでも貴重な一歩だよ。焦っちゃ駄目だと思う。時間はかかるだろうが、僕は諦めない。君は心配しなくていいよ。今の僕にとっては、新しい生活を築いていくことも償いと同じくらい大切なことだ。家族である君とこれから預かることになる周君、そして周君だけでなくこの先預かることになるであろう子供達への責任がある。里親なんて中途半端な気持ちでとてもやれることじゃない。これから始める仕事でも、当然だが僕はまだまだ素人だ。だから死に物狂いで頑張るよ、頑張るしかないからね。だけど楽しいこともきついことと同じくらいある筈だ。素晴らしい大自然の中で汗水流して働くことが、いつしか喜びに変わっていけばいいと思っている。一度や二度会いに行ったからってすぐにどうなるもんじゃない。大事なのは誠意を見せることだ。それを続けることだ。だから、自分が行ける範囲で行こうと思ってる。とにかく‥そんな日々を積み重ねるしかないんだ。]
[毎年‥行くの?]

[ああ、思えば同じ長野へ移り住むことになったのも、何かの縁かもしれない。時には自分が作った野菜を持って行きながら、ひたすら会ってくれるのを待とうと思う。ハルさんが息子さんの死を受け入れることが出来るようになるまで、何十年もかかったそうだ。だから僕の謝罪を受け入れてくれるまで、同じくらい時間がかかってもそれは当然だろう。焦っては駄目だ。大丈夫だよ、仕事そして家族‥君と周君‥里親としてこれから預かることになる子供達のことを疎かにするつもりは毛頭ない。だけど僕の償いにはどうしても時間がかかる。こればっかりはどうすることも出来ないんだ。わかってくれるね?]
[ええ‥]最初は少し戸惑いの表情を見せていた正代だったが、夫の堅い決意を聞いてどうやら迷いも吹き飛んだらしい。彼女は和範の目を見ながらしっかり頷いた。そしていつものように夫を優しく励ましてくれるのだった。
[あなたを信じてる。これからまだまだ色々大変なことがあるだろうけど、二人で頑張って乗り越えていきましょう。今のあなたなら大丈夫、あなた本当に変わったもの‥本来のあなたにやっとなれたのかもしれない。人として逞しくなったというか‥立派になったと思うわ。]
[おいおい、おだてても何も出ないぞ。]
[本当よ。世の中には人を踏みにじり傷つけておいて、何とも思わず平気で生きてる人間がまだまだ沢山いるわ。人を殺しておいて罪を償おうとしない人もいる。あなたが子供の頃したことは、確かに人を傷つける悪いことだったと思う。でも、人はそれでもやり直すことが出来る。犯した罪を悔い改め立ち直ることが出来るのよ。あなたはその最たる実践者だと思うわ。あなたはあなたの信じる道を進めばいい。私はあなたを信じてる。]
[有り難う‥]

自分を励ましてくれる妻の力強い言葉を得て、和範の心には今までの何倍もの勇気が湧いてくるようだった。考えてみれば勿論正代にも迷いがあった筈、だがそれでも自分を信じついてきてくれたのだ。和範は今、エリートとして競争社会を生きてきた自分から別の新たな人生を歩んでいく自分になったのをしっかり自覚していた。
二人の心は揺るぎない決意に満ちたものとなり、その絆は何者にもかえがたいくらい強固なものとなったが、二人が横浜を離れ長野へ引っ越して新しい生活を始めることについて、理解を得なければならない人物がまだ二人いた。それは他ならぬ和範の両親だった。一応正代の従兄弟が脱サラして長野の蓼科でペンションを始めるので、それを手伝いながら畑仕事もこなして長野で暮らしていくつもりだという意向を和範は手紙では伝えていたのだが、まだ両親からは何の返事も返ってきてはいなかった。やっぱり反対してるんだろうな‥和範は両親のことを考えると、気が重くなってしまうのをどうすることも出来なかった。
そうこうしているうちにも、引っ越しの準備は着実に進んでいく。準備に追われて多忙な毎日を送っていた和範だが、それでも正代と相談してこの日に必ずといった日を決め両親を訪ねることにしていた。返事がこなくてもその日は必ず親に会い、自分達の気持ちを伝え二人を説得する。わかってくれなくても、今の自分の決意はしっかり話すつもりだった。だがそんなある日、諦めていた親からの手紙が来た。それは父からのものだった。封を切る和範は、やはり緊張するのをどうすることも出来なかった。
父からの手紙には先ず新しい生活を始める息子夫婦への激励の言葉が綴られており、そして同時に複雑な親の心情も所々に吐露されていた。良かった‥賛成とまではいかないまでも、決して反対という訳ではないらしい。その事についてはホッとした和範だが、母について書かれてある部分はやはり彼にとって気が重くなる内容だった。

和範の母喜美子は仕事を辞めエリートとしての人生を捨てて、その上自分達の側から離れようとしている息子の心がなかなか理解出来ないらしく、父知徳に暇さえあればこんな筈ではなかったと愚痴っているという。だがそんな母親に反して父はあくまで冷静だった。以前会いに来てくれた時言ってくれた言葉‥お前のやろうとしていることは人として正しい道だと思う。そして自分の信じる道を歩むようにと言ってくれた時の父となんら変わりなく、長野へ移り住み新しい生活を始めることについても、寂しがってはいるものの反面応援してくれてるようだった。ただ母喜美子については、和範が今直接会って話すのは却って母の心をかき乱し態度を硬化させる恐れがある。自分がじっくり説得するので今少し時間をくれるようにと、父は手紙に記していた。その上で引っ越しの挨拶をしにこちらに来ようと思ってるかもしれないが、今は自分達に会わずに旅立った方がいいと、手紙にはそこまで記してあった。和範はここまで書いてくれた父の心情を思うと、有り難く思うと同時に申し訳なく思えて切ないまでに胸が締め付けられるのだった。
(ごめんよ‥父さん‥)
和範は、心の中でしっかり父に詫びた。そして新しい生活をしっかり構築して、畑仕事で日焼けして逞しくなった体で作った野菜などを手土産に必ず笑顔で会いにいこう。父の不安も母の苛立ちも全て払拭出来るようなとてつもない笑顔を満面にたたえて必ず両親に会いに行こうと、そう堅く心に誓うのだった。

一方弟の祐一はやはり和範が長野へ引っ越すことには強く反対していて、引っ越しを思い止まり今まで通り両親の近くで暮らすようにと説得する電話が、毎日かかってくる程だった。然し勿論和範夫婦の決意を翻らすことなど出来る筈もなく、母喜美子の愚痴は今度は主に夫ではなく弟の所に及んでいるらしい。弟の執拗な反対はそんな母の意志を反映するものであり、祐一からの電話は和範にとって頭の痛いものだった。それでも今は、どんなに反対されても説得するしかないのだ。そしてこの日も弟から電話があり、受話器を取った和範は祐一からの電話だと知ると、心ならずも親の面倒を押し付ける形になってしまうことに最初から頭を下げ、低姿勢で臨んだ。だがこの日の祐一の口調は、思いがけず今までにない程穏やかなものだった。
[引っ越しは来月の五日だったね。もうすぐじゃない。準備万端なの?]
[ああ、あと十日もないからな。ごめんよ、お前にも京子さんや子供達にも挨拶に行かなきゃと思ってるんだが忙しくて‥]
[僕達のことはいいよ、潤や初音なんか却って喜んでるんだから。]
[ええ?そうなのかい?]
[うん、長野に親戚が出来るなんて、これから遊びに行けるようになるから嬉しいって、二人とも厳禁なこと言ってるよ。京子だって自然豊かな所に住めて羨ましいって‥]
[そんなことを‥そう言えば潤も初音も大きくなっただろうな。幾つになった?]
ずっと会ってなかった甥や姪に思いを馳せて、ふと和範が尋ねる。そんな兄の問いかけに、祐一は和範が戸惑う程の明るい声で答えてくれた。
[潤は六つ、初音は四つ‥潤は来年小学生だよ。]
[そうか‥この前宮参りだったような気がしたが‥子供の成長は早いもんだな。二人にはいつでも遊びにおいでと、僕と正代は言ってたって伝えてくれ。京子さんにも宜しく言っといて‥]
[それで?]
[それでって?]

[お前は相変わらず、僕達が長野へ移り住むことについては反対なんだろう?何か、今日はやけに物静かな言い方だから却って怖いんだが‥]
和範は茶化すことなく今の心境を有りのままに伝えたのだが、返ってきたのは弟祐一の意外な言葉だった。
[心配しなくてもいい、もう反対はしないよ。兄さん達が決めたことだから。兄さん達でしっかりやっていけばいいと思う。大丈夫だよ。父さん達は僕がちゃんと面倒見るから‥]
[祐一‥?]
弟の意外な言葉を聞いて少なからず戸惑う兄に、祐一は静かに口を開いた。
[実は‥父さんに言われたんだ。兄さん達が歩こうとしてる道は決して平坦ではないけど、人として正しい道だ。だからお前もわかって応援してやってくれないかってね。それで僕は僕なりに考えたんだ。母さんの愚痴を何度も聞かされたせいもあるけど、何故僕が兄さん達の長野行きにあんなに反対していたか‥やっぱり歯痒い気持ちが強かったのかもしれないね。小さい頃から何をやらせても素晴らしいと誉められ続けて育った兄さんが、当然のように歩く筈だったエリート街道を捨てて全く別の‥素人の分野に飛び込んでいく‥何でそうなるんだという忸怩たる思いを抱いたのも事実だし、そんな兄さんの弟として育ちエリートの兄を持つ地味な弟という立場が、一転して自分が親を見なければならないんだという責任感‥幼い頃から比較されながら育ち、時には嫉妬に駆られた時もあった。そんな利口な兄を持った弟が、それでも自分の将来をエリートである兄貴に託せるならとそんな思いで生きてきたのに、その強力な後ろ楯が突然なくなってしまうんだという言い様のない不安感、こんなこと言っても兄貴にはぴんとこないだろうな。]
[祐一‥]

そんなふうに思っていたのか‥和範は今まで考えてもみなかった弟祐一の本音を聞かされて、驚くと同時に少し意外な気がした。何でも出来る優秀な兄を持った、平均より少し出来のいい弟‥あまり比較されて育ったという感覚は和範にはなかったが、弟は弟なりに複雑な思いを抱いて生きてきたのだ。それでも弟は複雑な思いを殆ど表に出すことなく、いつでも自分を頼りそして理解してくれる良き弟でいてくれた。今度も最初は反対したものの、結局父の言葉を受け入れて長野で新しい生活を始める兄夫婦を理解し応援しようとしてくれている。和範はそんな祐一の気持ちを有りがたく思い、優しく語りかけるのだった。
[ごめんな、でも心配しなくてもいい。離れてはしまうけど、父さん達のことは僕もちゃんと見るから。といっても生活が安定するまではどうしても迷惑かけてしまうけど、それでも出来る限りのことはするから‥]
[兄貴‥]
[それに今はお前の方が先輩だよ。これから親になる僕にとって、既に親であるお前の方が間違いなく先輩だ。学校の成績なんて関係ない。これから先子育てについては、わからないことを色々尋ねることになるかもしれないがその時は宜しくな。]
[子育て?兄さんも里親になる覚悟が出来たんだね。そういえば義姉さんに聞いたけど、兄貴が引き取ることになっている男の子、周君といったっけ?引っ越した翌日には迎えに行くんだろう?]
里親として不遇な境遇にある子供達を引き取り面倒を見る話は、当然祐一の耳にも入っていた。祐一はそのことについても最初は反対していたのだが、兄夫婦‥特に正代の強い熱意に押しきられて渋々賛成した経緯があった。和範はそんな弟の問いにしっかり頷く。

[うん、里親になることについては、ペンションのオーナーである佐伯夫婦も理解してくれてる。色々配慮してくれるそうだ。これは正代からの受け売りだけどな。]
[本当に無茶するよ、二人とも‥親の経験も無いくせに、いきなり恵まれない子の里親だなんて‥まあ義姉さんらしいといえば義姉さんらしいけどね。まあそれでも頼りになる人がすぐ近くにいるらしいから心配はしていない。佐伯さんって言ったっけ?その佐伯さんのご主人が義姉さんの従兄弟にあたる人なんでしょう?]
[ああ、そうだよ。子供が三人いるんだが、みんなアレルギーがあってね。特に下の二人のアレルギーがひどいらしいんだ。]
[アレルギー?アトピーなの?]
[それはよく知らないが、食べ物が原因だと正代が言ってた。だから随分食べ物には気を付けていたそうだが、都会に住んでいてはなかなか‥それで自然豊かな所で無農薬の野菜を作って、自給自足で暮らしていきたいという希望は前々から抱いていたそうだ。で‥やっと資金が貯まったんで脱サラして思い切って‥]
[本当に思い切ったよね、そのご主人も‥勿論兄さん達もそうだけど。まあこれからが大変だけど、二人で助け合って頑張っていってよ。特に企業戦士だった兄さんにとっては、これからは頭より体力勝負にになるからね。くれぐれも体だけは大切にね。そして義姉さんにも宜しく言っといて‥]
[わかった、有り難う。お前もみんなも元気でな。]
弟との長い電話を終えて受話器を置いた和範は、心からホッとした。父も弟も今は自分のことを心から理解して、応援してくれている。さすがに母親だけはまだまだ息子が選んだ道を納得することが出来ず、こんな筈ではなかったと嘆いているらしいが‥それでもそんな母の理解を得るのは、これからの自分の生き方にかかっているのだ。頑張らねば‥和範は新しい生活に新たな人生をかけることを堅く心に誓うのだった。

それから二人は慌ただしい日々を過ごし、やっと引っ越しの日を迎えた。電話では何度か話していたが、荷物の整理を終え挨拶に行った先で初めて会った佐伯夫婦の印象は何とも豪快なものだった。小学六年の長男、四年生の長女、二年生の次男と二つずつ違う三人の子供達も活発そのもので、騒ぎまくる子供達を怒鳴り声一つで静かにさせる夫婦の姿に、和範も正代も親の逞しさを改めて見せつけられたような気がした。夢のような時間‥でもこれは現実、この先の自分達の日常となるのだ。和範は自然に身が引き締まるのを感じた。ペンションのオーナーである佐伯夫婦の夫卓朗は百八十五センチの長身で、しかもがっちりとした体格の巨漢であり妻の美佐子も夫に負けず劣らずのふくよかな体型だった。その二人が和範達の前に立つと何かそれだけで圧倒されてしまいそうだが、その二人が喋り出すとすぐにその緊張感や更に彼等の体型からくる圧迫感も吹き飛んでしまう。とにかくよく笑う、明る過ぎる程明るい豪快な家族だった。長男の卓也長女の佳奈子、次男の智也もそんな両親に育てられたせいか、落ち込むということを知らず、小さい頃からアトピーや色々なアレルギーからくる様々な症状を苦痛に感じてる様子は思った程なかった。だがそれでも下の二人には首や手足など目に見える部分に発疹があ、本人や両親がそれを気にする様子は時々見受けられたものである。だがその暗い雰囲気を補って余りある明るさが、この家族には確かにあった。
和範が仕事を辞めエリートとしての道を捨ててまで人生をやり直すことにした経緯は、既に正代の口から卓朗に伝えてあったが、夫婦共に和範に会ってもその事については全く触れようとしなかった。
[まあとにかく頑張って!今はそれしか言えないっていうか‥みんなに頼っていいからね。僕はここのスタッフは一つの家族だと思っているから。]
[有り難うございます。まだまだ慣れるまで時間がかかると思いますが、とにかく頑張ります。]

多少なりとも緊張している夫と違って子供の頃から付き合いのある正代は、気軽に卓朗に話しかけるのだった。
[里親になることについては、卓朗さん達にも迷惑をかけることになるかもしれない。悪いと思ってるわ。でもやりたいの、里親になりたいのよ。]
[全然迷惑だなんて思ってないよ。正ちゃんの気持ちは素晴らしいと思ってる。うちには腕白盛りの子供達がいるし頼りになるスタッフもいる。いい兄弟になると思うしみんなで育てていけばいいから。]
夫の言葉に妻の美佐子も相槌を打つ。
[そうよ、子供は子供同士通じるものよ。いいお兄ちゃんとお姉ちゃんがいるから、私達みんなで親になればいい。そうやってやっていこう、ねえ!]
[有り難う、美佐子さん‥]
緊張の時が過ぎ佐伯夫婦との対面を終え帰宅した和範夫婦は、次の日から新たな生活が始まるというその夜、二人でワインを開け新たな人生の門出を静かに祝った。
[乾杯‥でいいのかな?]
遠藤の母親であるハルさんのことを思いつい躊躇ってしまう和範に、正代は力強く答える。
[乾杯でいいのよ。私達の為にも‥卓朗さん家族の為にも‥そして私達がこれから育てることになる、周君や未来の子供達の為にも‥]
[そう、そうだな。]
頷く夫に、正代はオーナー夫婦の印象を早速尋ねた。
[ところで卓朗さん家族をどう思った?明るい家族でしょう?]
[確かに親の逞しさを見せつけられた気がしたな。豪快な人達だ。圧倒されたというか‥]
[それは内面的にも外面的にも‥?]
[そう‥失礼かとも思ったが‥]

思わず苦笑する和範‥つられて正代も笑顔を見せる。妻の存在‥そして励ましが、今の和範にとって何よりも頼もしかった。そして翌日には早速、何よりも大切な里親としての最初の仕事が待っていた。名村の息子である周を里子として引き取るのだ。二人は、周君が暮らしている施設へ彼を引き取りに向かった。里親になる手続きは、正代が奔走して殆ど一人で済ませていた。勿論和範も請われて二度ほど同行したことはあったが‥和範達は職員に案内されて周君に対面する。
[周君、元気だった?]
正代は何度も面会に来ていたので、対面時も緊張はなく対応も慣れたものだったが、眠ってる時に数度会っただけで起きてる時の幼子に会うのは初めての和範にとっては、当然のごとく緊張の連続だった。正代に促されて幼子に手を差し伸べたものの、恐怖の表情を見せ泣き声を上げる幼子を、和範は戸惑って見つめるしかなかった。するとそんな和範の不安を察したのか職員が徐に口を開く。
[心配しなくてもいいですよ。奥さんはよくご存じですが、この子は特に大人の男性を怖がるんです。何ヵ月も共に暮らしている我々職員でさえ未だに怖がるんですから、殆ど初対面のあなたを怖がるのは仕方のないことなんです。]
[やはり‥虐待された後遺症ですか?]
こんなに幼い子供が既に誰にも癒せない程の傷を心に深く負っている。そう感じた和範は、自分を見て泣き出す子供に心を痛めると共に、今まで感じたことのない程の愛しさを募らせて尋ねた。
[そうよ。]
職員に代わって正代が即答する。母になったことのない彼女だが、既にまるで周君の母親であるかのような錯覚を和範が覚えるような雰囲気を持っていた。更に彼女の言葉は続く。

[ここに来た時かろうじて女性の職員には反応してくれたそうだけど、男性には全く駄目だったそうよ。多分父親からは暴力、母親は最初は自分を庇ってくれてたんだろうけど次第に庇ってくれなくなり、そのうち母親からも育児放棄という虐待を受けるようになっていったんでしょうね。あの子の目には、大人の男の人は自分に暴力を奮うだけの存在‥そんな風にしか映らなくなったんだと思うわ。ここ数日で私にもやっと心を開いてくれるようになったけど、それでもまだまだみたい。脅すつもりはないけど、道はなかなか険しいわよ。でも私達ならやれると思うわ。]
妻の冷静な言葉は、かえって和範の心に火をつける結果となった。
[大丈夫、僕も前しか向かない。何事にも逃げることなく真っ正面から向き合おうと心に誓ってる。新しく始める仕事にも‥そして初めての子育てにも‥]
[あなた‥]
周君との対面に戸惑いはあったが、和範の心には今までにない強い決意がみなぎっていた。和範は幼い子供を初めて見た時の自分の心情を、妻に余すところなく吐露する。
[周君に泣かれて困ったけど、自分でも驚く程この子が愛しく思えてね。昔君が子供を欲しがった時、子供なんて煩わしいだけどこが可愛いんだろうって思っていた頃とは大違いだ。今は、この子の為なら何でもしてあげたいし何とか笑顔を取り戻してあげたい。本当に‥昔の僕とは大違いだね。]
[有り難う、あなた‥]
思わず苦笑する夫を妻は優しく見つめた。確かに今の和範には、この先どんな困難が待ち構えていたとしてもそれを跳ね返して余りある強い信念があった。然し里親としてのスタートは、実は二人が考えていた程困難なものではなかったのである。

[子供は、子供同士が一番ってことか‥]
周君を連れて帰り長野での新しい生活が始まってから一月近く経ち、慣れない農作業に精を出していた和範は、佐伯夫婦の三人の子供達が周君を実の弟のように可愛がって面倒を見てくれているのを正代から聞かされて、改めて強くそう感じた。家では里親ではあるが、和範夫婦が精一杯の愛情で接し、近くにはいつも遊んでくれる優しいお兄ちゃんやお姉ちゃんがいる。オープンしたペンションのスタッフも同様で、三人暮らしというより大所帯で生活しみんなで子供達を育てながら暮らしているという感じだった。和範はペンション所有の畑でオーナー夫婦や他のスタッフと共に、特に無農薬の野菜作りを手掛け更にスタッフとして接客業もこなす。仕事には慣れたもののさすがに最初の数日間は慣れない畑仕事で体が痛くなり、湿布が手離せなくなったものだった。だがその時期も過ぎると次第に体も慣れてきて、畑仕事もペンションでの接客業もそつなくこなすことが出来るようになってきた。といっても無農薬で野菜を作るというのは勿論簡単なことではなく、他のスタッフと共に試行錯誤を重ねながら悪戦苦闘する毎日だった。そんな中でも周君が少しずつ和範にもなついてくれるようになり、可愛らしい笑顔を和範夫婦や周囲の人達に見せてくれるようになったのは、彼にとって最も嬉しく癒やされることだった。何よりも年の近い子供達がすぐ近くにいるというのが周君の心のリハビリに最適だったらしく、子供達と接しているうちに強張っていた表情も少しずつ緩み、子供らしい可愛らしい笑顔が少しずつ見られるようになったのだった。

周君が笑顔を見せるようになって心からホッとしている正代は、それが自分達だけの力ではなくこの環境の成せるわざだということをしっかり自覚して、佐伯夫人に頭を下げるのだった。
[すみません、里親になるって決めたのは私達なのに子供のことではずっとお世話になりっぱなしで‥]
ひたすら恐縮する正代に、夫人は優しく答える。
[気にしないで、正代さん。子供はみんなで育てた方がいいの。みんなで面倒を見てみんなで可愛がってみんなで叱った方がいいのよ。昔は何処でもそうだったんだから‥今の社会は閉鎖的な家庭環境だから、色々問題も起こるんじゃないかって私は思ってるわ。まあ様々な事情もあるから一概には言えないかもしれないけどね。]
[そうですね‥]
近くで二人の会話を聞いていた和範は、みんなで育てるべきという夫人の言葉に正に子育ての真髄を見た思いがした。共同生活の中で培われる協調性や責任感など、ここは確かに大切なことを教える場所としては最適な空間なのだ。和範はここで働きながら里親としてしっかり頑張って暮らしていこうと改めて心に堅く誓うのだった。周君は、最近やっと和範や他の大人の男性にも泣かずに抱かれるようになってきていた。初めて周君を抱いた時、涙を堪えながら腕の中で自分を見つめる幼い瞳‥そして胸の上で息づく幼い命を和範はたとえようもなくいとおしいと思った。それは彼が今まで一度も味わったことのなかった不思議な感情‥多分これが親心というものだろう。と同時に、同じ命を自分は何年も何十年も軽く考えていたのだというその現実が、今更ながら身に染みて重く感じられて和範は自分の罪の深さを改めて痛感するのだった。
(謝るしかない、何年かかっても‥ハルさんが許してくれるその日まで‥)

和範はしっかり覚悟を決め、新しい生活を毎日汗水流して頑張るのだった。畑で農作物を作りながらペンションのスタッフとしても働き、周君を始め不遇な環境にある子供達の里親になって子供達を幸せな環境の元で育てていく。ハルさんの所へは年に数回目の回るような忙しさの中、何とか時間を作って訪ねて行ったが、やはり会ってはもらえなかった。他のスタッフに迷惑をかけるわけにはいかないのでしょっちゅう出掛けることは出来なかったが、それでもオーナー夫婦には事情を話しているのでハルさんの元へは足しげく通った。居留守を使われたり本当に出掛けていたり会えない理由はどちらかだったが、それでもハルさんらしい女性を外で何度か見かけたことがある。和範は思いきって声をかけたが、そのハルさんではないかと思える人物は何も答えずに彼の前から去った。だがそれでも和範は焦ることなく、黙々と彼女の家に通い続け時には自分が作った農作物を家の玄関にそっと置いて帰ったりもしていた。
そんな生活が続き、和範夫婦が長野へ移住して一年ちょっと過ぎた頃だった。周君の父親である名村が刑期を終え出所した。名村の弁護士である田尻から予め出所の日時は知らされていたのだが、和範は喜ぶべきことと歓迎する一方複雑な気持ちになるのをどうすることも出来なかった。やっとここでの生活にも慣れて笑顔を取り戻してくれた周君が、今父親の顔を見たら昔の記憶が蘇ってしまうのではないか‥辛い思いをするのではないか‥正しく周君の現在の父親そのものである和範はついそう考えてしまい、不安な気持ちになるのをどうすることも出来なかった。だが妻の正代は、そんな不安がる夫を叱りつけるようにしっかり声をかける。
[そんなことじゃ駄目よ、あなた‥しっかりしなきゃ駄目。周君だけじゃない。私達は里親として、これから不遇な環境にある子供達を引き取って育てていくって決めたんじゃない。だったら名村君とこのような親子の対面は、多分これから何度も目にしていくことなのよ。修羅場だって目にすることがあるかもしれない。でも親子がうまく暮らしていけるようにしっかりサポートしていくのが、里親である私達の役目なの。わかるわね?]
[うん、わかってる。わかってるけど‥]

口ごもる和範に、正代は今度は少し口調を緩めて優しく続けた。
[あなたが不安がるのも無理ないと思うわ。あなたがどれだけ周君のことを思ってるか‥今のあなたは本当に周の父親だもの、でも私は今の名村君のことも信じるべきだと思うの。]
[名村のことを?]
[ええ、聞いたわよ。田尻さんが太鼓判を押してたじゃない。名村君は心を入れ替えて出てくる。絶対に大丈夫だって‥これからは周の父親としてしっかり頑張って生きていくって、そう約束してくれたって‥]
[うん‥そうだな‥]
正代の言うことは最もだった。和範も名村を信じようと思った。然しいざ名村が出所して息子である周君に会いに来る日が近づくと、思いがけない事態が和範夫婦を待っていた。それは実は和範自身のふとした働きかけによるものであったが、夫婦に喜ぶべき結果をもたらしてくれたのだった。
妻には勿論親族にも見放されていた名村が、いくら本人がやる気を出したとしても、幼い息子を抱え一からやり直すのはそう容易なことではなかった。和範から彼が新しくオープンするペンションのスタッフとして働くことを聞かされていた田尻は、名村が出所する時期にあわせて独断でオーナーである佐伯夫婦に手紙を書き、周の父親をペンションで働かせてくれないかと頼み込んだのである。田尻がそういう行動を取った背景には、実は名村がもし一からやり直す為に頑張って働く気持ちがあるのならここでもいいのではないかという、そんな和範の一言があったからだった。田尻の手紙を読んだ佐伯夫婦は、田尻を介して直接名村と手紙のやりとりをし、決して楽な仕事ではないが精一杯頑張る気持ちがあるのならそこを出た後長野へ来るようにと告げた。

その手紙を読んだ名村は勿論一から頑張ってやり直すことを誓い、オーナー夫婦の快諾を得たのだった。その経緯を田尻から聞いた和範は、以外なことの成りゆきに驚いたがそれでも名村の気持ちに些かの迷いも無いと思うとオーナー夫妻に進言した。かくして名村は、和範と同じようにペンションのスタッフとして畑仕事にも従事して働きながら、長野で息子と共に暮らすことになったのである。
(これで周と別れずに済む‥あの子の側にいてあの子の成長を見守っていられる。)
名村が自分達と共に働くことになったのを知った和範は、驚くよりもこれで周と離れずに済んだことの方が嬉しくホッとしたというのが本心だった。
[本当にいいんですか?僕達だけじゃなく名村までお世話になって‥]
名村がいよいよ長野へ来るという前日、和範はオーナーの佐伯氏を訪ね頭を下げて尋ねた。すると気さくなオーナーは明るい声で答える。だがその言葉には優しさだけでなく、当然厳しさも含まれていた。
[いいよ、彼の意欲は十分感じたから。でも勿論頑張るのは最低条件、仕事の上での甘えは許さない。頑張らなかったら容赦なく追い出すからね。勿論お父さんだけだけど‥]
[大丈夫です。名村からは今まで手紙が何通も来てるけど、どれも周と早くやり直したいやり直すんだという気概に満ち溢れたものばかりでした。彼は必ず立ち直ってくれます。ここで‥父親としても‥]
[ああ、期待してるよ。君にも‥名村君にも‥]
口では厳しいことを言いながらも、佐伯氏の和範を見つめる眼差しはどこまでも温かく優しさに溢れたものだった。

そして翌日、出所したその足で長野へやって来た名村と周の久々の親子の対面は、皆が案じた通り周の大泣きによって一分ともたなかった。泣きながら正代の腕にしがみつき離れようとしない息子を、戸惑いつつ見つめる名村の様子には、それでも以前と違う父親としての決意が感じられ和範は二人が親子の絆を取り戻すことは出来るし、その日はそう遠くはないだろうと確信したのだった。
名村は暫くペンションに住み込みという形で働き、周はこれまで通り和範夫婦の自宅とペンションを行き来しながら暮らすという形になったが、そのうち周が父親に慣れてもう大丈夫だと思えるようになったら、父親と二人家を借りて暮らすことになるだろう。その日は必ず来る。和範は思った。大丈夫、このペンションで働くみんなが一つのファミリーなのだ。そして名村もそのファミリーの一員となる。働き始めた名村の頑張りは素晴らしく、和範も正代も名村親子についてはもうそんなに心配する必要はないだろうとそう思えるようになっていた。だが、初めての子育ての余韻に浸っている時間は二人にはなかった。和範達には周君はいるものの、次の子を預かってくれないかといういう依頼がきていたのである。正代は和範の了解を得ると承諾の返事をした。そして今度は五歳になる女の子を預かることになった。何でも聞けば今度は家業の倒産で一家離散し、両親は共に幼い一人娘を残して行方不明だという。面倒を見るつもりの母方の祖父母は、今祖父が入院していてどうしても孫を引き取れない状況にあった。それで同じ長野県内で里親として登録している和範夫婦の元へ、祖父母が面倒を見れるようになるまで預かってくれないかという依頼がきたのである。
[女の子か‥周が男で今度は女の子‥両親の行方はやっぱりわからないの?]
[ええ‥]

[まさか、自殺ってことは‥?]
[それは無いと思うわ。担当の職員の方から聞いたけど、結構若い今時の親御さんでね。そこまで深刻に考えてる風でもなかったようなことを言ってたわ。結局何もかも捨ててやり直したかったんじゃないかって、そういう人もいたそうよ。]
[子供まで捨てて‥?]
[わからないけどこれ以上は私達が考えることじゃないわ。今私達がやるべきことは、これから預かる女の子を私達が出来る最高の環境で育てることよ。]
[うん、そうだね!その通りだ‥]
妻の言葉に強く頷く和範‥二人は意識しなくとも里親としての自覚に芽生え、誰よりもしっかりした親らしい親にいつの間にか成長していたのである。そして明日はその女の子がやって来るという前日の夜、思いがけなく名村が和範宅へやって来た。和範は不意に訪ねて来た名村に驚いたが、久々に酒を酌み交わしながら言葉を交わした。彼と話すのは彼が初めてここにやって来た時以来で、その時は歓迎会を兼ねてスタッフみんなでお酒を飲んだのだが、二人だけで酒を酌み交わすのは初めてだった。
[おう、どうした?]
思いがけない名村の来訪に驚く和範‥すると名村はビール数本を手にして、少し照れながら口を開いた。
[いや、明日は遅番の仕事でそう早く起きなくてもいいもんだから、今夜は原田君と飲みたくて‥迷惑かなあ‥?]
遠慮がちに口を開く名村に、和範は相手を包み込むような大きな声で優しく答える。

[原田君か‥呼び捨てでいいよ。今は一緒に働いている仲間だし、君は何より可愛い周の父親だ。僕も今まで通り呼び捨てでいくから。君もそうしてくれ。]
[わかった‥]
[さあさあ、そうと決まったら飲もう。僕も君と話したい。]
和範の言葉に静かに笑みを浮かべる名村‥そして二人は、少しのつまみとビール瓶とコップをテーブルに置くと名村が徐に口を開いた。
[周のことについては、本当に感謝している。あの子が子供らしい笑顔を見せられるようになったのも、みんな君達やここのスタッフの方々のお陰だ。その上、前科者である僕まで受け入れてくれた。みんなにも戸惑いがあっただろうに‥]
[いや、みんな汗を流して働く人間に白い目を向けるようなそういう連中じゃない。君のことをしっかり受け入れてくれてるよ。]
[有り難う。そのうちに二人で住むようになると思うが、それでも周は僕だけの子じゃない。君や正代さんの子でもあり、ここのスタッフ全員の子なんだとあの子の姿を見てそう痛感したよ。]
名村のしみじみとした言葉に和範も頷き口を開く。
[そうだよ。何せ周は僕達が里親になる切っ掛けになった子だし、里親になって初めて面倒を見た子だ。だが実際は僕達だけで育てたんじゃない。みんなで面倒を見てみんなで育ててきた子だ。そして今度来ることになった子もその後面倒を見ることになる子も、みんなここのペンションで育ったスタッフみんなの子になるんだ。]
和範の言葉に、名村は頷きながら感心したように答える。

[みんなの子か‥子供の成長にとっては、確かにここは最適な環境といえるのかもしれないな。それにしても君も変わったなあ‥あのいつも颯爽としてたエリートが、今や汗にまみれて毎日土と格闘しているなんて‥]
名村の言葉に和範は思わず苦笑し、そして穏やかに答えるのだった。
[大分慣れたよ。そしてあの頃より随分逞しくなった‥]
[オーナーが君のこと誉めてたよ。さすがに頭がいいって‥経営のノウハウも知ってるから、随分助かってるって。無農薬野菜を作ることについても、かなり勉強してるそうじゃないか‥]
[いや、農業については僕はまだまだ素人だよ。]
謙遜する和範に、名村は今度は真剣な表情で問い掛けた。
[こんなこと訊くべきじゃないかもしれないけど、後悔は‥してないのかい?]
[えっ‥?]
不意に思いがけないことを聞かれて、和範は名村を見る。すると名村は、何ともいえない複雑な表情で話を続けた。
[遠藤が亡くなったのはショックだったけど、君が直接彼を閉じ込めた訳じゃない。責められるべきは、閉じ込めた張本人である僕達だ。だのにその‥償う為に仕事を辞め、出世まで棒に振って人生をやり直すなんて、ストレートに訊くけど後悔はしてないの?]
[していない。]
和範は名村の問いを、即座にきっぱり否定した。今の和範に迷いなどある筈もなかった。そして彼は、しっかりした口調で続ける。
[僕は、今のこの生活に十分満足してるよ。朝起きてからお日様の下で汗だくになって働き、夜は晩酌を楽しみつつ家族と寛いで、休みには子供や仲間達と大自然を満喫して過ごす。自分はこの上ない幸せ者だと思えてね。ただ遠藤君の母親であるハルさんには、まだ会えてない。償いは終わった訳ではないんだ。]

[ハルさん‥遠藤君の母親はハルさんっていうのか‥彼の遺族に君はまだ会いに行ってるんだ‥]
和範が遠藤の遺族に謝罪する為に相手の家に通っていることを知り、名村の表情にはやはり戸惑いの色が浮かんだ。それはそうだろう。名村達悪がき四人組が遠藤を閉じ込めた張本人なのだから‥すぐに鍵を開けたが不運が重なり結果的に彼は亡くなってしまった。その事が切っ掛けで彼は精神的に不安定になり、道を踏み外してしまったといえる。名村が精神的に完全に立ち直れているか不安がある以上触れてはいけない話題かもしれなかったが、それでも和範は敢えて話を続けた。
[ハルさんの家には、年に数回自分で作った野菜を持って行ってるがなかなか会ってくれない。でも、それは仕方のないことだと思ってる。ハルさんが息子の死を受け入れられるようになるまで、十数年もかかったそうだ。だから彼女が僕の謝罪を受け入れ会ってくれるようになるまで、同じくらい時間がかかるのは当然のことだと思う。僕は、ハルさんが許してくれるまで決して諦めない。僕は僕の信じる道を歩こうと思う。実際そうしてる。ハルさんに対しても仕事についても、里親としてこれから預かることになる子供達に対しても、責任を持って行動し生きていくつもりだ。]
和範の決意を聞いて、名村は複雑な表情を見せた。
[立派だよ、君は‥でも僕は‥僕はどうすればいいんだろう?]
名村は自分の取るべき道に迷い、堪らなくなったのか思わず和範に問い掛ける。然し和範は動じることなく、そんな名村に対し自分の思いをしっかり口にするのだった。
[僕と同じようにハルさんに謝罪すべきだと思ったら、僕と同じようにハルさんの所へ時間を作って通うしかないよ。それは誰でもない。君が決めることだ。]
[うん‥]
まだ戸惑いの色が消えない名村に、和範は更に諭すように続ける。

[周の父親として新たな気持ちでやり直すと決めたのなら、君自身がしっかり考え自分で判断し、そして成すべきことを成す。大事なのは君が君の人生を悔いのないように誠実に歩くことだ。僕はそう思うしそれしか言えない。]
和範の助言に名村は暫く考え込んでいたが、やがてゆっくり頷いた。
[決めた!僕も行くよ、謝りに‥今は仕事を覚えるのに精一杯で余裕がないけど、そのうちに時間を作って君に住所を教えてもらって‥]
[ああ、わかった。]
名村の言葉に安堵して頷く和範に笑顔を見せると、遠藤に対する思いを静かに口にした。それは当時エリートで名村達の立場とは程遠かった和範にとっては少し意外なものだった。
[僕は遠藤をどうして僕達がいじめたのか、刑期が終わるまでずっと考えてた。君が警察に来て、僕が立ち直る切っ掛けを与えてくれてからずっとね。僕達は大人しくてあまりみんなの中に入っていけなかったあいつに、或いはジレンマを覚えていたのかもしれない。]
[ジレンマ‥?]
[ああ、あいつは僕達落ちこぼれと違ってもっとみんなの中に入って楽しくやれる人間の筈なのに、どうしてあそこまで大人しくて鈍いんだって‥いじめといて今更何をと思うかもしれないけど、僕達はそんなあいつに何というか‥別の意味で苛立ちを覚えていたのかもしれない。悔しかったら反抗してみろよ!俺達みたいな落ちこぼれじゃなかったら、やり返してみろよってね‥]
[そう‥なのか‥]
自分とは全く違ういじめた当事者としての複雑な感情‥和範はその頃の名村達の真意を聞かされて驚きを禁じ得なかった。更に名村の話は続く。

[僕達は、あいつを死なせたというその現実から目を背けようとした。僕も‥他の三人も‥あの時遠藤を閉じ込めた事実を、記憶から消し去ろうとしていた。でもその後の人生は、決して幸せなものではなかった。周を怪我させ警察に逮捕され刑務所に入ってから、僕はやっと心の底からやり直したいと思ったんだ。先ずは周の心を取り戻すことが先決だ。そして仕事で迷惑をかけないように一生懸命働くこと。周の父親として恥ずかしくない人間になる為にも‥償いはどうしてもその後になってしまうが、今はひたすら頑張るしかない。頑張るよ。]
その言葉を聞いて優しく頷く和範に、名村は笑顔を見せた。
(それでこそ周の父親だ‥)
彼の笑顔を見ながら、今はすっかり明るさを取り戻し外見上は普通の子供と殆ど変わらなくなった周と、今自分の前にいる名村を思いこの親子の未来に幸多かれと祈らずにはおれない和範だった。
それから一年近く過ぎ、和範夫婦は周君の次に預かった幼い女の子光希ちゃんと三人で暮らしていた。周はやっと父親と二人で暮らせるようになったが、それでもしょっちゅう和範宅やペンションを行き来して過ごしており、ペンションで働くスタッフ全員が一つのファミリーのような共同体で、周やオーナー夫婦の子供達はその中ですくすくと成長していた。和範は周とは異なるおませで活発な光希ちゃんとの生活にも慣れ、益々活気がみなぎる充実した毎日を送っていた。そしてそんな和範に、待ちに待ったその日がやっと訪れたのだった。

その日、和範は久し振りにハルさん宅を訪れようとしていた。三月の下旬とはいえ春はまだ遠く、和範は例年になく寒さが厳しかったその年珍しく三月に入ってから風邪をひいてしまい、三日程寝込んでしまっていた。やっと起きれるようになった彼は、たまっていた仕事を済ませた後手作りの野菜を持って、久し振りにハルさん宅へ向かった。いつもと同じように玄関先に野菜を置いて帰ることになるだろうとそう思っていた和範だが、その日は違った。誰もいないと思っていた玄関先に白髪の婦人が立っているのを見て、彼は思わずハッとした。(ハルさんだ‥)
ハルさんに直接会うのは初めてだったが、その女性がハルさん本人だということは和範にもすぐにわかった。確かに遠藤を彷彿させる優しそうな面差し‥彼女は玄関先に立って、穏やかな表情で和範が来るのを待っていてくれたのだった。只々驚き呆然と佇んでいる和範に、ハルさんは優しく声をかける。
[今日あなたが来るような気がしてた。佳人が教えてくれたのかもしれない。佳人があなたと会って、しっかり今の自分の思いを伝えるべきだってそう言われたような気がしたの。あなたはもう十分に償ってる‥私はもう既にあなたを許してるって‥]
一言一言区切るようにはっきり口にするその初老の婦人の表情は、どこまでも穏やかで優しさに満ち溢れていた。
[あっ‥]
何か言おうとしても言葉にならない。言葉の代わりに、和範の目にはただ涙が溢れる。そんな和範に、ハルさんは優しく言葉を続けるのだった。

[私は以前から、あなたのことをもっと知りたいと思っていた。あなたが同じ長野に住んでいるのを知って、どんな暮らしをしているのか‥最近はあなたのことばかり思っていた。それでも会う勇気が無かった。あなたに会えば嫌でも佳人のことを思い出してしまう‥それが怖かった。でもね、佳人が夢で言ってくれたの。母さん、会うべきだよと‥夢の中のあの子は優しく笑ってた。それでも私は迷ってた‥すると崎本さんがそんな私の気持ちを察してね、あなたの様子を見に行ってくれたのよ。そして私に教えてくれた。今のあなたがどれだけ人として誠実に生きているか‥一生懸命働きながら、里親として恵まれない境遇にある子供達を育てているそうね。立派だと思う‥素晴らしい生き方をしていると思う‥佳人だってきっと今のあなたを許してくれてるわ。だから夢の中で私に会うべきだと言ったのよ。そして息子も今のあなたの姿に満足し、きっと応援してくれてると思うわ。だからお願いよ、これからは自分の為に‥そしてあなたが守るべきものの為だけに生きて‥胸を張って生きて欲しい‥あなたは十分償ってくれた‥償いは終わったのよ。私はもうあなたを許してる‥許してるんだから‥]
ハルさんの優しさに溢れた言葉を耳にして和範は何か言わなければと思うのだが、涙で言葉が出ない。思わずひざまずいた和範の頭を、ハルさんは包み込むように優しく抱き寄せるとただ静かに頷いてみせた。するとその時不思議なことが起きた。和範はまるで母親の胎内にいるような錯覚を覚え、同時に間違いなく生まれたばかりの赤ん坊の泣き声を耳にしたのである。それは一瞬だったが確かに聞こえた。
(自分は‥本当に許された‥これは‥生まれ変わることが出来たということなのか‥)
和範は、やっと会うことが出来て尚且つ自分を許すと言ってくれたハルさんの腕の中で、言葉もなく感涙に咽びながら、或いはあの声は再出発する自分への遠藤や浪川先生からの祝福の意味を込めたメッセージではなかったかと、そんな風にも考えていた。それはあらゆる意味で、人としてしっかり生きていくようにとの厳しさと優しさを込めたあの世からの伝言‥

[考え過ぎかな‥?]
ハルさんとの涙の対面を果たし、彼女の励ましてくれた言葉通りこれから自分が守るべき者の為に生きていくことを彼女に誓って帰宅した和範は、正代にハルに抱かれた時耳にした赤ん坊の泣き声について、自分が思ったことを口にした後思わず苦笑した。だが妻は夫の言葉に首を振り、涙ぐみながらその声は間違いなく和範の再出発を祝福するあの世からのメッセージだと力説するのだった
[ううん、考え過ぎじゃないわ。あなたの感じた通りだと思う。あなたはハルさんだけでなく、遠藤君からも浪川先生からも許してもらえたということなのよ、きっと‥]
正代は夫の言葉に静かにそう答えた。今日の出来事を夫から聞いて、最後のその不思議な体験について正代は、それが亡くなった二人からのメッセージだと信じて疑わない様子だった。希望的観測だと言われるかもしれない。でも、それはそれで構わないと和範は思った。ハルさんに許してもらえて、新しく生まれ変わることが本当に出来たのだ。
[ハルさんに感謝して、そして生きているからこそ味わえるあらゆる出来事にこれからしっかり向き合って、頑張って生きていこう!そして幸せになろうね!幸せになるぞ!]
[なるぞ!]
ふと気がつけば、拳を振り上げる和範の傍らで、幼い光希ちゃんが同じような動作をしている。その可愛らしい仕草に夫婦共に吹き出しながら和範は今、生きる喜びをこれ以上ない程強く感じていた。そして‥ふと両親のことが頭に浮かぶ。今こそ会いに行こう!かつて誓った通りすっかり日焼けして逞しくなった姿でとてつもない笑顔を見せに行こう。自分は今、この上なく幸せだとそう両親に伝えて安心させてやろうと、和範は心からそう思うのだった。(了)