永遠の邂逅

私は死んだ。間違いなくそう思った。何気なく見上げた空に一筋の閃光を見た時、恐れていたものが私の住むこの街の頭上で牙を剥いたのを私は悟った。

(終わった‥)

私は目を閉じ、静かにその時が訪れるのを待った。爆風があらゆるものを破壊し尽くし、この身体は数千度の熱線に溶かされる‥

(苦しくありませんように‥安らかに死ねますように‥)

恐怖の瞬間を前にそれでも心の中で祈らずにはおれない。だが核兵器が頭上で炸裂してしまった以上、穏やかな死などあり得ない事だった。広島、長崎の惨状は日本人なら誰でもが熟知している。あれから八十年近く経っている現在、核兵器の威力は実際に人々が暮らす世界に落とされたあの時よりも、格段に上がっている筈だった。

(許さない💢私達が何をしたというの?)

  • 死への恐怖にさらされながら、私の心はそれでもこの事態を引き起こした当事者への怒りに打ち震えていた。彼等は世界のルールを無視し、核兵器やミサイルを開発しては実験を繰り返して全世界から嫌われていた。世界中から非難され制裁を受けていたその国は、絶対的な専制君主制を取る独裁軍事国家であり、そんな国が世界に受け入れられることなど普通考えられない。だがそんな国でも友好国は確かに存在し、そしてその友好国が影響力を行使した為に軍事国家の暴走はある程度抑えられていたともいえる。だがここ数年はその暴走が目に余るものとなり、友好国と見られていた国も次第に苛立ち冷たい視線を向けるまでになっていた‥その厄介な国が隣国といえる位置にある以上私も生活していて不安を感じない訳ではなかったが、それでもこの二十一世紀になった今になって、まさか現実に核戦争が勃発するなど思ってもみなかったのだ。

(私達は死ぬ‥でもあなた達も死ぬ‥そして大勢の人が死ぬ。たった一人の独裁者のせいで‥その男が支配する独裁国家が存在し続けた為に‥)

そこまで考えた時、私はふと穏やかな時がそのまま続いている事に気付き、死の苦しみを味わう事なく死んだという自覚も無いまま、もう天国にきたのかと思った。出来ればそうありたい。安らかな死を願っていた筈なのだが、まさか現実にそうなるとは思わなかった。だが‥何かがおかしい。確かにけたたましいサイレンの音と同時に核‥兵器なのかわからないものの恐ろしい飛来物の襲来を認識した筈なのだ。それらしい光も見た。同時にメディアからとも現実の世界からとも判別がつかない、沢山の悲鳴や叫び声も聞いた。だが、一瞬でここまで静まるものだろうか‥

私は訳が分からずに外に目をやり空にも目を向けた。するとそこには信じられない光景が広がっていた。恐怖に顔を歪め体を屈めてうずくまる人、ただ必死に逃げようとしている人、なす術もなく立ち尽くすだけの人もいた。だが、どう見ても彼等は全く動いていないのだ。そして私がそれまでいたと思われる家‥その室内には夫‥?息子‥?娘‥?つい先程まで同じ時を過ごしていたらしい家族と呼べる三人が、他の人達と同様恐怖の表情をしたままやはり立ち止まったまま動かない。私は混乱の坩堝に突き落とされた。同時に自分が何処の誰かも思い出せなくなったのだった。(落ち着け、落ち着け‥これは夢、私は夢を見てるのよ!絶対そう‥だがいくら自分に言い聞かせても、状況は何も変わらなかった。そして私反省やっと気付いたのだ。(時間が‥止まってるの?)

混乱したまま直ぐに空を見る。炸裂した筈の核は?閃光は?やはり頭上に見える。たとえ時が止まってもあれが取り除かれない限り、死は免れないだろう。そんな絶望的な感情が頭に浮かんだ時だった。不意に頭の中に声が響いた

(心配しなくてもいい。このエネルギーは我々が我々の力で消滅させる‥)

(えっ‥)

私は驚いて思わず周囲に目をやった。すると全てが止まってると思った風景の中で、私を見つめる一人の人物の姿を見かけた。

[お兄ちゃん!」一瞬夢かと思った。だがその人物は確かに静止していない。私は驚いたものの同時にホッとし安堵したのだった。

不思議なことに自分が誰なのかさえ俄に思い出せないのに、私はその人物を覚えていたのだ。その人物は本当の兄ではなく、確か従兄弟で兄のように慕っていた誠一郎だった。身なりからしてこの家の主婦という立場だったらしい自分なのに、その記憶も無いのに何故彼のことだけは覚えているのだろう。それとも自分はとっくに死んでしまって、これは死後の世界の出来事なのか?すると混乱し続ける私の頭の中に、謎の声が再び響いた。

(君は死んではいない。君は我々と同じ、地球で言うところの遺伝子を受け継いでいる我々の仲間なのだ‥)

(えっ‥)

謎の言葉は更に続く。

混乱しつつもその従兄弟の方へ目をやると、周囲のあらゆものが静止しているのに彼はただ笑顔でも頷くだけ‥だが謎の声は明らかに彼の声ではなかった。笑顔でも彼の口は閉じたままなのだ。

(あなたは誰?これは一体どうなっているの?)

当然のように沸く疑問を、私はその声にぶつけた。するとその重々しい口調の声は、直ぐにはとても信じられないことを、私に語り続けるのだった。

(我々は太古の昔、地球人が今火星と呼んでいるその星に住んでいた。地球人にとって我々は異星人だが、同時に太陽系の惑星に住む仲間でもあったのだ。地球よりかなり早く文明を極めた我々だったが、ある時環境の激変でかなり昔に火星は我々の住める星ではなくなった。我々は住める星を求めて、太陽系から旅立たねばならなくなった。)

声は語り続ける。

(地球はまだその時、今のように生物が生息出来る環境ではなかった。だが我々は故郷である火星は勿論、地球の事も決して忘れてはいなかった。離れていてもずっとこの星を見守っていた。いずれ火星、そして太陽系に戻りたいと願っていたから‥)

(そんな‥そんなSF信じられるわけが‥)

(ないか?ではお前が今見ている状況は一体何なのだ?夢だと思うのか?それともお前が思ってる通り、死後の世界の出来事だとでも言うのか?)

(だって、核が頭の上にあるのよ!そのエネルギーを吸収して地球上に全く被害を及ぼさないで消滅させるなんてそんなこと‥)

(我々には出来る‥)

(出来る?)

(ああ、今時間を止めてお前の頭に直接語りかけているのも我々だから出来ることだ。)

(それは‥テレパシー?あなたはもしかして、テレパシーで私の頭に直接語りかけてるの?私はあなた方と同じ?人間じゃないの?でも私は、確かにこの家の人間だった筈よ!母親?主婦?きっとそうよ!そんな立場の人間だった時の記憶は無いけど、私の今の姿はこの家の奥さんだった事を示してる。でも今の私はその時の記憶を思い出せない。だけど私は人間よ!怪我すれば赤い血が流れるし、病気にだってなる。なる筈よ!いきなりあなた方の仲間だなんて言われても‥)

(混乱するのも無理はない。君の身体の構造は殆ど人‥つまり地球人と変わりないからね。だが君の身体の根本にある原子とでも言うべきものは、我々が曾て太陽系を去る時残していった命のタネそのものなのだ。)

(命の‥タネ‥それは何なの?)

(詳しく説明する為には、君を我々の仲間であった時から過去を遡り記憶を甦らせなければならないが、今はそんな時間は無いのだ。でもそれが君自身にある限り、君は永遠に死ぬことはない。)

(命のタネ‥)

声は混乱しながらも自分が地球人だと主張する私の思いをあくまで否定し、諭すように穏やかな声ながらそれでいて信じ難い内容の話を語り続けるのだった。

(我々は地球でどんな生物が生まれてどんな進化を遂げても、その生物が穏やかに平穏に生きていけることを望んでいた。地球人が自らの力に奢る余り、争いで滅びるようなこと絶対に避けたかった。救いようのない未来になるのは、絶対に止めたかったんだ。だがこの星で初めて核兵器が使われた時、我々は止めることが出来なかった。)

(ヒロシマ‥ナガサキ‥)

あの惨状は日本人なら必ず記憶の奥底に留めている筈だ。そして声は静かに続けるのだった。

(そうだ、でも三度目は許さない。我々が止める。だから今回は我々が助けるのだ。そして核のボタンを押した愚かな地球人、その存在は我々が駆逐する。地球上で生きる資格のない地球人だから我々が連れて行く。)

(連れて行く?)

(そうだ、それは我々が強制的に生まれ変わらせるということを意味する。牙を抜いた上で記憶を消し、この星に戻す。その後のことは我々は関知しない。今の地球の現状を思えば、駆逐すべき人間は決して一人ではないように思えるが、直接核戦争の引き金を引いた人間だけを、今は連れて行くことにしている。)

(どうして、どうしてあなた方はそんなに地球のことを思ってくれるの?核戦争を止めてその上引き金を引こうとした人間を排除しようとまでしてくれる‥何故?)

全てがあり得ない信じられない状況の中で、私自身自然にその話、そして謎の声との会話を受け入れ続けていることに我ながら驚いていた。それでも声の主である彼等の意図は、やっぱり聞かずにはおれなかった。声はそんな私の問いかけに静かに答える。

(我々が命の種を植え付けたのは君だけではない。全てのものが静止しているこの世界で、今君を笑顔で見つめているあの男も、君と同じ火星人の原子を持つ我々の仲間であり、地球上には君と同じ火星人の明確な子孫である地球人が百数十名程いる。それだけではない。我々が植え付けた命の種は、人以外の生き物や植物にも影響を与えており、この星に生命が誕生したその時からこの星の発展を陰で支えてきたのだ。はっきり言うがこの星自体我々火星人にとって、子供のような存在なのだ。だから滅亡等絶対にさせない。我々が許さない、必ず止める‥止めてみせる‥)

(だけど、核兵器は一度ならず二度も使われてしまったわ。そして何の罪もない大勢の人達が死んだ‥)

そこまでこの星のことを思ってくれていたのなら何故その時、最初に使われる前に止めてくれなかったのだ。あの惨状を知っている日本人だからこそ、やはりその言葉は口をついて出る。すると声は、今度は少し厳しい響きをもって私に答えるのだった。

(地球人の科学力がどれだけ発達しようと、それを愚かな行為に利用するならその星自体見捨てられても仕方のないことだ。原子力を兵器として使うことを思いついた地球人が核兵器を生み出してしまった時、遥か遠い宇宙にあってその事実を知った我々は、地球人の愚かさに憤慨しもうこの星を見捨てようとまで思った。そして核兵器は初めてこの星に生きる人々の上に落とされ、数万もの人々が亡くなった。)

(私たち‥日本人‥)

(ああ‥殆どがそう‥ただ、地球人が核兵器という作り出してはならない最終兵器を使用して悲劇は起きたが、それは地球人同士が核兵器で殺し合い地球滅亡に至る最終戦争には繋がらなかった。我々はその事実を確認した上で、核兵器の真の恐ろしさを地球人が思い知るべきだったのだとそういう結論に達したのだ。)

(だからヒロシマ、ナガサキは見捨てたの)

(勘違いしてもらったら困る。核兵器を生み出してしまったのは地球人自身だ‥我々は地球人の知能の高さや科学力の進化のスピードを見るにつけ、こういう悲惨な事が起きるのではないかとずっと危惧していた。そして我々が危惧していた通り、地球人はいつしか地球の主のように振る舞いこの美しい星に生まれて生きていける喜びを忘れてしまっていた。そして驕り高ぶった彼等は、到頭踏み込んではならない領域に足を踏み入れてしまった。)

(地球人がいつか核兵器のような作ってはならない兵器を作って、殺し合いをする事がないように願ってた‥地球の未来を案じていたのね。)

(ああ、確かにその不安はずっとあった。知能の高さゆえに争いは起きるのかもしれないが、我々はそれでも地球人が自ら滅亡するような方向に進まない事を願ってたんだ。我々は我々が住める星を求めて宇宙を旅する中で、自らの過ちで滅亡に至ったそんな星を幾つか目にしてきた。決して多くはないが‥もしかして地球も同じ運命を辿るのではないかと、本当に心配していたんだ‥)

(地球も自らの力を過信するあまり滅んでしまった、愚かな星の一つになりかねないと‥)

(その通りだ。だから今度は我々が介入して核戦争は止める‥仲間の為にも‥)

(仲間…?)

ああ、君も仲間だ。君の中の原子は世界に散らばって人間として生きている百数十名の我々の仲間と同じ、つまり君達は我々と同じ命の種を宿している。仲間がいる以上我々はこの星を見捨てるわけにはいかない。)

(わからない、わからないわ!いきなりそんな、自分が人間でないと言われても‥だったら私は死なないの?)

私と謎の声との会話は永遠に続くかと思われた。だがその時だった。

(ギリ、後は私が彼女に話します。もうこれ以上時間を止めておく事は出來ません。行って下さい!)

突然全く別の声が、私と謎の声との会話に割り込んできた。

(えっ‥?)

だが割り込んできたのは声だけではなかった。次の瞬間従兄弟だと記憶していた筈のあのいつもお兄ちゃんと呼んでいたその男が私の目の前に立っていた。

「あっ、あなたは‥」

やっと声が出た。と同時に今まで自分に語りかけていた謎の声の存在が私の頭の中で消えたのを私ははっきり悟った。彼は混乱する私を前にゆっくり笑みを浮かべると、静かに口を開いた。だが彼が話すその内容は、今までの謎の声と同様やはり私にとってとても信じられないものだったのである。

「君と同じで、僕も地球人ではない。地球人のDNAはあるが、原子に戻れば君や今まで君と属にいうテレパシーで会話していたギリと同じ火星人だ。」

そこまで話すと彼はどこか懐かしそうな表情になり、私にとにかく座るように促すと話を続けた。考えてみれば、地球人の女性として生きてきた記憶を取り戻せないのにお兄ちゃんの事だけを覚えているのも不思議な話だった。その話はやはり信じられない内容だったが、それでいて潜在記憶があるのか、何故か心の片隅に受け入れる事が出来るようなそんな話だった。パル‥地球人の名前が誠一郎である彼は語る。

「僕の名はパル、君と会うのはううん、何度目だろう。数百回にもなるかな。」

「数百回?」

「ああ、君は地球人として太古の昔から何度も生まれ変わってきた。その都度僕は、君の近くでずっと君を見守ってきたんだ。そして今、やっとパルとして話せる。そんな状態になったのは、勿論核ミサイルのボタンが押されたせいだが‥」

「会うのは数百回、見守ってきた?どういうこと?第一あなたには異星人としての記憶があるようだけど、私には全く無いわ。あなた方が何と言おうと私はやっぱり地球人なのよ!絶対そうよ!」

「違う、君は間違いなく我々と同じ火星人の原子を持つ我々の仲間だ。」

「だったら、だったら何故‥?」

当然の疑問を投げかける私に、パルは根気強く話し続ける。その内容はどこまでも信じられないものだったが、私はもう否定しようとは思わなかったし正直する気ににもならなかった。あの頭上で炸裂する核爆弾の閃光を目にした時から、現実に彼等の話を受け入れない訳にはいかなくなったのだ。

何より地球を本当に核戦争の危機から救ってくれるなら有り難い事だし、だからこそそんな彼等の言うことには耳を傾けない訳にはいかない。私は今、確かにそんな気持ちになっていた。ただ、自分が地球人ではなく彼等と同じ異星人だという話はやはり受け入れる気持ちにはなれなかった。すると言葉にしなくともそんな私の思いが伝わるのか、彼は優しく声をかける。

「君と僕の記憶の違いは、この星が危機的状況に陥った時それを遠く離れた仲間に伝える為の通信機能をそれぞれの原子に埋め込まれているか否かによる。君の原子には埋め込まれていない。だから君は火星人の原子を持った上で地球人のDNAを持つ地球人として生まれた。だから地球人としての記憶しかないのだ。」

呆然とする私を前にお兄ちゃんの話は続く。

「そして地球人として一生を終え、我々と同じ原子を持ったまま再び地球人として生まれ変わる。君は地球人で言う女性、僕は男性として‥そして僕等は何千年もの人の歴史の中で、異なる人生を生きて何度も巡り合ってきた。ある時は兄妹、ある時は親子、ある時は恋人として‥そして今の君の人生では僕は頼りになる従兄弟‥一人っ子として生まれた君からは、お兄ちゃんと呼ばれ慕われてきた存在だ‥」

「お兄ちゃん‥」そうだ、その時私は、この非常事態が起きる前の平穏に暮らしていた頃の記憶が、一枚ずつベールが剥がれるように少しずつ戻ってくるのをはっきり感じていた。

私は日本という平和な国に生まれ育ったごく平凡な女性‥活発な方ではなく、どちらかと言えば大人しくて地味な性格でそれ相応に勉強も出来て普通に就職し恋愛も出来て結婚、出産‥母親になった。普通の人が辿るありきたりの人生を送ってきただけの、平凡な人間だった。

「そう、その通り‥だがそのありきたりの人生を送っていた普通の人々の当たり前の幸せが今壊されようとしていたのだ。」

彼は言葉にしなくても私の考えていることがわかるらしく、今起きている厳しい現実について私が何も言わなくてもすぐに言及した。その上で今度は私を優しく諭すように話を続けるのだった。

「さっき言った事がわかるかい?僕達は夫婦という立場にだけはなった事がないんだ。恋人同士という立場になったことは一度だけあるけど、それは歴史上とても厳しい時代背景の元で、その時は二人共戦争によって命を奪われている。僕達は異星人の原子の元に地球人のDNAを持つことは出来るが、セックスは出来ない。子供は作れないんだ。君は胎内に地球人の精子を宿し、地球人を生むことは出来る。然し我々の間では地球人の子供は生まれない。二人共元は火星人だからね。僕達が持つ異星人の原子が地球人のDNAを上回って異形のものが生まれてしまう。」

私はまだ混乱していたが彼‥お兄ちゃんの穏やかな口調に次第に気持ちが解れ心が静まるのを感じた。そしてあくまで地球人らしく、自分の思いを言葉にして表す。

「あなたのこと何と呼べばいいの?パル‥?それとも誠一郎?」

「今まで通り君は僕のことのお兄ちゃんと呼ぶんだよ、絶対に‥」

「あなたには異星人としての記憶というか意識があるけど、私には全く無い。それは何故?その通信機能があれば、私も自分が異星人だと自覚出来るの?自覚することがあるの?私が何度も生まれ変わってきた、いわば前世の記憶まで思い出すことが出来るの?それについさっきまで私と話してたというか、私の頭に直接話しかけていた、あなたがギリと呼んでいたあの声の主は何者?」

するとパルは私の立て続けの質問に臆する事なく、穏やかに答えた。

「ギリは我々のリーダー、この星を守るいわば総司令官といったところかな。」

「リーダー‥」

「そうだ。あの閃光を見た火星人は勿論君だけじゃない。彼は地球人として生きる火星人の原子を持ち君のように通信機能を持たない、つまり記憶のない火星人型人間に直接テレパシーで話しかけていた。君もその中の一人なんだ。そして‥彼はこの星を守るという使命を果たした。その為に、ギリ自身の原子は消滅してしまったが‥」

「消滅?それはどういうこと?」

あの恐ろしいエネルギーは我々が消滅させると確かに謎の声は言ったが‥でもいくら異星人でもそのようなことが本当に可能なのか‥そんな私の疑念を汲み取ったのか、パルこと誠一郎はとてつもないことをこれまたさらりと言ってのけるのだった。

「勿論核のエネルギーは地球に落とさせないにしても、宇宙空間にも発散させるわけにもいかない。もしそんな事をしたら、宇宙空間にどんな影響があるかわからないからね。生物が生息している星にもどんな被害が及ぶか‥だから彼が時空を越えてブラックホール、いわば宇宙のゴミ捨て場に命がけで捨てに行ったんだ。」

「えっ‥まさか‥」

「ブラックホールだよ、命がけでというより命を捨てて核のエネルギーをそこに‥宇宙自体に影響が及ばない場所に‥」

「そこまでして地球を救ってくれたの?」

「そうだよ、勿論ギリも無事に戻っては来れない。原子体としてのギリはブラックホールで消滅してしまうだろう。それはこの地球上で言うところのいわば死を意味する。」

「死‥?あの声の主、ギリっていう彼は死んでしまったということなの?」

唖然とする私に、パルは幾分かの腹立たしさを込めて答えた。

「そうだ。地球上ではそういう言い方をする。勿論地球人の愚かな行為を命を捨ててまで止める必要はないと、そう主張する我々の仲間は多い。もう、見捨てるべきだと‥僕だってそう思った。だが曾て我々火星人がそうだったように、生命体が生息可能な星の環境の元進化し、その文明を発展させていく過程において進化すればする程その‥驕りといった感情‥自己中心的な考えが一部の生命体には生まれてくるものなのだ。その結果、必ず争いが起きる。奇跡的な確率で生まれた生き物が生きていけるこの貴重な安息の地なのに大切にするという意識もなく、自ら汚し傷つけようとする。愚かなことだが‥」

「地球人が‥」

「そう‥地球人が滅んでも自業自得で仕方のないことなのだが然し‥地球は火星と同じ太陽系の星、いわば同胞のような存在だ。そして火星に住むことが出来なくなった我々は宇宙に旅立つことになり、その時我々はまだ命が誕生する前の赤子のような星である地球に命が根付く事を予期して命の種を残していった。ギリに聞いただろう?この星には君もその中の一人だが、我々の仲間がいるのだ。だから見捨てる訳にはいかない。救わねばならなかった。」

「でも‥命を捨ててまで‥」

先程まだ話していたギリがもういないと思うと、私は彼にとても済まない気持ちになり思わず声を詰まらせた。

「命を捨ててまで‥地球の為に‥」

「心配しなくてもいい。地球で言う死とは加齢や病気で生命体の一切の機能が停止し復元が不可能なことを指すが、我々の原子体は消滅しても又復元出来る。つまりギリの原子体は又作り直せるのだ。」

「えっ‥つまりクローン?それともギリの双子を作れるという事?」

淡々としたパルの言葉に私は拍子抜けして呆気に取られながら尋ねた。するとパルはそんな私の姿を見て、やっと人間らしい笑顔を見せてくれたのだった。

「パル‥?」

「クローンか‥確かにギリのような重大な使命を果たした存在は、復活する権利を有する。それを行使するかどうかは本人が決めることだが‥」

「ギリは復活を望んでないことも有り得るの?」

パルは私のその質問には答えず、遠くを見るような眼差しで静かに口を開いた。

「それは私にはわからない。ああ、これから先は君を地球人名でいう亜希子と呼ぶね。その方が君にもしっくりくると思うから‥」

パルは優しく頷くと、私を初めて地球人の名前の亜希子と呼んでくれた。だがその名前は、今の私には全く聞き覚えのないものだった。

「亜希子‥君の名は日野亜希子、僕の名は村岡誠一郎‥それが地球人としての僕達の名前だ。君は普通のサラリーマンであるご主人と恋愛結婚して二人の子供を儲けた。長男は悟、長女は理恵‥中学三年と一年で核ミサイルのボタンが押されたのは、そんな普通の家族が当たり前に過ごしていた日常のひとコマ‥丁度朝食時だった。自暴自棄になった独裁者の暴挙が、穏やかに過ごしていた多くの地球人から平穏な日常を奪ったんだ。」

パルは核ミサイルを押した独裁者への怒りを露わにしながら話を続けるのだった。

「そいつはやけになったんだ。その国は世界中のどの国からも相手にされなくなり、世界の公的機関から課された制裁で国内では色々なものが手に入らなくなった。国民を飢えさせても独裁者でいたかったそいつは次第に孤立し、自分の側近からも離反の動きが相次いだ。そいつは核保有国になることで自分の立場を世界中に認めさせようと目論んだが、悉くうまくいかなかった。今時を止めて火星人としての君に直接話しているが、ここで時間が再び動き出したら、君は又普通の日本人の主婦日野亜希子に戻る。僕との会話も記憶に残らないことになる。だから今、敢えて君に話した。君の原子に僕と同じ通信機能を持たせて、僕と同じ火星人としての意識を残したいのか、迷ったが君に選ばせる為に‥」

「私に‥選ばせる‥」

どういうこと?言ってる意味がわからず戸惑う私に、パルは優しい口調だがそれでもしっかり究極の選択を迫るのだった。

「地球人名は誠一郎だが、僕は異星人の仲間からはパルと呼ばれている。君にもやはり火星人の名前があるんだ。それを教えるかどうかは、今君の選択にかかっている。つまりこのまま記憶を戻してギリが言った事も僕の話も君の記憶から消し去り、核戦争の危機が我々の力で取り除かれた事も忘れて、このまま地球人としての意識だけを持って生きていくか、それとも僕と同じように原子体に通信機能を埋め込んで、火星人としての意識を持ち合わせて生きていくか、亜希子‥それを今、君自身で選んで欲しいということだ‥」

「私が‥?どうすればいいの?」

戸惑いつつも続ける。

「それは火星人としての名前を私が知りたいかということ?私があなたと同じ立場になったら知ることになる。つまり‥そういう事なのね。」

「ああ、よくわかってる。やはり君は僕達の仲間だ。」

パルはしっかり頷いて答えたが、私はいくら肯定されてもやはり信じられるものではなかった。それでも納得しなければならない。今の状況が彼の話が事実である事を何よりも証明している。だがそうすぐに答えが出るものではない。戸惑うばかりの私にお兄ちゃんである誠一郎は静かに目を閉じると、遠い昔に思いを馳せるように私にある種の思念を送った。すると不思議なことに私の脳裏には古代からの様々な人生が浮かび、その都度生きてきた私の前世の記憶が鮮やかに蘇ってくるのだった。

「これは‥」

驚く私に、パルは静かに語りかける。

「亜希子‥今君が見ているのは、君の原子に刻まれた地球人として何度も生まれ変わって送ったその人生の全ての記憶だ。僕は、君の前世の記憶を開放することが出来る。思い出したかい?平安時代では君は有能な女官であり、鎌倉時代では平凡な農婦だった。だがそれも途中までで、結局戦に巻き込まれて殺されている。戦国時代は‥有力大名の家臣の娘に生まれたが、夫の戦死で出家して尼となって生涯を閉じた。江戸時代は平凡な町娘だな。だが商才に長けて嫁いだ先で夫を助けて家を切り盛りしている。」

「まあ‥」

今の私には驚きしかなかったが、確かに彼の話した通りの人生がその時何を思ってどう生きてきたのか、何故かしっかり思い出すことが出来るのだ。更に彼は戸惑う私に構わず、話を続けるのだった

「時代は明治‥君は日本初の女子大に通い、卒業した後教師となっている。教職に就き教育に身を捧げた君は、恋愛も経験し一時仕事を辞めて家庭に入るか思い悩んだが結局結婚を諦め一生独身を通した。その後太平洋戦争では犠牲になってるな、空襲で‥そして今、令和の時代に生きる君や僕の人生の途上で、我々が最も恐れていた事が起きたんだ。」

「核戦争が‥始まろうとした‥」

「そうだ。皮肉なことに人間がどんなに愚かな生き物か、最新科学が発達した今現代で証明されようとしたのだ。」

そこまで言うと彼は、これ以上ないぐらい悲しげな表情を見せるのだった。更に彼は強い口調で、私に思いがけない事を告げる。

彼は私に更なる選択を迫った。

「我々は一度は地球人を助けた。大きな犠牲が払ったが‥だが二度とは助けない。もうこの星を見守るのを止めて、この星から離れようと思う。仲間からそういう結論に達したという連絡がきたんだ。だから我々の仲間である君達、地球型火星人に意志は確認する必要があったんだ。その為に今、君に全てを話した。」

「えっ‥どういうこと?」

いきなりそんな事を言われても‥パルこと誠一郎が言っている話の意味がわからず、私は混乱して聞き返す。だが、本当はわかっていたのだ。私の中にある異星人としての原子体が、既に理解していたというより出来ていた。彼等は今核戦争を引き起こそうとした地球人に怒り、地球を見捨てようとしている。

きっとそういうことなのだ。だからこの星に永遠に別れを告げようとしている今、元々自分達と同じ仲間の火星人の原子を持つ百数十名の人間に、このまま地球人として生きるのかそれとも原子体に戻って異星人として彼等と共に宇宙を旅するのか自分で選ぶようにということなのだろう。何故そこまで考える事が出来たのかわからないが、私にはパルの言わんとすることが手に取るように理解出来た。パルや、ギリが言う通りやっぱり私はこの星の住人ではない、異星人なのだ。途切れ途切れの記憶しか無いが‥するとパルは私の思いがわかるのかやはり悲しげな表情で何も言わずに頷いた。そして静かに口を開く。

「君が考えてる通りだ。火星が最早安住の地になる見込みが無い以上、我々は二度と帰らない決意で旅立たねばならない。今の君は僕と同じ立場だ。通信装置を外し今まで繰り返してきた人として生きた人生の記憶を全て消し去って、このまま地球人として生きていくか、それとも彼等と共に安住の地を求めて旅立つか、君は僕と同じように選ばなければならない。」

「このままじゃ駄目なの?このままじゃ‥」

溢れる思いより先に私は声が出ていた。まだ自分が彼等と同じ異星人とは信じられなかったが、それでも彼等‥そしてパルにもいなくなってほしくなかった。私は思わずパルに、そしてテレパシーでしか語りかけられない存在である遠くの仲間に向かって訴えていた。

「パル、あなたの仲間は今何処にいるの。みんないずれ火星が昔のように住める‥ようになったら、火星に戻ろうと思っていたのでしょう?そして兄弟星ともいえる地球を愛してくれていた。地球人の進化を見越し命の種を植え付けて‥平和な発展を願って見守ってた‥そんな優しい目を裏切って核戦争を起こそうとした地球人は、本当に愚かでどうしようもない存在だと思う。でも、地球人全てが愚かなことをしようとした訳じゃない。一日一日をただひたすら懸命に生きている人が殆どなのよ。それでも一部の愚か過ぎる人々の行動によって争いは起きてしまうものなの。お願いだから今まで通り見守っていてくれる訳にはいかないの?」

地球人であり異星人でもある私が心から訴えたその言葉にパルは‥そして地球を核戦争から救ってくれた仲間は冷たく言い放つ。

「駄目だ、これはもう決まったことなのだ。我々の仲間は宇宙を旅しながら我々の故郷である火星‥そして生まれたばかりの地球人の未来をずっと案じてきた。だが地球人は我々の思いを裏切り、やはり過ちを犯してしまった。」

「パル‥?」

そこで不思議な事に私は気付いた。パルの声が二重に聞こえる。パルの言い方も先程までのように親しかったお兄ちゃんらしい言い方ではなく、その前に話していたギリの時と同じ言い方になっていた。

「もしや‥」私は思った。二重に聞こえる声は火星人の仲間の声?彼等はパルの口を借りて私や同じ立場にいるという百数十名の火星生まれの地球人と直接話しているのではないか‥するとパルは私の考えていることがわかったらしく、いきなり頷いて答える。

「その通りだ。我々は今地球で生きてきた仲間でもある君達に、究極の選択を迫っている。我々は我々が生きていける科学の粋を極めた宇宙船で宇宙を旅していて、安住の地をずっと探し続けてきた。だがわざわざ定住しなくても我々は今の状態を続けていられる。それだけの科学力もある。このままこの船で宇宙を旅し続けても、全く支障は無いのだ。我々は寧ろ今、その方がいいとさえ考えている。」

「えっ‥」

それはどういう事?もう地球を見限ってしまうということなのか?そして地球で暮らす仲間にこのまま地球人として生きるのか、火星人として仲間の元に戻るのか自分達で判断するようにと‥するとパルは突然誠一郎に戻り人間らしい笑みを見せると、私を亜希子と地球人の名前で呼んで、彼等が言わんとする事の意味を教えてくれたのだった。

「亜希子‥僕達は地球人愚かだと言ったが、愚かなのは決して地球人だけではない。地球のように折角命が育まれる奇跡的な環境に恵まれながら、争いが起こり憎み合うことを止められず、戦争で自滅していった星を僕達は今まで沢山見てきたんだ。どれだけそんな星があったか僕は直接見聞きしてきたわけでは無いが、仲間とは必ず連絡を取り合ってきたからね。だから言えることなんだ。みんな辟易している‥何故自分達の故郷で穏やかに生きていけることに感謝しないのか‥命の危険もなく住み続けられることを有り難いと思わないのかと‥その上今までずっと見守ってきた地球まで、地球人まで、同じような過ちを‥」

「お兄ちゃん‥」

パルは悲愴な表情を滲ませながら続ける。

「だから我々は、もうこの星から本格的に離れようとしている。原子体に戻れば君も僕もその宇宙船で、火星生まれの異星人として生きていくことになる。ただ、地球人のように死そのものが無いけどね。ただそこには一切の争いが無く、穏やかで平穏な日々が待っている。」

「異星人として‥生きる‥」

当然のことだが火星人としての記憶など全く無い私に、実感がわく筈もなかった。戸惑うばかりの私に、パルは優しく話を続ける。

「僕達の原子体は永遠に滅びない。故障することはあるが、それはその部分を組み換えればいいだけだ。地球の為にブラックホールに消えたパルもそうすれば復活出来る。」

「組み替える?あなた方はロボットなの?

私の問にパルは淡々と答える。

「ある意味地球人の視点で見れば、そう見えるのかもしれないね。僕達は故郷を旅立った遠い昔から、退化した細胞を新しい原子に作り替えて生き続けてきたからね。だが我々には、地球人以上に深い感情があり傷付く心もある。悲しみや虚しさ‥地球上でそう表現出来る言葉は、決してロボットには無いものだ。」

「傷付く心は地球人にだってある。地球人だってロボットじゃない!」

思わず反論する私に、パルはあくまで冷静に言い放つ。

「人間をロボットのように支配しようとする連中がいるじゃないか?そんな連中がいる限り、この星は永久に救われない。独裁者は絶える事なくこの星に出現する。彼等は一切他人の傷みを思いやる事なく、自分の支配を正当化しようと多くの人間をロボットのように扱い苦しめ続ける‥」

「確かに‥そうかもしれない‥」

私は下を向くしかなかった。そして静かに口を開く。

「あなたは私にどうするか決めろと言ってるのね。わからない‥わからないわ。地球の平和な未来を願ったあなた方の期待を、地球人は結果的に裏切ってしまったことになる。それは本当に済まないことだし、あなた方が怒るのも当然だわ。でも私は、自分が本当は異星人だと言われても困るだけなの。この星を心から愛しているから‥どんな事があってもこの星を離れようとは思わない。絶対に‥」

私は心を込めて必死にパルに訴えた。そしていつしか、自分の目に涙が浮かんでいるのを感じた。地球人だからこそこの涙は溢れるのだ。絶対にこの星を離れることは出来ない!彼等に見捨てられても当然の愚かなことを地球人はしてしまったが、それでもこの星は私の故郷‥火星ではない、この地球こそ私の故郷なのだ。懸命に訴える私の姿にパルはため息をつくと、ゆっくり口を開いた。

「やっぱりね‥」

「やっぱり?」

「そう‥君と同じ立場の地球育ちの火星人は、みんなそう訴えてる。君もそうだ。母星といっても火星人であった記憶も無いのに今更異星人として宇宙に旅立つなど、みんな出来る筈も無いんだ。」

「パル‥」

予期してた通りの反応を見せた私にパルこと誠一郎は呟くように言うと、その後何故か寂しげな表情を見せた。パルは一体どうするのだろうか‥私は勿論気になったが、彼の気持ちを知るのが怖いような気がしてどうしても訊く事が出来なかった。そんな私にパルこと誠一郎は暫く沈黙していたが、やがて踏ん切りをつけたように強い口調で口を開く。

「わかった‥仲間にはそう伝えよう。君と同じ立場の地球育ちの火星人も、きっと殆ど君と同じ選択をするだろう。君はこれからも異星人の命の種を持ち続けたまま、地球人として生き続けることになる。だが僕は、君と違って火星人の意識を持ったまま生き続けなければならない。ぼくが持つ通信装置は簡単には外す事は出来ない。仲間に外してもらわねばならないが、彼等はしてくれないだろう。仲間の安否は彼等とて気になる筈だからね。だからこれからもずっと、今までのように僕は永遠に君を見守り続けることになる。」

「見守り続ける?それじゃパル、ううん、お兄ちゃん!お兄ちゃんも地球に残ってくれるの?」

今まで通りパルをお兄ちゃんとして接する事が出来る。私は一筋の希望を抱いたが、パルの表情は暗いままだった。

「お兄ちゃん‥?」

「あっ‥ううん、僕も地球に残ることになる。僕には仲間から託された使命があるからね。でも、これからも君と僕は生まれ変わりながら永遠の巡り合いが続くのだと思うと、何か虚しい気持ちにもなってね。仲の良い知り合いであったり、時には大切な肉視でもあり、又今回のように頼りになるお兄ちゃんにもなる。だが、それ以上でも以下にもならない。僕と亜希子‥パルとレアの間には‥」

「レア‥それが異星人としての私と名前なのね。でも私には、異星人としての記憶は無い。パルは、巡り合ってももう今回のように語ってくれた事実を私に話すことはないの?」

「それは僕達には許されていない。時を止めている今の空間だからこそ話せることだ。緊急事態だったからね。でも時が動き出せば君は僕から聞いたことを全て忘れ、僕をいつものように頼りになるお兄ちゃんとしてしか見ないだろう。」

「パル‥あなたはそれでいいのね?」

パルこと誠一郎は、私の問に強い口調で答える。

「構わない!連絡こそ取れるが、彼等はもうこの星には戻って来ないんだ!僕達はこれから、異星人ではなく気持ちの上でも地球人としてしっかり生きていく。その為に僕は僕でけじめをつけたかったんだ‥」

「お兄ちゃん‥」

パルの口調の激しさに私は戸惑ったが、彼は彼なりに心の葛藤があることを同時に痛い程理解することが出来た。異星人の意識があるまま、パルはこれからも地球人として生きていかなければならないのだ。それがどんなに苦しく辛いことなのか、彼の気持ちがわかるだけに私は言うべき言葉が見つからなかった。暫く沈黙が続いた後、気持ちの整理がついたのかパルこと誠一郎は再び口を開くとこれからのことを静かに語り始めた。

「永遠の巡り合いが始まるんだね。これからも‥君と僕‥パルとレアの‥」

「お兄ちゃん‥」

「僕には、何度も生まれ変わってきた君の様々な時代の姿が思い出されて‥火星人の原子体には、地球上でいう男女のような性の区別は無い。原子体と原子体の結合によって新しい命の種ともいうべき結合体は生み出されるが、そこには地球上でいう結婚に至るような相思相愛のラブ‥つまり愛情といった感情は生まれない。勿論仲間を大切に思う気持ちはあるが、好きといった感情ではない。だが僕達は違う。少なくとも地球人として生きてきた僕達には、当然のように地球人が抱く愛情が生まれるもの、生まれて当然なんだ。」

「お兄ちゃん‥」

レアである私を見つめる彼の目は、何故かひどく寂しげで切ないものだった。私は自然に記憶の奥底にある筈の、いつも自分を見守ってくれていた誰かの存在を何とか思い出そうとしていた。

ある時は兄、ある時は幼馴染み、そしてある時は‥とにかくいつの時代も、姿を見ただけで安心して笑顔を見せる事が出来る存在があったのだ。あれがパルだったのだろうか‥

「レア‥」

ふとお兄ちゃんが私を異星人の名前で呼んだ。そして私もパルを見る。不思議なことに異星人の名前で呼ばれても全く違和感は無かった。パルは気を取り直すように、そして又自分を励ますように言葉を繋いだ。

「僕達はこのまま地球人として生きていく。地球には僕達と同じ立場の人間もいるが、彼らと触れ合っても君は気付く事は出来ない。僕にはわかるが‥そして僕は、これからも君が生まれ変わる度に君のすぐ近くで君を見守っていくんだ。今までと同じように‥」

「パル‥」

「時が再び動き出せば、今の会話の全てが君の頭から消えることになる。それでも君は、僕にとって大切な人だ。恐らく今地球上にいる我々の仲間の誰よりも‥」

「お兄ちゃん‥」

私を見るパルの目は、益々寂しげに見えた。然し自分の心を奮い立たせるようにパルは語り続ける。

「これが多分地球人が抱くラブ‥愛情といった感情なのだろう。それだけ僕は、地球人に溶け込んできたということかな。僕はずっと君を好きだった。何千年も何百年も君を見続けてきて、この感情を抱くようになった。だがそれは、異星人として生きていく為にはある意味不必要な思い‥持つべきものではなかったんだ。仲間からもそう言われた。完璧に地球人として生きていける君達と違って、僕達は絶対に地球人ソノモノにはなれないのだから余計な感情は抱くなと‥でも気持ちは抑えられない‥これからもこの気持ちを抱いたまま、僕は君レアとの永遠の巡りあいを続け無けならない。そう考えると虚しさもあるが、どうすることも出来ない‥」

「パル‥」

私にはその時漸くパルの寂しげな表情の意味がわかったような気がした。同時にパルが私に抱いていたのと同じ思いを、間違いなく私もパルに抱いていることを自覚していた。この出来事が起きた時、最初に聞いたあのギリの声とは別にパルの存在を意識した時から、私には何故か不思議な程の安堵感あったのだ。私も確かにパルに好意を寄せている。今まで幾度となく繰り返されてきた巡りあいの中で、ずっと彼を愛し続けてきたのだ。たとえ完全に思い出せなくても‥これまで通り地球人としていくという彼の決意を知って嬉しく思ったのは、やはり、否絶対に彼と離れたくなかったからなのだ。

「お兄ちゃん‥」

ふと見るとパルは、何故か目を閉じて微動だにしない。私は不安に駆られたが、黙って待つしかなかった。暫くそのまま目を閉じていたパルは、漸く目を開けると静かに口をした。

「今、仲間に僕達の意志を伝えた。僕達の仲間は太陽系から永久に去り、二度と僕達の所へは戻って来ないそうだ。仲間の落胆ぶりは理解出来る。彼らが落ち込むのは当然なんだ。彼らは遠い昔火星を去る時、いずれ故郷に戻って来れる日がくるように、そしてまだ生命が生まれたばかりの地球を見守る為にもこの星に生命の種を残して旅立ったんだ。それなのに‥地球人は自我に固執し自分達の科学力におぼれ、自滅の道を辿ろうとした。仲間が怒るのも無理はない。」

「もう二度と来てくれないの。地球人にも素晴らしい人達は沢山いるわ!そんな人達が正当な手段で力を得て秩序を保てば、真の平和を取り戻せるかもしれないのに」

「無理だ‥もう時間切れだ‥」

パルは私の言葉に即答すると、名残惜しそうにゆっくり口を開いた。

「時間だ‥時を戻さなければならない‥」

「時間を‥戻す?」

何もかもが静止している世界で、私は二人だけが言葉を交わしているような気がしていたが、現実ではこの星で火星の原子を持つ者同士が思いも寄らない事態に直面したこの星の未来に自分達で未来を重ね合わせ、自分達はどんな道を選ぶのか‥大切な話し合いはそれぞれ続いていたのだ。勿論私は自分とパルの事しか頭になかったが‥そんな掛け替えのない時間が終わろうとしている‥私は堪らない気持ちになり、縋るような目でお兄ちゃんを見て訴えた。

「時間を戻したら、私は今あった事を全て忘れてしまうんでしょう?ギリのこともあなたがパルであることも‥あなたはそのままなのに‥そして私は、これから地球人そのものになって生きていくの?あなたのことも私が本当は火星人の原子体を持つ異星人であることも、そして地球の危機をギリが命を捨ててまで救ってくれたことも何もかも忘れてしまうの?」

覚えていたい。少なくとも何度も生まれ変わりながらその度に自分を見守ってくれてきたパルの存在だけでも‥

忘れたくないのだ。私は心から願い、パルの存在だけでも記憶から消さないでくれと必死に訴えた。だがパルは、そんな私に悲しそうな表情のまま首を横に振るだけだった。暫くして気を取り直したのか、涙を浮かべる私を励ますようにお兄ちゃんは明るい声で口を開いた。それは同時に自分を奮い立たせるようにも思えた。

「いいかい?これは決して別れじゃないんだよ。これからも君と僕は会えるんだ。この先繰り返されるそれぞれの人生で、何度も巡り会うことになる。これは新たなる人生の始まりなんだ。君の今の記憶は無くなるが、君を見守る僕という存在は必ず感じ取れるようになる。」

「それは本当なの?記憶が消えても‥?」

「ああ、僕はいつでも君のそばにいる。だから心配しないで‥さよなら、レアである君とはもうお別れだ‥もうレアとは呼べない‥」

「お兄ちゃん!」

パルの声を聞きながら私は周囲を白い霧のようなものが覆うのがわかった。

「これは‥」

意識があるのはそこまでだった。パルの姿が次第に薄れ、見えなくなったかと思うと次の瞬間‥その時はいきなりきた‥

「お母さん、何してるの?お弁当早く!学校に遅れちゃう!」

娘の理恵の声がぼんやり突っ立ってる亜希子を急かす。

「えっええ‥ごめんなさい‥」

「どうしたんだ?ぼんやりして‥」

「いえ、何でもないわ‥お弁当ね!はい!」

出勤の身支度で忙しそうな夫の正史が声をかけるが、それまでの出来事が全て記憶から消し去られている亜希子はすぐに平凡な主婦としての日常を取り戻し、いつものように朝の食卓を忙しく動き回るのだった。

5

私は死んだ。間違いなくそう思った。何気なく見上げた空に一筋の閃光を見た時、恐れていたものが私の住むこの街の頭上で牙を剥いたのを私は悟った。

(終わった‥)

私は目を閉じ、静かにその時が訪れるのを待った。爆風があらゆるものを破壊し尽くし、この身体は数千度の熱線に溶かされる‥

(苦しくありませんように‥安らかに死ねますように‥)

恐怖の瞬間を前にそれでも心の中で祈らずにはおれない。だが核兵器が頭上で炸裂してしまった以上、穏やかな死などあり得ない事だった。広島、長崎の惨状は日本人なら誰でもが熟知している。あれから八十年近く経っている現在、核兵器の威力は実際に人々が暮らす世界に落とされたあの時よりも、格段に上がっている筈だった。

(許さない💢私達が何をしたというの?)

  • 死への恐怖にさらされながら、私の心はそれでもこの事態を引き起こした当事者への怒りに打ち震えていた。彼等は世界のルールを無視し、核兵器やミサイルを開発しては実験を繰り返して全世界から嫌われていた。世界中から非難され制裁を受けていたその国は、絶対的な専制君主制を取る独裁軍事国家であり、そんな国が世界に受け入れられることなど普通考えられない。だがそんな国でも友好国は確かに存在し、そしてその友好国が影響力を行使した為に軍事国家の暴走はある程度抑えられていたともいえる。だがここ数年はその暴走が目に余るものとなり、友好国と見られていた国も次第に苛立ち冷たい視線を向けるまでになっていた‥その厄介な国が隣国といえる位置にある以上私も生活していて不安を感じない訳ではなかったが、それでもこの二十一世紀になった今になって、まさか現実に核戦争が勃発するなど思ってもみなかったのだ。

(私達は死ぬ‥でもあなた達も死ぬ‥そして大勢の人が死ぬ。たった一人の独裁者のせいで‥その男が支配する独裁国家が存在し続けた為に‥)

そこまで考えた時、私はふと穏やかな時がそのまま続いている事に気付き、死の苦しみを味わう事なく死んだという自覚も無いまま、もう天国にきたのかと思った。出来ればそうありたい。安らかな死を願っていた筈なのだが、まさか現実にそうなるとは思わなかった。だが‥何かがおかしい。確かにけたたましいサイレンの音と同時に核‥兵器なのかわからないものの恐ろしい飛来物の襲来を認識した筈なのだ。それらしい光も見た。同時にメディアからとも現実の世界からとも判別がつかない、沢山の悲鳴や叫び声も聞いた。だが、一瞬でここまで静まるものだろうか‥

混乱したまま直ぐに空を見る。炸裂した筈の核は?閃光は?やはり頭上に見える。たとえ時が止まってもあれが取り除かれない限り、死は免れないだろう。そんな絶望的な感情が頭に浮かんだ時だった。不意に頭の中に声が響いた。

(心配しなくてもいい。このエネルギーは我々が我々の力で消滅させる‥)

(えっ‥)

私は驚いて思わず周囲に目をやった。すると全てが止まってると思った風景のは中で、私を見つめる一人の人物の姿を見かけた。

[お兄ちゃん!]

一瞬夢かと思った。だがその人物筈の静止していない。私は驚いたものの同時にホッとし安堵したのだった。

私は訳が分からずに外に目をやり空にも目を向けた。するとそこには信じられない光景が広がっていた。恐怖に顔を歪め体を屈めてうずくまる人、ただ必死に逃げようとしている人、なす術もなく立ち尽くすだけの人もいた。だが、どう見ても彼等は全く動いていないのだ。そして私がそれまでいたと思われる家‥その室内には夫‥?息子‥?娘‥?つい先程まで同じ時を過ごしていたらしい家族と呼べる三人が、他の人達と同様恐怖の表情をしたままやはり立ち止まったまま動かない。私は混乱の坩堝に突き落とされた。同時に自分が何処の誰かも思い出せなくなったのだった。

(落ち着け、落ち着け‥これは夢、私は夢を見てるのよ!絶対そう‥)

だがいくら自分に言い聞かせても、状況は何も変わらなかった。そして私反省やっと気付いたのだ。

(時間が‥止まってるの?)

不思議なことに自分が誰なのかさえ俄に思い出せないのに、私はその人物を覚えていたのだ。その人物は本当の兄ではなく、確か従兄弟で兄のように慕っていた誠一郎だった。身なりからしてこの家の主婦という立場だったらしい自分なのに、その記憶も無いのに何故彼のことだけは覚えているのだろう。それとも自分はとっくに死んでしまって、これは死後の世界の出来事なのか?すると混乱し続ける私の頭の中に、謎の声が再び響いた。

(君は死んではいない。君は我々と同じ、地球で言うところの遺伝子を受け継いでいる我々の仲間なのだ‥)

(えっ‥)

謎の言葉は更に続く。

混乱しつつもその従兄弟の方へ目をやると、周囲のあらゆものが静止しているのに彼はただ笑顔でも頷くだけ‥だが謎の声は明らかに彼の声ではなかった。笑顔でも彼の口は閉じたままなのだ。

(あなたは誰?これは一体どうなっているの?)

当然のように沸く疑問を、私はその声にぶつけた。するとその重々しい口調の声は、直ぐにはとても信じられないことを、私に語り続けるのだった。

(我々は太古の昔、地球人が今火星と呼んでいるその星に住んでいた。地球人にとって我々は異星人だが、同時に太陽系の惑星に住む仲間でもあったのだ。地球よりかなり早く文明を極めた我々だったが、ある時環境の激変でかなり昔に火星は我々の住める星ではなくなった。我々は住める星を求めて、太陽系から旅立たねばならなくなった。)

声は語り続ける。

(地球はまだその時、今のように生物が生息出来る環境ではなかった。だが我々は故郷である火星は勿論、地球の事も決して忘れてはいなかった。離れていてもずっとこの星を見守っていた。いずれ火星、そして太陽系に戻りたいと願っていたから‥)

(そんな‥そんなSF信じられるわけが‥)

(ないか?ではお前が今見ている状況は一体何なのだ?夢だと思うのか?それともお前が思ってる通り、死後の世界の出来事だとでも言うのか?)

(だって、核が頭の上にあるのよ!そのエネルギーを吸収して地球上に全く被害を及ぼさないで消滅させるなんてそんなこと‥)

(我々には出来る‥)

(出来る?)

(ああ、今時間を止めてお前の頭に直接語りかけているのも我々だから出来ることだ。)

(それは‥テレパシー?あなたはもしかして、テレパシーで私の頭に直接語りかけてるの?私はあなた方と同じ?人間じゃないの?でも私は、確かにこの家の人間だった筈よ!母親?主婦?きっとそうよ!そんな立場の人間だった時の記憶は無いけど、私の今の姿はこの家の奥さんだった事を示してる。でも今の私はその時の記憶を思い出せない。だけど私は人間よ!怪我すれば赤い血が流れるし、病気にだってなる。なる筈よ!いきなりあなた方の仲間だなんて言われても‥)

(混乱するのも無理はない。君の身体の構造は殆ど人‥つまり地球人と変わりないからね。だが君の身体の根本にある原子とでも言うべきものは、我々が曾て太陽系を去る時残していった命のタネそのものなのだ。)

(命の‥タネ‥それは何なの?)

(詳しく説明する為には、君を我々の仲間であった時から過去を遡り記憶を甦らせなければならないが、今はそんな時間は無いのだ。でもそれが君自身にある限り、君は永遠に死ぬことはない。)

(命のタネ‥)

声は混乱しながらも自分が地球人だと主張する私の思いをあくまで否定し、諭すように穏やかな声ながらそれでいて信じ難い内容の話を語り続けるのだった。

(我々は地球でどんな生物が生まれてどんな進化を遂げても、その生物が穏やかに平穏に生きていけることを望んでいた。地球人が自らの力に奢る余り、争いで滅びるようなこと絶対に避けたかった。救いようのない未来になるのは、絶対に止めたかったんだ。だがこの星で初めて核兵器が使われた時、我々は止めることが出来なかった。)

(ヒロシマ‥ナガサキ‥)

あの惨状は日本人なら必ず記憶の奥底に留めている筈だ。そして声は静かに続けのだった。

(そうだ、でも三度目は許さない。我々が止める。だから今回は我々が助けるのだ。そして核のボタンを押した愚かな地球人、その存在は我々が駆逐する。地球上で生きる資格のない地球人だから我々が連れて行く。)

(連れて行く?)

(そうだ、それは我々が強制的に生まれ変わらせるということを意味する。牙を抜いた上で記憶を消し、この星に戻す。その後のことは我々は関知しない。今の地球の現状を思えば、駆逐すべき人間は決して一人ではないように思えるが、直接核戦争の引き金を引いた人間だけを、今は連れて行くことにしている。)

(どうして、どうしてあなた方はそんなに地球のことを思ってくれるの?核戦争を止めてその上引き金を引こうとした人間を排除しようとまでしてくれる‥何故?)

全てがあり得ない信じられない状況の中で、私自身自然にその話、そして謎の声との会話を受け入れ続けていることに我ながら驚いていた。それでも声の主である彼等の意図は、やっぱり聞かずにはおれなかった。声はそんな私の問いかけに静かに答える。

(我々が命の種を植え付けたのは君だけではない。全てのものが静止しているこの世界で、今君を笑顔で見つめているあの男も、君と同じ火星人の原子を持つ我々の仲間であり、地球上には君と同じ火星人の明確な子孫である地球人が百数十名程いる。それだけではない。我々が植え付けた命の種は、人以外の生き物や植物にも影響を与えており、この星に生命が誕生したその時からこの星の発展を陰で支えてきたのだ。はっきり言うがこの星自体我々火星人にとって、子供のような存在なのだ。だから滅亡等絶対にさせない。我々が許さない、必ず止める‥止めてみせる‥)

(だけど、核兵器は一度ならず二度も使われてしまったわ。そして何の罪もない大勢の人達が死んだ‥)

そこまでこの星のことを思ってくれていたのなら何故その時、最初に使われる前に止めてくれなかったのだ。あの惨状を知っている日本人だからこそ、やはりその言葉は口をついて出る。すると声は、今度は少し厳しい響きをもって私に答えるのだった。

(地球人の科学力がどれだけ発達しようと、それを愚かな行為に利用するならその星自体見捨てられても仕方のないことだ。原子力を兵器として使うことを思いついた地球人が核兵器を生み出してしまった時、遥か遠い宇宙にあってその事実を知った我々は、地球人の愚かさに憤慨しもうこの星を見捨てようとまで思った。そして核兵器は初めてこの星に生きる人々の上に落とされ、数万もの人々が亡くなった。)

(私たち‥日本人‥)

(ああ‥殆どがそう‥ただ、地球人が核兵器という作り出してはならない最終兵器を使用して悲劇は起きたが、それは地球人同士が核兵器で殺し合い地球滅亡に至る最終戦争には繋がらなかった。我々はその事実を確認した上で、核兵器の真の恐ろしさを地球人が思い知るべきだったのだとそういう結論に達したのだ。)

(だからヒロシマ、ナガサキは見捨てたの)

(勘違いしてもらったら困る。核兵器を生み出してしまったのは地球人自身だ‥我々は地球人の知能の高さや科学力の進化のスピードを見るにつけ、こういう悲惨な事が起きるのではないかとずっと危惧していた。そして我々が危惧していた通り、地球人はいつしか地球の主のように振る舞いこの美しい星に生まれて生きていける喜びを忘れてしまっていた。そして驕り高ぶった彼等は、到頭踏み込んではならない領域に足を踏み入れてしまった。)

(地球人がいつか核兵器のような作ってはならない兵器を作って、殺し合いをする事がないように願ってた‥地球の未来を案じていたのね。)

(ああ、確かにその不安はずっとあった。知能の高さゆえに争いは起きるのかもしれないが、我々はそれでも地球人が自ら滅亡するような方向に進まない事を願ってたんだ。我々は我々が住める星を求めて宇宙を旅する中で、自らの過ちで滅亡に至ったそんな星を幾つか目にしてきた。決して多くはないが‥もしかして地球も同じ運命を辿るのではないかと、本当に心配していたんだ‥)

(地球も自らの力を過信するあまり滅んでしまった、愚かな星の一つになりかねないと‥)

(その通りだ。だから今度は我々が介入して核戦争は止める‥仲間の為にも‥)

(仲間?)

(ああ、君も仲間だ。君の中の原子は世界に散らばって人間として生きている百数十名の我々の仲間と同じ、つまり君達は我々と同じ命の種を宿している。仲間がいる以上我々はこの星を見捨てるわけにはいかない。)

(わからない、わからないわ!いきなりそんな、自分が人間でないと言われても‥だったら私は死なないの?)

私と謎の声との会話は永遠に続くかと思われた。だがその時だった。

(ギリ、後は私が彼女に話します。もうこれ以上時間を止めておく事は出來ません。行って下さい!)

突然全く別の声が、私と謎の声との会話に割り込んできた。

(えっ‥?)

だが割り込んできたのは声だけではなかった。次の瞬間従兄弟だと記憶していた筈のあのいつもお兄ちゃんと呼んでいたその男が私の目の前に立っていた。

「あっ、あなたは‥」

やっと声が出た。と同時に今まで自分に語りかけていた謎の声の存在が私の頭の中で消えたのを私ははっきり悟った。彼は混乱する私を前にゆっくり笑みを浮かべると、静かに口を開いた。だが彼が話すその内容は、今までの謎の声と同様やはり私にとってとても信じられないものだったのである。

「君と同じで、僕も地球人ではない。地球人のDNAはあるが、原子に戻れば君や今まで君と属にいうテレパシーで会話していたギリと同じ火星人だ。」

そこまで話すと彼はどこか懐かしそうな表情になり、私にとにかく座るように促すと話を続けた。考えてみれば、地球人の女性として生きてきた記憶を取り戻せないのにお兄ちゃんの事だけを覚えているのも不思議な話だった。その話はやはり信じられない内容だったが、それでいて潜在記憶があるのか、何故か心の片隅に受け入れる事が出来るようなそんな話だった。パル‥地球人の名前が誠一郎である彼は語る。

「僕の名はパル、君と会うのはううん、何度目だろう。数百回にもなるかな。」

「数百回?」

「ああ、君は地球人として太古の昔から何度も生まれ変わってきた。その都度僕は、君の近くでずっと君を見守ってきたんだ。そして今、やっとパルとして話せる。そんな状態になったのは、勿論核ミサイルのボタンが押されたせいだが‥」

「会うのは数百回、見守ってきた?どういうこと?第一あなたには異星人としての記憶があるようだけど、私には全く無いわ。あなた方が何と言おうと私はやっぱり地球人なのよ!絶対そうよ!」

「違う、君は間違いなく我々と同じ火星人の原子を持つ我々の仲間だ。」

「だったら、だったら何故‥?」

当然の疑問を投げかける私に、パルは根気強く話し続ける。その内容はどこまでも信じられないものだったが、私はもう否定しようとは思わなかったし正直する気ににもならなかった。あの頭上で炸裂する核爆弾の閃光を目にした時から、現実に彼等の話を受け入れない訳にはいかなくなったのだ。

何より地球を本当に核戦争の危機から救ってくれるなら有り難い事だし、だからこそそんな彼等の言うことには耳を傾けない訳にはいかない。私は今、確かにそんな気持ちになっていた。ただ、自分が地球人ではなく彼等と同じ異星人だという話はやはり受け入れる気持ちにはなれなかった。すると言葉にしなくともそんな私の思いが伝わるのか、彼は優しく声をかける。

「君と僕の記憶の違いは、この星が危機的状況に陥った時それを遠く離れた仲間に伝える為の通信機能をそれぞれの原子に埋め込まれているか否かによる。君の原子には埋め込まれていない。だから君は火星人の原子を持った上で地球人のDNAを持つ地球人として生まれた。だから地球人としての記憶しかないのだ。」

呆然とする私を前にお兄ちゃんの話は続く。

「そして地球人として一生を終え、我々と同じ原子を持ったまま再び地球人として生まれ変わる。君は地球人で言う女性、僕は男性として‥そして僕等は何千年もの人の歴史の中で、異なる人生を生きて何度も巡り合ってきた。ある時は兄妹、ある時は親子、ある時は恋人として‥そして今の君の人生では僕は頼りになる従兄弟‥一人っ子として生まれた君からは、お兄ちゃんと呼ばれ慕われてきた存在だ‥」

「お兄ちゃん‥」そうだ、その時私は、この非常事態が起きる前の平穏に暮らしていた頃の記憶が、一枚ずつベールが剥がれるように少しずつ戻ってくるのをはっきり感じていた。

私は日本という平和な国に生まれ育ったごく平凡な女性‥活発な方ではなく、どちらかと言えば大人しくて地味な性格でそれ相応に勉強も出来て普通に就職し恋愛も出来て結婚、出産‥母親になった。普通の人が辿るありきたりの人生を送ってきただけの、平凡な人間だった。

「そう、その通り‥だがそのありきたりの人生を送っていた普通の人々の当たり前の幸せが今壊されようとしていたのだ。」

彼は言葉にしなくても私の考えていることがわかるらしく、今起きている厳しい現実について私が何も言わなくてもすぐに言及した。その上で今度は私を優しく諭すように話を続けるのだった。

「さっき言った事がわかるかい?僕達は夫婦という立場にだけはなった事がないんだ。恋人同士という立場になったことは一度だけあるけど、それは歴史上とても厳しい時代背景の元で、その時は二人共戦争によって命を奪われている。僕達は異星人の原子の元に地球人のDNAを持つことは出来るが、セックスは出来ない。子供は作れないんだ。君は胎内に地球人の精子を宿し、地球人を生むことは出来る。然し我々の間では地球人の子供は生まれない。二人共元は火星人だからね。僕達が持つ異星人の原子が地球人のDNAを上回って異形のものが生まれてしまう。」

私はまだ混乱していたが彼‥お兄ちゃんの穏やかな口調に次第に気持ちが解れ心が静まるのを感じた。そしてあくまで地球人らしく、自分の思いを言葉にして表す。

「あなたのこと何と呼べばいいの?パル‥?それとも誠一郎?」

「今まで通り君は僕のことのお兄ちゃんと呼ぶんだよ、絶対に‥」

「あなたには異星人としての記憶というか意識があるけど、私には全く無い。それは何故?その通信機能があれば、私も自分が異星人だと自覚出来るの?自覚することがあるの?私が何度も生まれ変わってきた、いわば前世の記憶まで思い出すことが出来るの?それについさっきまで私と話してたというか、私の頭に直接話しかけていた、あなたがギリと呼んでいたあの声の主は何者?」

するとパルは私の立て続けの質問に臆する事なく、穏やかに答えた。

「ギリは我々のリーダー、この星を守るいわば総司令官といったところかな。」

「リーダー‥」

「そうだ。あの閃光を見た火星人は勿論君だけじゃない。彼は地球人として生きる火星人の原子を持ち君のように通信機能を持たない、つまり記憶のない火星人型人間に直接テレパシーで話しかけていた。君もその中の一人なんだ。そして‥彼はこの星を守るという使命を果たした。その為に、ギリ自身の原子は消滅してしまったが‥」

「消滅?それはどういうこと?」

あの恐ろしいエネルギーは我々が消滅させると確かに謎の声は言ったが‥でもいくら異星人でもそのようなことが本当に可能なのか‥そんな私の疑念を汲み取ったのか、パルこと誠一郎はとてつもないことをこれまたさらりと言ってのけるのだった。

「勿論核のエネルギーは地球に落とさせないにしても、宇宙空間にも発散させるわけにもいかない。もしそんな事をしたら、宇宙空間にどんな影響があるかわからないからね。生物が生息している星にもどんな被害が及ぶか‥だから彼が時空を越えてブラックホール、いわば宇宙のゴミ捨て場に命がけで捨てに行ったんだ。」

「えっ‥まさか‥」

「ブラックホールだよ、命がけでというより命を捨てて核のエネルギーをそこに‥宇宙自体に影響が及ばない場所に‥」

「そこまでして地球を救ってくれたの?」

「そうだよ、勿論ギリも無事に戻っては来れない。原子体としてのギリはブラックホールで消滅してしまうだろう。それはこの地球上で言うところのいわば死を意味する。」

「死‥?あの声の主、ギリっていう彼は死んでしまったということなの?」

唖然とする私に、パルは幾分かの腹立たしさを込めて答えた。

「そうだ。地球上ではそういう言い方をする。勿論地球人の愚かな行為を命を捨ててまで止める必要はないと、そう主張する我々の仲間は多い。もう、見捨てるべきだと‥僕だってそう思った。だが曾て我々火星人がそうだったように、生命体が生息可能な星の環境の元進化し、その文明を発展させていく過程において進化すればする程その‥驕りといった感情‥自己中心的な考えが一部の生命体には生まれてくるものなのだ。その結果、必ず争いが起きる。奇跡的な確率で生まれた生き物が生きていけるこの貴重な安息の地なのに大切にするという意識もなく、自ら汚し傷つけようとする。愚かなことだが‥」

「地球人が‥」

「そう‥地球人が滅んでも自業自得で仕方のないことなのだが然し‥地球は我々の故郷である火星と同じ太陽系の星、いわば同胞のような存在だ。そして火星に住むことが出来なくなった我々は宇宙に旅立つことになり、その時我々はまだ命が誕生する前の赤子のような星である地球に命が根付く事を予期して命の種を残していった。ギリに聞いただろう?この星には君もその中の一人だが、我々の仲間がいるのだ。だから見捨てる訳にはいかない。救わねばならなかった。」

「でも‥命を捨ててまで‥」

先程まだ話していたギリがもういないと思うと、私は彼にとても済まない気持ちになり思わず声を詰まらせた。

「命を捨ててまで‥地球の為に‥」。

「心配しなくてもいい。地球で言う死とは加齢や病気で生命体の一切の機能が停止し復元が不可能なことを指すが、我々の原子体は消滅しても又復元出来る。つまりギリの原子体は又作り直せるのだ。」

「えっ‥つまりクローン?それともギリの双子を作れるという事?」

淡々としたパルの言葉に私は拍子抜けして呆気に取られながら尋ねた。するとパルはそんな私の姿を見て、やっと人間らしい笑顔を見せてくれたのだった。

「パル‥?」

「クローンか‥確かにギリのような重大な使命を果たした存在は、復活する権利を有する。それを行使するかどうかは本人が決めることだが‥」

「ギリは復活を望んでないことも有り得るの?」

パルは私のその質問には答えず、遠くを見るような眼差しで静かに口を開いた。

「それは私にはわからない。ああ、これから先は君を地球人名でいう亜希子と呼ぶね。その方が君にもしっくりくると思うから‥」

パルは優しく頷くと、私を初めて地球人の名前の亜希子と呼んでくれた。だがその名前は、今の私には全く聞き覚えのないものだった。

「亜希子‥君の名は日野亜希子、僕の名は村岡誠一郎‥それが地球人としての僕達の名前だ。君は普通のサラリーマンであるご主人と恋愛結婚して二人の子供を儲けた。長男は悟、長女は理恵‥中学三年と一年で核ミサイルのボタンが押されたのは、そんな普通の家族が当たり前に過ごしていた日常のひとコマ‥丁度朝食時だった。自暴自棄になった独裁者の暴挙が、穏やかに過ごしていた多くの地球人から平穏な日常を奪ったんだ。」

パルは核ミサイルを押した独裁者への怒りを露わにしながら話を続けるのだった。

「そいつはやけになったんだ。その国は世界中のどの国からも相手にされなくなり、世界の公的機関から課された制裁で国内では色々なものが手に入らなくなった。国民を飢えさせても独裁者でいたかったそいつは次第に孤立し、自分の側近からも離反の動きが相次いだ。そいつは核保有国になることで自分の立場を世界中に認めさせようと目論んだが、悉くうまくいかなかった。今時を止めて火星人としての君に直接話しているが、ここで時間が再び動き出したら、君は又普通の日本人の主婦日野亜希子に戻る。僕との会話も記憶に残らないことになる。だから今、敢えて君に話した。君の原子に僕と同じ通信機能を持たせて、僕と同じ火星人としての意識を残したいのか、迷ったが君に選ばせる為に‥」

「私に‥選ばせる‥」

どういうこと?言ってる意味がわからず戸惑う私に、パルは優しい口調だがそれでもしっかり究極の選択を迫るのだった。

「地球人名は誠一郎だが、僕は異星人の仲間からはパルと呼ばれている。君にもやはり火星人の名前があるんだ。それを教えるかどうかは、今君の選択にかかっている。つまりこのまま記憶を戻してギリが言った事も僕の話も君の記憶から消し去り、核戦争の危機が我々の力で取り除かれた事も忘れて、このまま地球人としての意識だけを持って生きていくか、それとも僕と同じように原子体に通信機能を埋め込んで、火星人としての意識を持ち合わせて生きていくか、亜希子‥それを今、君自身で選んで欲しいということだ‥」

「私が‥?どうすればいいの?」

戸惑いつつも続ける。

「それは火星人としての名前を私が知りたいかということ?私があなたと同じ立場になったら知ることになる。つまり‥そういう事なのね。」

「ああ、よくわかってる。やはり君は僕達の仲間だ。」

パルはしっかり頷いて答えたが、私はいくら肯定されてもやはり信じられるものではなかった。それでも納得しなければならない。今の状況が彼の話が事実である事を何よりも証明している。だがそうすぐに答えが出るものではない。戸惑うばかりの私にお兄ちゃんである誠一郎は静かに目を閉じると、遠い昔に思いを馳せるように私にある種の思念を送った。すると不思議なことに私の脳裏には古代からの様々な人生が浮かび、その都度生きてきた私の前世の記憶が鮮やかに蘇ってくるのだった。

「これは‥」

驚く私に、パルは静かに語りかける。

「亜希子‥今君が見ているのは、君の原子に刻まれた地球人として何度も生まれ変わって送ったその人生の全ての記憶だ。僕は、君の前世の記憶を開放することが出来る。思い出したかい?平安時代では君は有能な女官であり、鎌倉時代では平凡な農婦だった。だがそれも途中までで、結局戦に巻き込まれて殺されている。戦国時代は‥有力大名の家臣の娘に生まれたが、夫の戦死で出家して尼となって生涯を閉じた。江戸時代は平凡な町娘だな。だが商才に長けて嫁いだ先で夫を助けて家を切り盛りしている。」

「まあ‥」

今の私には驚きしかなかったが、確かに彼の話した通りの人生がその時何を思ってどう生きてきたのか、何故かしっかり思い出すことが出来るのだ。更に彼は戸惑う私に構わず、話を続けるのだった。

「時代は明治‥君は日本初の女子大に通い、卒業した後教師となっている。教職に就き教育に身を捧げた君は、恋愛も経験し一時仕事を辞めて家庭に入るか思い悩んだが結局結婚を諦め一生独身を通した。その後太平洋戦争では犠牲になってるな、空襲で‥そして今、令和の時代に生きる君や僕の人生の途上で、我々が最も恐れていた事が起きたんだ。」

「核戦争が‥始まろうとした‥」

「そうだ。皮肉なことに人間がどんなに愚かな生き物か、最新科学が発達した今現代で証明されようとしたのだ。」

そこまで言うと彼は、これ以上ないぐらい悲しげな表情を見せるのだった。更に彼は強い口調で、私に思いがけない事を告げる。

彼は私に更なる選択を迫った。

「我々は一度は地球人を助けた。大きな犠牲が払ったが‥だが二度とは助けない。もうこの星を見守るのを止めて、この星から離れようと思う。仲間からそういう結論に達したという連絡がきたんだ。だから我々の仲間である君達、地球型火星人に意志は確認する必要があったんだ。その為に今、君に全てを話した。」

「えっ‥どういうこと?」

いきなりそんな事を言われても‥パルこと誠一郎が言っている話の意味がわからず、私は混乱して聞き返す。だが、本当はわかっていたのだ。私の中にある異星人としての原子体が、既に理解していたというより出来ていた。彼等は今核戦争を引き起こそうとした地球人に怒り、地球を見捨てようとしている。

きっとそういうことなのだ。だからこの星に永遠に別れを告げようとしている今、元々自分達と同じ仲間の火星人の原子を持つ百数十名の人間に、このまま地球人として生きるのかそれとも原子体に戻って異星人として彼等と共に宇宙を旅するのか自分で選ぶようにということなのだろう。何故そこまで考える事が出来たのかわからないが、私にはパルの言わんとすることが手に取るように理解出来た。パルや、ギリが言う通りやっぱり私はこの星の住人ではない、異星人なのだ。途切れ途切れの記憶しか無いが‥するとパルは私の思いがわかるのかやはり悲しげな表情で何も言わずに頷いた。そして静かに口を開く。

「君が考えてる通りだ。火星が最早安住の地になる見込みが無い以上、我々は二度と帰らない決意で旅立たねばならない。今の君は僕と同じ立場だ。通信装置を外し今まで繰り返してきた人として生きた人生の記憶を全て消し去って、このまま地球人として生きていくか、それとも彼等と共に安住の地を求めて旅立つか、君は僕と同じように選ばなければならない。」

「このままじゃ駄目なの?このままじゃ‥」

溢れる思いより先に私は声が出ていた。まだ自分が彼等と同じ異星人とは信じられなかったが、それでも彼等‥そしてパルにもいなくなってほしくなかった。私は思わずパルに、そしてテレパシーでしか語りかけられない存在である遠くの仲間に向かって訴えていた。

「パル、あなたの仲間は今何処にいるの。みんないずれ火星が昔のように住める‥ようになったら、火星に戻ろうと思っていたのでしょう?そして兄弟星ともいえる地球を愛してくれていた。地球人の進化を見越し命の種を植え付けて‥平和な発展を願って見守ってた‥そんな優しい目を裏切って核戦争を起こそうとした地球人は、本当に愚かでどうしようもない存在だと思う。でも、地球人全てが愚かなことをしようとした訳じゃない。一日一日をただひたすら懸命に生きている人が殆どなのよ。それでも一部の愚か過ぎる人々の行動によって争いは起きてしまうものなの。お願いだから今まで通り見守っていてくれる訳にはいかないの?」

地球人であり異星人でもある私が心から訴えたその言葉にパルは‥そして地球を核戦争から救ってくれた仲間は冷たく言い放つ。

「駄目だ、これはもう決まったことなのだ。我々の仲間は宇宙を旅しながら我々の故郷である火星‥そして生まれたばかりの地球人の未来をずっと案じてきた。だが地球人は我々の思いを裏切り、やはり過ちを犯してしまった。」

「パル‥?」

そこで不思議な事に私は気付いた。パルの声が二重に聞こえる。パルの言い方も先程までのように親しかったお兄ちゃんらしい言い方ではなく、その前に話していたギリの時と同じ言い方になっていた。

「もしや‥」私は思った。二重に聞こえる声は火星人の仲間の声?彼等はパルの口を借りて私や同じ立場にいるという百数十名の火星生まれの地球人と直接話しているのではないか‥するとパルは私の考えていることがわかったらしく、いきなり頷いて答える。

「その通りだ。我々は今地球で生きてきた仲間でもある君達に、究極の選択を迫っている。我々は我々が生きていける科学の粋を極めた宇宙船で宇宙を旅していて、安住の地をずっと探し続けてきた。だがわざわざ定住しなくても我々は今の状態を続けていられる。それだけの科学力もある。このままこの船で宇宙を旅し続けても、全く支障は無いのだ。我々は寧ろ今、その方がいいとさえ考えている。」

「えっ‥」

それはどういう事?もう地球を見限ってしまうということなのか?そして地球で暮らす仲間にこのまま地球人として生きるのか、火星人として仲間の元に戻るのか自分達で判断するようにと‥するとパルは突然誠一郎に戻り人間らしい笑みを見せると、私を亜希子と地球人の名前で呼んで、彼等が言わんとする事の意味を教えてくれたのだった。

「亜希子‥僕達は地球人愚かだと言ったが、愚かなのは決して地球人だけではない。地球のように折角命が育まれる奇跡的な環境に恵まれながら、争いが起こり憎み合うことを止められず、戦争で自滅していった星を僕達は今まで沢山見てきたんだ。どれだけそんな星があったか僕は直接見聞きしてきたわけでは無いが、仲間とは必ず連絡を取り合ってきたからね。だから言えることなんだ。みんな辟易している‥何故自分達の故郷で穏やかに生きていけることに感謝しないのか‥命の危険もなく住み続けられることを有り難いと思わないのかと‥その上今までずっと見守てきた地球まで、地球人まで、同じような過ちを‥」

「お兄ちゃん‥」

パルは悲愴な表情を滲ませながら続ける。

「だから我々は、もうこの星から本格的に離れようとしている。原子体に戻れば君も僕もその宇宙船で、火星生まれの異星人として生きていくことになる。ただ、地球人のように死そのものが無いけどね。ただそこには一切の争いが無く、穏やかで平穏な日々が待っている。」

「異星人として‥生きる‥」

当然のことだが火星人としての記憶など全く無い私に、実感がわく筈もなかった。戸惑うばかりの私に、パルは優しく話を続ける。

「僕達の原子体は永遠に滅びない。故障することはあるが、それはその部分を組み換えればいいだけだ。地球の為にブラックホールに消えたパルもそうすれば復活出来る。」

「組み替える?あなた方はロボットなの?」

私の問にパルは淡々と答える。

「ある意味地球人の視点で見れば、そう見えるのかもしれないね。僕達は故郷を旅立った遠い昔から、退化した細胞を新しい原子に作り替えて生き続けてきたからね。だが我々には、地球人以上に深い感情があり傷付く心もある。悲しみや虚しさ‥地球上でそう表現出来る言葉は、決してロボットには無いものだ。」

「傷付く心は地球人にだってある。地球人だってロボットじゃない!」

思わず反論する私に、パルはあくまで冷静に言い放つ。

「人間をロボットのように支配しようとする連中がいるじゃないか?そんな連中がいる限り、この星は永久に救われない。独裁者は絶える事なくこの星に出現する。彼等は一切他人の傷みを思いやる事なく、自分の支配を正当化しようと多くの人間をロボットのように扱い苦しめ続ける‥」

「確かに‥そうかもしれない‥」

私は下を向くしかなかった。そして静かに口を開く。

「あなたは私にどうするか決めろと言ってるのね。わからない‥わからないわ。地球の平和な未来を願ったあなた方の期待を、地球人は結果的に裏切ってしまったことになる。それは本当に済まないことだし、あなた方が怒るのも当然だわ。でも私は、自分が本当は異星人だと言われても困るだけなの。この星を心から愛しているから‥どんな事があってもこの星を離れようとは思わない。絶対に‥」

私は心を込めて必死にパルに訴えた。そしていつしか、自分の目に涙が浮かんでいるのを感じた。地球人だからこそこの涙は溢れるのだ。絶対にこの星を離れることは出来ない!彼等に見捨てられても当然の愚かなことを地球人はしてしまったが、それでもこの星は私の故郷‥火星ではない、この地球こそ私の故郷なのだ。懸命に訴える私の姿にパルはため息をつくと、ゆっくり口を開いた。

「やっぱりね‥」

「やっぱり?」

「そう‥君と同じ立場の地球育ちの火星人は、みんなそう訴えてる。君もそうだ。母星といっても火星人であった記憶も無いのに今更異星人として宇宙に旅立つなど、みんな出来る筈も無いんだ。」

「パル‥」

予期してた通りの反応を見せた私にパルこと誠一郎は呟くように言うと、その後何故か寂しげな表情を見せた。パルは一体どうするのだろうか‥私は勿論気になったが、彼の気持ちを知るのが怖いような気がしてどうしても訊く事が出来なかった。そんな私にパルこと誠一郎は暫く沈黙していたが、やがて踏ん切りをつけたように強い口調で口を開く。

「わかった‥仲間にはそう伝えよう。君と同じ立場の地球育ちの火星人も、きっと殆ど君と同じ選択をするだろう。君はこれからも異星人の命の種を持ち続けたまま、地球人として生き続けることになる。だが僕は、君と違って火星人の意識を持ったまま生き続けなければならない。ぼくが持つ通信装置は簡単には外す事は出来ない。仲間に外してもらわねばならないが、彼等はしてくれないだろう。仲間の安否は彼等とて気になる筈だからね。だからこれからもずっと、今までのように僕は永遠に君を見守り続けることになる。」

「見守り続ける?それじゃパル、ううん、お兄ちゃん!お兄ちゃんも地球に残ってくれるの?」

今まで通りパルをお兄ちゃんとして接する事が出来る。私は一筋の希望を抱いたが、パルの表情は暗いままだった。

「お兄ちゃん‥?」

「あっ‥ううん、僕も地球に残ることになる。僕には仲間から託された使命があるからね。でも、これからも君と僕は生まれ変わりながら永遠の巡り合いが続くのだと思うと、何か虚しい気持ちにもなってね。仲の良い知り合いであったり、時には大切な肉視でもあり、又今回のように頼りになるお兄ちゃんにもなる。だが、それ以上でも以下にもならない。僕と亜希子‥パルとレアの間には‥」

「レア‥それが異星人としての私と名前なのね。でも私には、異星人としての記憶は無い。パルは、巡り合ってももう今回のように語ってくれた事実を私に話すことはないの?」

「それは僕達には許されていない。時を止めている今の空間だからこそ話せることだ。緊急事態だったからね。でも時が動き出せば君は僕から聞いたことを全て忘れ、僕をいつものように頼りになるお兄ちゃんとしてしか見ないだろう。」

「パル‥あなたはそれでいいのね?」

パルこと誠一郎は、私の問に強い口調で答える。

「構わない!連絡こそ取れるが、彼等はもうこの星には戻って来ないんだ!僕達はこれから、異星人ではなく気持ちの上でも地球人としてしっかり生きていく。その為に僕は僕でけじめをつけたかったんだ‥」

「お兄ちゃん‥」

パルの口調の激しさに私は戸惑ったが、彼は彼なりに心の葛藤があることを同時に痛い程理解することが出来た。異星人の意識があるまま、パルはこれからも地球人として生きていかなければならないのだ。それがどんなに苦しく辛いことなのか、彼の気持ちがわかるだけに私は言うべき言葉が見つからなかった。暫く沈黙が続いた後、気持ちの整理がついたのかパルこと誠一郎は再び口を開くとこれからのことを静かに語り始めた。

「永遠の巡り合いが始まるんだね。これからも‥君と僕‥パルとレアの‥」

「お兄ちゃん‥」

「僕には、何度も生まれ変わってきた君の様々な時代の姿が思い出されて‥火星人の原子体には、地球上でいう男女のような性の区別は無い。原子体と原子体の結合によって新しい命の種ともいうべき結合体は生み出されるが、そこには地球上でいう結婚に至るような相思相愛のラブ‥つまり愛情といった感情は生まれない。勿論仲間を大切に思う気持ちはあるが、好きといった感情ではない。だが僕達は違う。少なくとも地球人として生きてきた僕達には、当然のように地球人が抱く愛情が生まれるもの、生まれて当然なんだ。」

「お兄ちゃん‥」

レアである私を見つめる彼の目は、何故かひどく寂しげで切ないものだった。私は自然に記憶の奥底にある筈の、いつも自分を見守ってくれていた誰かの存在を何とか思い出そうとしていた。

ある時は兄、ある時は幼馴染み、そしてある時は‥とにかくいつの時代も、姿を見ただけで安心して笑顔を見せる事が出来る存在があったのだ。あれがパルだったのだろうか‥

「レア‥」

ふとお兄ちゃんが私を異星人の名前で呼んだ。そして私もパルを見る。不思議なことに異星人の名前で呼ばれても全く違和感は無かった。パルは気を取り直すように、そして又自分を励ますように言葉を繋いだ。

「僕達はこのまま地球人として生きていく。地球には僕達と同じ立場の人間もいるが、彼らと触れ合っても君は気付く事は出来ない。僕にはわかるが‥そして僕は、これからも君が生まれ変わる度に君のすぐ近くで君を見守っていくんだ。今までと同じように‥」

「パル‥」

「時が再び動き出せば、今の会話の全てが君の頭から消えることになる。それでも君は、僕にとって大切な人だ。恐らく今地球上にいる我々の仲間の誰よりも‥」

「お兄ちゃん‥」

私を見るパルの目は、益々寂しげに見えた。然し自分の心を奮い立たせるようにパルは語り続ける。

「これが多分地球人が抱くラブ‥愛情といった感情なのだろう。それだけ僕は、地球人に溶け込んできたということかな。僕はずっと君を好きだった。何千年も何百年も君を見続けてきて、この感情を抱くようになった。だがそれは、異星人として生きていく為にはある意味不必要な思い‥持つべきものではなかったんだ。仲間からもそう言われた。完璧に地球人として生きていける君達と違って、僕達は絶対に地球人ソノモノにはなれないのだから余計な感情は抱くなと‥でも気持ちは抑えられない‥これからもこの気持ちを抱いたまま、僕は君レアとの永遠の巡りあいを続け無けならない。そう考えると虚しさもあるが、どうすることも出来ない‥」

「パル‥」

私にはその時漸くパルの寂しげな表情の意味がわかったような気がした。同時にパルが私に抱いていたのと同じ思いを、間違いなく私もパルに抱いていることを自覚していた。この出来事が起きた時、最初に聞いたあのギリの声とは別にパルの存在を意識した時から、私には何故か不思議な程の安堵感あったのだ。私も確かにパルに好意を寄せている。今まで幾度となく繰り返されてきた巡りあいの中で、ずっと彼を愛し続けてきたのだ。たとえ完全に思い出せなくても‥これまで通り地球人としていくという彼の決意を知って嬉しく思ったのは、やはり、否絶対に彼と離れたくなかったからなのだ。

「お兄ちゃん‥」

ふと見るとパルは、何故か目を閉じて微動だにしない。私は不安に駆られたが、黙って待つしかなかった。暫くそのまま目を閉じていたパルは、漸く目を開けると静かに口をした。

「今、仲間に僕達の意志を伝えた。僕達の仲間は太陽系から永久に去り、二度と僕達の所へは戻って来ないそうだ。仲間の落胆ぶりは理解出来る。彼らが落ち込むのは当然なんだ。彼らは遠い昔火星を去る時、いずれ故郷に戻って来れる日がくるように、そしてまだ生命が生まれたばかりの地球を見守る為にもこの星に生命の種を残して旅立ったんだ。それなのに‥地球人は自我に固執し自分達の科学力におぼれ、自滅の道を辿ろうとした。仲間が怒るのも無理はない。」

「もう二度と来てくれないの。地球人にも素晴らしい人達は沢山いるわ!そんな人達が正当な手段で力を得て秩序を保てば、真の平和を取り戻せるかもしれないのに」

「無理だ‥もう時間切れだ‥」

パルは私の言葉に即答すると、名残惜しそうにゆっくり口を開いた。

「時間だ‥時を戻さなければならない‥」

「時間を‥戻す?」

何もかもが静止している世界で、私は二人だけが言葉を交わしているような気がしていたが、現実ではこの星で火星の原子を持つ者同士が思いも寄らない事態に直面したこの星の未来に自分達で未来を重ね合わせ、自分達はどんな道を選ぶのか‥大切な話し合いはそれぞれ続いていたのだ。勿論私は自分とパルの事しか頭になかったが‥そんな掛け替えのない時間が終わろうとしている‥私は堪らない気持ちになり、縋るような目でお兄ちゃんを見て訴えた。

「時間を戻したら、私は今あった事を全て忘れてしまうんでしょう?ギリのこともあなたがパルであることも‥あなたはそのままなのに‥そして私は、これから地球人そのものになって生きていくの?あなたのことも私が本当は火星人の原子体を持つ異星人であることも、そして地球の危機をギリが命を捨ててまで救ってくれたことも何もかも忘れてしまうの?」

覚えていたい。少なくとも何度も生まれ変わりながらその度に自分を見守ってくれてきたパルの存在だけでも‥

忘れたくないのだ。私は心から願い、パルの存在だけでも記憶から消さないでくれと必死に訴えた。だがパルは、そんな私に悲しそうな表情のまま首を横に振るだけだった。暫くして気を取り直したのか、涙を浮かべる私を励ますようにお兄ちゃんは明るい声で口を開いた。それは同時に自分を奮い立たせるようにも思えた。

「いいかい?これは決して別れじゃないんだよ。これからも君と僕は会えるんだ。この先繰り返されるそれぞれの人生で、何度も巡り会うことになる。これは新たなる人生の始まりなんだ。君の今の記憶は無くなるが、君を見守る僕という存在は必ず感じ取れるようになる。」

「それは本当なの?記憶が消えても‥?」

「ああ、僕はいつでも君のそばにいる。だから心配しないで‥さよなら、レアである君とはもうお別れだ‥もうレアとは呼べない‥」

「お兄ちゃん!」

パルの声を聞きながら私は周囲を白い霧のようなものが覆うのがわかった。

「これは‥」

意識があるのはそこまでだった。パルの姿が次第に薄れ、見えなくなったかと思うと次の瞬間‥その時はいきなりきた‥

「お母さん、何してるの?お弁当早く!学校に遅れちゃう!」

娘の理恵の声がぼんやり突っ立ってる亜希子を急かす。

「えっええ‥ごめんなさい‥」

「どうしたんだ?ぼんやりして‥」

「いえ、何でもないわ‥お弁当ね!はい!」

出勤の身支度で忙しそうな夫の正史が声をかけるが、それまでの出来事が全て記憶から消し去られている亜希子はすぐに平凡な主婦としての日常を取り戻し、いつものように朝の食卓を忙しく動き回るのだった。

「行ってきます!」朝食を終え会社や学校に行くそれぞれの声に「行ってらっしゃい!」と同じ調子で答えながら、亜希子はいつも通り食卓の片付けに追われる。するとテレビのニュースで意外な内容が流れていた。ミサイルや核開発等で全世界を威嚇し続けていた軍事独裁国家のトップが、何といきなり態度を改め全世界に謝罪しこれから核開発は決して行わないし、ミサイルも一切放棄すると宣言したという。

(どういう風の吹き回し?あれだけ自分達は負けない、核保有国になる為に核開発は続けるって息巻いていたのに‥)テレビを見ながら亜希子は思わずそう呟いたが、それでもやはり安堵感に満ちた苦笑いが顔に出る。

(でもすっごく緊張してたのよね。最近の世界は不穏な動きばかり目について‥あの国実質的に国の中は目茶苦茶らしいし、自棄になって核のボタンとか押し兼ねない様子だったもの‥)

恐らく今朝のニュースを見て安堵してるのは亜希子だけではないだろう。隣国といえる位置にあるだけに暴発するような事があれば、日本全土に被害が及ぶのは目に見えている。多分ニュースを見ている国民の殆どがホッとしているに違いない‥

と、その時だった。いきなり電話が鳴り、何故か亜希子はただの電話なのに思いの外ドキッとしたのだった。すぐに受話器を取ると、そこからは従兄弟であり幼い頃からお兄ちゃんと慕ってきた誠一郎の声が聴こえてきた。彼、田村誠一郎は大学で地質学を教えていて、世界各地を研究や調査で飛び回っている。四十代も半ばなのにまだ独身で、亜希子は会う度に恒例行事のように結婚を急かすのだった。その実一人っ子である亜希子にとって誠一郎は兄のような存在であり、彼が結婚するなど本当は考えたくない心境だった。

「あっ、お兄ちゃん久し振り‥確か仕事で外国に行ってたんじゃ‥帰って来たの?」

「亜希ちゃんか‥朝一番の便でさっきブラジルから着いたんだ。チャリで帰るとこなんだが、腹ペコで亜紀ちゃんとこでお握りでも食べれないかなと思って‥今、近くにいるんだ。」

「まあまあ‥時差ボケも何のその、南米から帰ったら即チャリで都内まで帰るなんてどこまでバイタリティあるんだか‥」

誠一郎の職場である大学は亜希子の家から割と近く、彼女は兄とも慕う彼の為によく食事を振る舞ったりしていた。そして今日もいきなり‥

「お嫁さんもらわなきゃね、いい加減‥」

呆れたように答えたものの、誠一郎が来るなら喜んでお握りを握る。そんな亜希子だったが、何故か今日だけはいつもと違うような何か不思議な違和感に囚われたのだった。

「何だろう‥?」考えてもわからない。大好きなお兄ちゃん、子供の頃から兄のように慕ってきた大好きな従兄弟‥自分には確かにずっと自分を見守ってきてくれた心の拠り所ともいえる優しい存在があった。亜希子は何故今日はいつも以上に誠一郎のことを意識するのか、自分でもわからなかった。ただこれだけは言える。自分にはいつも見守ってくれた優しい眼差しがあったような気がする。事実あったのだ。それは親?知り合い?今はお兄ちゃん?亜希子はその時、何故かとてつもなく大切なことを自分は忘れてしまってるような気がした。それが何か?どうしても思い出せない。だがその時、ピンポーン!玄関のベルが鳴った。

「はあーい!」

インターホーンの先には大好きなお兄ちゃんがいた。いくつになっても変わらぬ笑顔で亜希子を見つめてくれていた。(了)

永遠の邂逅第二章

エマは内心どうしょうもなく落ち込むのを、自分でもどうする事も出来なかった。以前から恋心を抱いていた学友のラウルには既に故郷に許嫁がいる。そう聞かされた時、自分の彼への思いが片思いでしかない事実を嫌という程思い知らされたからだ。その上自分と彼との立場の違い‥自分の身内の名を彼に正直に明かせない現実も今のエマの心をどん底に追いやっていた。エマは家族を捨てて身一つで自由の国に出国したつもりだったが、現実では家族との繫がりは切れていない。そう簡単に切れるものではなかったのだ。エマの父親は共産主義国家のトップを何年も務めていて世界中から間違いなく独裁者と見られている人物だった。自由を求める人達を様々な名目で弾圧し、自由主義国家を人間社会の驕りの境地と批判する‥それが証拠に自由主義国家では汚職や賄賂が横行してるではないかと彼はよく口にしていた。

そんな父親を嫌い厳しい監視の目を掻い潜って国外に脱出する‥幼い頃からのエマの望みだった。それは彼女の亡くなった母ミーシャの願いでもあった。病気になってからも母親はよく冷酷な独裁者となった父エステバンのことを心配し、こう言って嘆いていたものである。

「昔はあんな人じゃなかった‥もっと穏やかでも優しい人だったのに、何故あんな頑なで冷たい人になってしまったのかしら‥私はあの人とリカルド、そしてあなたと親子四人で平凡でも幸せに暮らしていければそれで良かったのに‥」

そう口にする度必ず母の目には涙が滲む。リカルドというのはエマの四つ年上の兄だが、父を否定する妹と違って彼はすっかり父親の思想に染まっていた。一国の首相となり強権を奮う父は正しいと、間違いなく信じ込んでいた。それでも留学という名目で、娘が国外に出る事を何故か認めてくれた父だった。

エマは留学先として世界の超大国アメリカを望んでいたが、叶わなかった。留学は許しても留学先は親に勝手に決められた。それはフランス、何故フランスなのかわからなかったが何より国外に出る事が先決、エマは父親の決めた事に従うしかなかった。そしていよいよ留学する日が近づいた前々日の夜、母の遺影を手に感慨にふけっていたエマの部屋を兄のリカルドが珍しく訪れた。

「お兄ちゃん、珍しいわね!どうしたの?いきなり‥」

「ううん、父さんもどうかしてるよ!僕より先に妹のお前を外国に行かせるなんてな!それも父さんを批判してる西欧の自由主義国にだよ!」

「頭の出来が違うんだもの仕方がないじゃない。それにお兄ちゃんには近くにいて今の自分を支えて欲しいんじゃないの?」

エマの言葉にリカルドは戸惑った様子を見せたが、それでも妹に西欧の自由主義にかぶれる事なく帰って来るのを望んでいると釘を刺すのも忘れなかった。

「自由や民主主義を求める奴らは真面目に働く我々のような労働者と違って実に上手く立ち回る。批判されれば真面目にやってると反論するが、その実彼らの世界は賄賂や汚職が横行している。上手く立ち回れる連中だけに都合のいい世界だ‥」

余りにも一方的な主張だと感じエマは思わず口を尖らせる。

「一方的な見方だと思うわ!自由主義社会がそんな腐った社会なら私達の国の方がずっと発展してる筈よ!でも現実はどう?彼らの世界の方が裕福であり幸せそうに見えるけど‥」

火に油を注ぐ妹の反論にリカルドは更にエスカレートして反論しようとするが、エマはもう相手にする気にもならなかった。怒鳴る兄を尻目に留学先の大学に提出する書類や引っ越しの準備を黙々と続けるのだった。

(でも‥)確かに気にはなる。何故父は自分の留学を許してくれたのだろうか‥兄と同じように娘も民主主義を否定する人間になって欲しいと願って?まさか‥

答えが出る筈もなかったが、エマはとにかく自分の信じる道を歩くしかないと自分自身に言い聞かせ急かされるように留学先に旅立ったのだった。

エマは留学先の大学に自分の素性は出来る限り他の学生には明かさないように頼んでいた。頭脳明晰で兄のリカルドより学校での成績がかなり優秀なエマは、その気になればフランスの有名大学を受験し合格する可能性も十分あったのだが、何より素性を知られた時のリスクを考え、あまり名の知られていない地方の大学を選んだ。それでも息が詰まるような父と兄との暮らしから離れられる事の喜びを留学当初彼女は痛い程感じていた。

勉強は元々好きであり自分の知らなかった知識が憧れの自由主義社会で大いに学べるのはこの上無い喜びだった。手元にある母の遺影にいつも語りかける。

「お母さん、やっと来れたわ‥お父さんに感謝しなきゃいけないんでしょうね!国でのあの人には正直いい感情は持てないんだけど‥」

すると反論する母ミーシャの柔らかい声が聞こえてくるような気がする。

「お父さんを理解してあげてって言っても無理かもしれないけど、昔の穏やかで優しかったあの人に戻ってくれる為にはあなたの力が必要だと思うの。とにかくあなたらしく一生懸命頑張って‥」

「お母さん‥」母を思うと思わず涙が溢れる。母の思い出には浸らずにはおれないが、学費や生活費を送ってくれる父の事は今は考えないようにしていた。どんなに働いて留学の必要経費を全て自分で稼ごうとしても、バイトの経験等皆無のエマには現実では無理な事だった。それに働かないのが父エステバンから提示された留学の条件だったのだ。それでも折角与えられたチヤンス、エマは学業に励み貪欲に留学先の大学で自分の知らない知識を貪った。いよいよ学業三昧の毎日が始まったが、エマは十分満足していた。毎日大学と自宅アパートの往復、半で押したような規則正しい生活だったがそれでも自由な世界で暮らせる毎日がエマは楽しかった。だがそんな中でも学友は出来るもの、美人ながらあまり人付き合いをしようとしないエマは、いつしか机を共にする同級生からミステリアスな女子大生と見られるようになリ本人の意識しないまま目立つ存在になっていた。自分の素性を余り他人には知られたくなかったエマは、出来るだけ他の学生と接触しないように努めていたが、そんな彼女の意識を変えてくれたのが生まれて初めて恋心を抱いた学友のラウルだった。そして何と驚く事に彼はエマの素性を知っていたのだ。

「君は今夜の親睦会行かないの?」

不意に声をかけられエマは酷く驚いた。授業を終えて教室を出ようとしていた彼女はいつものようにアパートへ帰る為に靴箱に手を伸ばそうとしていたが、ラウルの明らかに自分に向けられた質問に戸惑いつつ口を開く。

「私に聞いてるの?」「勿論!」

欧米系というよりどちらかと言えばアジア系の顔立ちで際立ってハンサムという訳でもないが、どちらかといえば可愛い顔立ちをしているラウルは、人懐っこい笑みを浮かべてエマを見ている。

「親睦を兼ねた会合、まあ飲み会なんだけどね!毎月あってるけど、君一度も参加した事ないよね!同じ大学に学ぶ者同士、大いに話してもっと親しくなろうよ!勉強も大事だけど青春楽しまなきゃ!」

こういう誘いは以前にも何度かあった。エマはその度に答えてきた言葉を繰り返し断ろうとしたが、その前にラウルは何と驚くべき言葉を口にした。

「君の出身国が何処であろうと君の親が誰であろうと、今の君に関係無いと思うよ!そんなに構えないで!君は君なんだから‥」

「えっ‥」エマは自分の耳を疑った。まるでエマの父親が誰なのか知ってるような口ぶり‥

「あなたは‥もしかして‥私の親を‥知ってるの?」

恐る恐る口にしたエマの問いだが、ラウルの信じられない位の明るい口調の返答

が待っていた。

「ああ、でも大丈夫だよ!誰にも喋ったりしないから‥僕にだって誰にも知られたくない秘密がある‥お互い様だよ!でも僕が君の素姓を知ってるのに、君が知らないと言うのは不公平だよね!だから僕の素姓も話せる囲内で話すよ!僕は生まれた国を捨てて亡命してきた人間なんだ。」

「えっ‥」エマはラウルの思いも寄らない告白に返す言葉が見つからず絶句した。まるで‥

「まるで今の君と僕の立範場、正反対とか思ってる?」

エマの思いを見透かしたようにラウルは語りかける。

「僕は自分のやりたい事の為に亡命した。君は自由な世界で学ぶ為にこの国に来たんだろう?お互い縛られる事なく、自分の為に生きようよ!頑張ろうよ!」

「いきなり‥いきなリそんな風に言われても‥」

戸惑うエマにラウルは更に優しく続ける‥

「僕の国の国民は殆どが貧しくてね。でも大富豪って連中もいる、貧富の差が大きいんだ。其上どんなに不満に思ってても誰もその不満を口にする事も出来ない。お役人に捕まってしまうからね‥」「そんな‥」

どこかで聞いたような国のあり様‥でも‥エマは思った。自分の祖国はそこまで酷くはない。確かに父エステバンは強い権力を持ってはいるが、彼は決してそれを個人の欲望の為にだけ使おうとする人間ではなかった。エマは知らず知らずのうちに父親を擁護している自分自身に驚いたが、そんなエマに構わずラウルは話を続ける。

「僕の父親は僕の住んでいた地域のリーダーでね、面倒見のいいみんなから頼りにされる優しい人間だった。特に権力に対して公に刃向かった訳でもないのに、逮捕され今勾留されてる。お役人に口答えした地域の若い連中を庇っただけなのに‥」

「僕は幸いフランスに頼りになる親族がいるので母が亡命という形で国を出る事を勧めてくれた。勿論母一人残して行く訳にはいかないって拒んだけど、母にはお前が私の希望なのだから行ってくれって地面に額を擦りつけられる程頼まれたよ‥其れで今の僕がある‥一応母とは連絡がとりあえる状態だからね、安心はしてるけど‥」

「ラウル‥」エマを見るラウルの瞳は悲しみに溢れていたが、彼はそんな思いを打ち消すように大きく首を振ると明るい口調で自分の身の上話を締めくくるのだった。

「そう‥それで?何故あなたが私の素姓を知ってるの?誰から聞いたの?」

ラウルの事はわかった。彼の母を思う気持ちも理解出来る。だがそんな彼が何故エマの事を知っているのか、彼女が疑問に思うのは当然だった。然しラウルは決してその事については詳しく話そうとはしなかった。彼は言葉を濁しながらもエマも含めた自分達の未来について明るく話を続けるのだった。

「迷惑をかけるかもしれないので、悪いが仲間の事は君にも話せない。でも心配しなくていい。僕は君の事を他の誰にも話すつもりは無いから‥ただ、君が余りにも頑なな姿勢で学生生活を送っていたからもっと青春楽しむべきだよと言ってあげたかったんだ!」

「学生だもの、勉強に集中するのは当然だと思うけど?」

思わず口を尖らせるエマの顔に爆笑しながらラウルは答える。

「ごめん、ごめん‥いやあ、君もそんな顔するんだね!安心したっていうか‥」

「私をバカにしてるの?」思わず声を張り上げるエマだったが、ラウルはあくまで冷静で楽しそうに語り続けるのだった。

「ミステリアスな美女、君は同級生からそう呼ばれてるの知らないのかい?言い寄ってくる男も寄せ付けず只管便利三昧、君は美人だし今のままでも君はしっかり目立ってるんだけど‥」

「目立って?」それは困ると思いつつ自分の苦境を物ともしないラウルの明る過ぎる口調に、エマは知らず知らずのうちに引き込まれるのだった。彼は更に続ける。

「君は自分の国の現状に不満があるのなら、ここで大いに知識と経験を培って帰国したら自分の国をいい方向に変えるように励めばいい。言っちゃ何だが君の国は僕の祖国よりずっとマシだと思うよ。独裁国家のように言われてるが、君の国で国民は弾圧されてない。君の父親が誰かわかってもみんな多分君を否定したりしないと思う。」

「本当に?」エマの問いにラウルは大きく頷いて答える。

「君は君、父親が誰だからといってそう簡単に態度を変えるような軽率な連中じゃないよ、みんなは‥まあ全てがそうじゃないかもしれないが‥とにかく、一度親睦会に参加してみない?スッごく楽しいよ!ええっと今度は来週の金曜日の夜だね!一応行く方向でリーダーには言っとくよ!時間と場所は後でメールするから宜しく!」

「あっ‥待って!」一方的に自分の意向だけ伝えると、ラウルはエマの返事も聞かずに彼女の前から足早に去っていった。

「メールって‥」変な事を言う、エマの携帯電話番号やメールアドレス等ラウルは知らない筈なのに‥

それに彼の言う仲間って‥何が何やら分からぬまま、エマはラウルの後を追う事も出来ずその場に立ち尽くしていた。確かに彼の言う通り、余り構えて自分から同級生との間に壁を作るべきではないかもしれない。そんな思いはエマの心の片隅にはあったのだ。街のカフェ等で楽しそうに語り合う同年代の若者を見ると、たまには自分も羽目を外してみたいとそんな思いに駆られる事もあった。だが‥彼が何故自分のメールアドレスを知ってるのか‥

親睦会に行ったら楽しめるかも、今までに無い体験が出来るかもという期待と自分の素性を何故か知ってる疑惑が半ば共存する心境でラウルに会う機会も無く、親睦会が行われるという金曜の前日、確かにエマのケータイにメールはあった。

「親睦会は午後7時から、場所は‥わかるかな?大学に一番近いレモンというカフェで‥」

メールを読み返しながらエマは、レモンという変わった店名のカフェの存在を思い出していた。「行くか‥」

行かなければ今のところラウルに会えない。それにコンパとも呼ばれる親睦会の実態がどんなものか、大いに興味があった。ところが‥極端な緊張と戸惑いの狭間で出掛けたものの、肝心のラウルが姿を現す事が無かったのである。

「初参加だね!ラウルから聞いてるよ!よく来たね!残念ながらラウルは急用が出来て来られないそうだけど‥」「えっ‥?」

親睦会を仕切っているリーダーらしい男性は、初参加のエマに明るく声をかけたが同時に彼女が落胆する言葉をさらりと言ってのけた。ペーターという名前の彼は、エマの落胆ぶりなど全く意に介さないようにその場にいる仲間に明るい声で彼女を紹介した。

「謎めいた美女がやっと僕たちのコンパに来てくれたよ、まあ誘おうと熱心に言ってたのはラウルなんだけどね!」

「そのラウルが何故今日来てないの?あれほど熱心に誘うつもりだと言ってた彼女がこの通り来てくれたというのに‥」

男性五名、女性はエマを入れて四名というグループで、派手な化粧の女性が口を挟む。だがエマが最も聞きたいこの質問にペーターもはっきりしない答えを口にするだけだった。

「うっ‥うん‥それがよくわからないんだ。何か大事な急用が出来たというだけで‥ エマ、いいだろう?呼び捨てで‥エマにしろラウルにしろ謎めいた学生かもしれないけど、僕達は決して変な目で見たりしない。ラウルはとってもいい奴だし、君も変に気取った所の無い真面目な学生さんだ。同じ大学に学ぶ者として、僕達は今のこの時を一緒に楽しんで謳歌したいんだ。」

ラウルと同じような優しい眼差し‥エマはペーターの言葉にホッとする思いだった。

「わっ私は‥」何と言っていいのかわからず口籠るエマにペーターの隣にいた男がグラスを握らせる。グラスには明らかにお酒と見られる液体が適量注がれていた。彼は小声でエマに囁いた。

「ワインですが飲めない方じゃないんでしょう?女性だからワインの方がいいかなと思ってね!もし飲めなかったら一口口をつけてくれたらいいから‥さあ、乾杯だよ!」

「乾杯?何に?」何かおめでたい事でも会ったのかとキョトンとした顔で問うエマにペーターは苦笑しながら明るく答える。

「こうやってみんなが集まった時は先ず乾杯から始める‥そしてみんなお互い話しながら親睦を深める。男女が時には恋愛関係にも発展する事もあるかな‥」

これが普通にみんなが過ごしている毎日、これが普通の学生生活‥エマは新しい世界に触れる事が出来て心から良かったと思えた。そんな自分の心境の変化に自分でも驚いたエマだった。以前の自分なら学生のくせになにを遊んでばかり、ダラダラしてと彼らに白い目を向けていたかもしれない‥だが、今の彼女は違った。今この時が自分にとってかけがえのない時間だという事をエマは強く認識出来ていた。その時だった。ペーターと先程エマにグラスを握らせてくれた男との会話に、ラウルという言葉が出たのをエマは聞き逃さなかった。

「ラウルの母国で起きた大規模な洪水被害はどうだった?彼の家族は大丈夫だったのかい?」

「えっ‥」二人の会話はどうやらラウルの出身国で起きたという自然災害について彼や彼の家族の安否を気に掛けるもののようだ。

「そういえば‥」確かに中央アジアの小国で大規模な水害が起きており、かなりの被害が出ているというニュースをつい最近耳にした事がある。確かに独裁政権で知られるこの国は小国ながらも天然資源には恵まれていたが、その利権は支配する側や一部の富裕層に牛耳られていて、多くの国民は貧しい生活を強いられていた。

「ラウルの母国ってあの国なのか‥」何となく納得したエマだったが、二人が次に口にした言葉に思わずドキッとさせられた。

「彼の恋人も大丈夫だったのかい?何か連絡が取れないとあいつ、かなり心配してようだが‥」(えっ‥、恋人‥)

聞かれているとも知らず!二人の会話は続く。

「家族とは連絡は取れたようだが、恋人とは未だに‥」

「そりゃ心配だな‥」二人の会話をぼおっと聞いていたエマは、複雑な思いに駆られた。

(何を焦ってるの?エマ‥ラウルに恋人がいたって別に不思議な事じゃないのに‥)

一度しか会って話した事はないのに、エマの心中には何故かラウルの存在が大きく位置を占めるようになっていた。自覚は殆ど無いものの、ラウルを気にするエマの思いは初恋と呼べるものかもしれなかった。然し今、その現実を彼女はまだ知る由もなかった。いずれにせよ二人は出会う運命にあったと言っても過言ではなかったかもしれない。

初めて参加した親睦会は、何よりラウルに会うという重要な目的は達する事は出来なかったが、今まで大学と自宅アパートとの往復を繰り返し狭い範囲で慎ましく生活してきたエマにとって新しい新鮮な体験となった。だが生来の生真面目さ故に留学させてくれてる家族や、祖国の国民にすら親睦会に参加する事が悪い事のように思えて気が引けるのをエマはどうする事も出来なかった。然しそんなエマに気にする事はない、学生なら当たり前の生活であり、毎日を勉学だけでなく、楽しく過ごすべきだと言ってくれたのもラウルだった。

「やあ、この前は来てくれたんだってね!それなのに僕が行けなくてごめんネ‥折角来てくれたのに‥」

「ラウル‥」いきなり肩を叩かれ振り返ると、そこにはラウルの人懐っこい極上の笑顔があった。

気になっていた人物の嵐のような登場にエマは驚き、胸の高まりを抑える事が出来なかった。それでも口を開くとエマは静かに答える。

「初めて参加したけど、とっても楽しかった‥ああいう事も学生なら楽しんでいいわけね‥あなたが来てくれると思ってたんだけど‥」

何故来てくれなかったのか‥責めたい思いを自分の心に包み込みながら、激しく揺れ動く心情とまるで正反対の穏やかな口調でエマは語り続ける。笑顔が似合うラウルだが、エマに答えるその表情には確かに少し陰りが浮かんだ。

「国が非常事態なんだ‥家族も大変な目に遭ってね‥」

「私、リーダーともう一人の会話を立ち聞きしたの。あなたの国、大規模な洪水被害に遭ってる中央アジアの‥あの国なんでしょう?」

「えっ‥」さすがに自分の境遇と今抱く心配事をすんなり言い当てられて、ラウルは驚いたようだった。だが彼はすぐにそれを受け入れ、ぽつりと呟く。

「そうか‥でも隠す事じゃないもんね!僕もだけど、君の素性もそうだよ!人間なんてこの生きてられる地球上で助け合って穏やかに暮らしていけばいいのに、何故啀み合うんだろうね!それでなくても自然災害も多いのに‥」

「ラウル‥」彼の表情には貧困だけでなく自然災害の脅威に晒されている同胞ともいうべき人達への思いが溢れていた。

彼は静かに口を開く。

「君の言う通りだ。僕の国ではここ数日雨が止まないでね‥酷い洪水となって国民を苦しめてる‥みんな貧しくてそれでなくとも毎日暮らしていくのがやっとなのに、何故神はこんなに弱い人々を苦しめるんだろうね‥裕福なのにそんな人達を救けようともしない連中もいる‥そんな奴らにこそ罰が下るべきなのに‥」

「ラウル‥」何と言っていいかわからず戸惑うエマに突然いかんいかんと自分に言い聞かせるように大きく首を振ると、ラウルはいつもの人懐っこい表現に戻って笑顔を見せた。

「どんな人にも不幸になるべきだってそんな言い方したらダメだよね!今の僕には心配するしか出来無いんだけど、それでも何とか家族とは連絡が取れてるから‥」

「ラウル‥」そういえば家族とは連絡が取れてるが恋人の安否だけはまだわからないと言ってたなあ‥あの時の二人の会話を思い出したエマは、その事について聞こうか迷ったがやはり尋ねる事は出来なかった。そんなエマにラウルは何故かしんみりとした口調で静かに語りかける。

「何故かわからないけど、僕は君のことが気になる。いや、最初はそうでも無かったのに‥何故か君のことは昔から知ってるような気がして‥」

もしかして口説いてるの?しっかり恋人がいるくせに‥少し呆れながら笑顔を返したエマだった。

「あなたには家族以上に安否が気になる人がいるんじゃないの?この前立ち聞きした会話にそんなニュアンスの言葉も聞いたわよ。」「えっ‥」

迷ったがしっかり口にしたエマの言葉にラウルはただ驚く。そんな彼にエマは静かに続けた。

「確かに恋人がいるって言ってたわ。あなたの私生活に私が入り込む事はしたらいけないんでしょうけど、恋人がいるのに私の事が気になるってどういうこと?」

思い切って尋ねたエマの言葉にラウルは何とも言えない表情を見せた。

「君の事が気になってたというのは事実だ。でもそれは自分でも説明出来ない恋愛感情抜きの複雑なもの、何というか、生まれる前から君の存在を知っていたような‥」

「まあ‥変なこと言うのね‥」思わず苦笑するエマに、ラウルはいきなりエマが思ってもみなかった言葉を口にした。

「まだみんなにも言ってないが、君にだけは打ち明けておこうかと思う‥」「えっ‥?」

「何故こんな気持ちになったのか自分でもわからない‥でも君には伝えておかなければならないような気がする。僕はやはりこの国でこのまま学生生活を続けるのは無理みたいなんだ‥」「えっ‥」それはどういう事?続けて尋ねたいが言葉が出ない。そんなエマにラウルは祖国の窮状を訴えると共に、その現状に帰国して自ら身を投じる決意を口にするのだった

「僕の国では国民の暮らしぶりなど全く気にする事なく権力を振るってる暴君がいる‥みんな何とか耐えていたが、そんな国民の窮状を更に厳しいものにしたのは今起きてる大規模洪水‥自然災害だ‥」

「ラウル‥」言うべき言葉が見つからず戸惑うばかりのエマに、ラウルは重苦しい表情で言葉を続ける。

「人間って本当に愚かな生き物だね‥昔学校で学んだがこの地球が生き物を育める奇跡の星になったのは正に奇跡的な確率で僕達地球人はそれを当然の事と思ってはいけないんだ。それなのに人間って本当に自惚れた愚かな存在に成り下がってしまった‥自分達がこの星の主と言わんばかりにやりたい放題‥平気で戦争を仕掛けたり、必要もないのに自分達と違うから従わないからと言って相手を傷つけたリ無視したり‥一日一日を何事も無く穏やかに過ごせる事がどれだけ恵まれた幸せな事か、わかろうとしない愚かな人間が多い‥」

「ホントにね‥」

以前祖国で起きた大地震で大切な身内を失った同級生の回顧録を図書館で読んだ事がある。彼女が味わった悲しみが切々と綴られていて、読んでいて魂が揺さぶられる思いがしたが、その内容にも確か同じ言葉が書かれていたとエマは思い出していた。だが、今最も知りたいのはラウルの気持ち、彼がこれから何をするつもりかという事だった。

「学校を‥やめるの?」恐る恐る尋ねてみたエマに、ラウルは最初言うか言うまいか迷ってたようだが、ゆっくり頷くと自分を鼓舞するように力強く言い放った。

「家族に危険が及びつつある‥僕だけが安全な場所にいる訳にはいかないと思う。勿論家族は今は戻って来るなと言ってるが‥」

「あなたが戻ってあなたの家族やあなたの国の国民の状態がいい方向に向かうの?」

「エマ‥?」ラウルは意外な事を言うという表情でエマの顔を見た。そんなラウルに構わずエマは続ける。

「私の父親はあなたの国の暴君程ではないかもしれないけど、やはり独裁者と言われてるわ‥母は病気で亡くなったけど、死ぬ前に昔はあんな誰にでも厳しい人ではなかった。もっと優しい人だったって言ってた‥それでも父は私の留学の願いを聞き入れて、自由主義社会に送り出してくれた‥父は確かに厳しい人だけど国を愛する心は持ってる‥責任感も‥そんな父がトップを務める私の国とあなたの国とは違う‥違いすぎる‥」

「エマ‥」何が言いたいのか自分でもはっきり分からぬまま、エマはラウルに語り続ける。

「あなたが無事でいてくれる事が何より大事だということ‥身の危険があるのに今大学をやめて帰国するなんて、リスクが高すぎる‥何より私はあなたには無事でいて欲しいの‥」

「エマ‥」二度しか会ってない人に何故ここまで強い感情を持つのか、エマは自分でも自分の気持ちがわからなかった。それははっきりラウルへの恋愛感情と言えるものだったが、実は二人には人以上に超越した関係があったのだ。だがその事実を知らないエマはラウルに祖国とはいえ危険な環境に戻るつもりなら、自分も冷静でいられない。何が何でも止めるつもりだと告げた。今のエマにはそう言う事しか出来なかった。

「君は何故そこまで‥」

ラウルは唖然とした表情でエマを見つめたが、やがて何も言葉を発する事なく柔らかい微笑みを見せてエマの前から去った。

「ラウル!」エマの彼を呼ぶ声が虚しく響いた。その時だった。エマの頭の片隅で確かに声が響いた。今までに聞いた事の無い低い声がエマの頭の中で思いがけない言葉を発した。

「駄目だ、君はラウルを好きになってはいけない。たとえ彼の生死がどうなろうと‥」「えっ‥?」

自分はどうかしてしまったのか‥確かに聞こえた、謎の声が‥それとも幻聴?いきなり混乱の極みに突き落とされたエマの耳に再び謎の声が響く。

「私の声は君にしか聞こえない。君は知的で冷静な女性の筈だ。落ち着いて私の話を聞いて欲しい。」

「何が‥」疑問を思わず声に出したエマだが、近くにいた女学生に変な顔をされて思わずハッとした。

確かに謎の声は自分にしか聞こえていないようだ。謎の声に自分の声で反応すれば周囲から変な目で見られるだけだ。暫く無言でエマは謎の声が再び聞こえてくるのを待ったが、声はそれっきりで何も聞こえてこなかった。エマは仕方なくそのままいつものように学生としての義務を果たす行動を取るしかなかった。心ここに有らずといった調子でアパートに帰宅したエマだったが、突然かかってきたケータイの着信音に思わずドキッとさせられた。

「はい‥」「あっ‥エマ?突然ゴメンな!」電話は祖国にいる兄のリカルドからだった。

「どうしたの?いきなり‥びっくりするじゃない!」

「お前がそう言える立場か?こっちからかけなければ碌にかけてこないくせに‥」

口を尖らす妹をそう叱ると、リカルドは落ち着いた口調で今度は妹に思いがけない事実を告げるのだった。

「いやね、正直言って父さんの具合が余り良くないんだ。持病をいくつも抱えているあんな身体で、国のトップという過酷な仕事をこなさなきゃならないからね‥」

「そんなに悪いの?主治医の先生は何て仰ってるの?」

独裁とも言われる体制をしき、厳しい政策で自由を求める国民をある程度抑圧してきた父だけに、今のエマは少なからず父エステバンとは距離を取っていた。

だが、さすがに娘として父の身体を気遣う気持ちはあった。それに‥独裁とはいっても父は決して権力者としての立場を自分に都合のいいように使ってはいなかった。厳しい政策を取りながら自由を求め抗議する国民の声を抑圧しながら、彼が国民の誰よりも働いているのは事実だったと言えよう‥そして、リカルドは父の健康状態を気遣う妹に思いがけない要求を突き付けた。だが一方でそれは子供として当然するべき事を言ってくれたものだった。

「エマ、一度帰って来ないか?親父を見舞ってやって欲しいんだ。親父は強がってはいるが、本当は心も身体もボロボロなんだ‥お前にも絶対会いたがってる‥」

「そんな‥」いつも真っ向から異なる意見をぶつける娘を顔を赤らめて怒鳴りつけていた厳しい父の顔が頭に浮かぶ。確かに弱音を吐けない立場にいる父だが、自分に本当に会いたがっているのだろうか‥戸惑う妹の迷いを見透かしたように、リカルドは話を続ける。

「強権で独裁的だと昔から父さんを非難してきたお前だが、本当は父さんが誰よりも国を思い国民の為に働いてきたことをお前だってわかってる筈だ。みんなが平等に豊かになる、父さんはそんな国を目指して懸命にトップとしてこの国の政治の舵取りをしてきた‥勿論自分達だけが金儲けに走ろうとする連中にとっては父さんは厄介な存在だっただろうが‥」

「でも父さんは言論や思想信条の自由も認めなかった‥それはやり過ぎじゃないの?人はロボットじゃないのよ?」